英雄達に抵抗した氐族苻氏 後編 姚萇と苻登

淝水の戦いで前秦が崩壊した後、華北を牽引したのは慕容垂と姚萇である。
だが、彼ら2人の前には氐族苻氏が立ちふさがった。
五胡を代表する英雄達を前に、華北の主導権を失った苻氏はどのように抵抗したのだろうか。資治通鑑で時系列を追ってみることにした。
後編は姚萇に対する苻登の抵抗を取り上げる。
前秦・後秦に関わる記述を主に抜粋したが、東晋・北魏・後燕など天下の趨勢に関わる記述も適宜取り上げている。長文となった。
年は西暦に置き換えたが、月は旧暦のままとする。

386年
10月、前秦の南安王である苻登は南安(甘粛省定西市付近)で勝利し、漢族・異民族で彼に帰順する者達は3万余戸に及んでいた。ついに進軍して秦州(甘粛省天水市付近)の姚碩徳を攻め、姚萇が自ら姚碩徳の救援に当たった。苻登は姚萇と胡奴阜(甘粛省天水市の西部)で戦い、大いにこれを破り、斬首は2万余り。前秦将軍の啖青が姚萇を射かけ、当たった。姚萇の傷は重く、逃走して上邽(甘粛省天水市秦州区)にこもり、姚碩徳が代わりに軍を統率した。
北魏の拓跋珪は叔父の拓跋窟咄に圧迫されていたが、後燕の慕容麟と合同で拓跋窟咄を攻撃し、大勝した。拓跋窟咄は劉衛辰(匈奴鉄弗部の部族長で、赫連勃勃の父)の許へ逃げたが、劉衛辰に殺された。劉衛辰は強勢で、後秦・西燕の双方から任官された。

11月、前秦の尚書である寇遺は、渤海王・苻懿と済北王・苻昶を奉じて、杏城(陝西省延安市黄陵県の南西部)から南安へ移った。南安王・苻登は服喪し、苻丕の諡号を哀平皇帝とした。苻登は苻懿を立てて、国主に据えるべく議論したが、皆言った「渤海王は先帝の子であるが、まだ幼若で、国難に堪えられない。いま三虜(後秦・後燕・西燕)が我が国の隙をうかがっており、年長者を君主に立て、大王としなければ不可である」
苻登は、隴東(甘粛省慶陽市と甘粛省平涼市にまたがるエリア)に壇を設けて皇帝に即位し、大赦・改元し、百官を設置した。
西燕に身を寄せていた慕容柔・慕容盛・慕容会が後燕に亡命した。西燕の慕容永は、慕容儁・慕容垂の子孫を悉く誅殺した。

12月、苻登は世祖(苻堅)の神像を軍中に立て、ついたての有る車に乗せ、黄色の旗・青い日よけ(ともに天子が用い、吉兆を指すこともある)で飾り、虎賁(皇帝の近衛兵)3百に護衛させた。何かを行いたい時は、必ずこの神像にお伺いをたててから行った。兵5万を引率して、東の後秦を攻撃し、将兵はみな矛や鎧に「死」「休」と刻字した。戦う度に武器を並べて大きな円陣や方陣を作り、不均一なところは内部から分配した。人々は自発的に戦い、向かうところ敵なし。
姚萇は王の儀礼で苻堅を葬ったが、墓所の周囲を治めていた徐嵩と胡空が苻登の即位に伴い前秦へ降った。苻登は苻堅を改葬し、天子の礼とした。
後燕の慕容垂は、清河(河北省南部と山東省北西部にまたがるエリア)で反逆した呉深に攻め勝ち、呉深は単身で逃走した。慕容垂は軍を進め、温詳(かつて後燕を裏切って東晋についた)の居る東阿(山東省聊城市東阿県)に諸王を派遣した。
慕容垂は魏王の拓跋珪に西単于・上谷王を与えようとしたが、拓跋珪は受けなかった(慕容垂と拓跋珪の懸隔はこの時既にあった。拓跋珪の野心とみるべきか、魏王を承認せず格下の上谷王に任じようとした慕容垂が拓跋珪を軽視したとみるべきか)。

387年
1月、東晋では、謝玄に代わって朱序が北府軍の責任者になった。謝玄は彭城(江蘇省徐州市)を鎮守したが、朱序の希望で淮陰(江蘇省淮安市)に移った。謝玄は会稽(浙江省紹興市)の内史となった。翟遼の息子である翟釗が陳(河南省周口市付近)・穎(河南省許昌市・漯河市付近)エリアに攻め込んだが、朱序は将軍の秦膺を派遣して撃退した。
慕容垂が温詳の東阿城を落とした。
慕容垂が長安に居た時、苻堅は慕容垂と手を交えて語り、慕容垂の退出後に光祚が苻堅へ言った「陛下は慕容垂を疑うか?慕容垂は人の下に長いこと仕えられる人間ではない」
苻堅はその言葉を慕容垂に伝えた。
苻丕が鄴(河北省邯鄲市臨漳県付近)から晋陽(山西省太原市)に移った際、光祚は東晋に降伏した。その後光祚は温詳の下に属したが、温詳は慕容垂に降伏した。慕容垂は温詳を許し、かつて後燕に属していた頃と同様に遇した。慕容垂は光祚を見ると、泣いて袖を濡らしながら言った「秦主(苻堅)の私への待遇は深く、私もまた彼に尽くした。ただ二公(苻丕と苻睴)の猜疑のために、私は死を恐れて彼の下から去ったのだが、彼を想うごとに夜も寝られなくなる」
光祚もまた慟哭した。
慕容垂は光祚に金帛を贈ったが、光祚は固辞した。慕容垂は言った「卿はなお私を疑っているのか」
光祚は言った「臣はかつて仕えた主(苻堅)に忠であることしか考えなかった。意図せず陛下のところに至ったが、彼を懐かしむ様子を見て、あえて死を逃れるつもりはない」
慕容垂は言った「これはすなわち卿の忠である、もとより私が求めるところである。前言はただの戯れだ」
光祚への待遇はますます厚く、中常侍に任じた。
苻登は妃の毛氏(前秦の重鎮である毛興の娘)を皇后とし、渤海王・苻懿を皇太弟とした。遣使して東海王・苻纂を使持節・都督中外諸軍事・太師・大司馬・魯王とし、苻纂の弟である苻師奴を撫軍大将軍・并州牧・朔方公とした。苻纂は怒って使者に言った「渤海王(苻懿)は先帝(苻丕)の子である、南安王(苻登)が苻懿を立てず自ら立ったのはどういうことだ」
長史の王旅は諫めて言った「南安王は既に立ち、これを改める理屈はない。今は外敵が健在であり、宗室内で争ってはいけない」
苻纂は苻登の命を受けた。羌族の雷悪地や盧水胡(のちに北涼を支配した部族、匈奴系とされるが詳細不明)、屠各(匈奴の中心種族)といった諸族が苻纂の下に集まり、十余万人を擁した。
姚萇は秦州の豪傑3万戸を安定(甘粛省平涼市涇川県)に移した。

2月、後燕の魏郡太守である斉渉が裏切り、張願と連携して翟遼陣営となったが、慕容隆・慕容徳・慕容紹・張崇の軍が彼らを撃破した。斉渉は後燕に捕らえられ誅殺された。

3月、苻登は竇衝を南秦州牧、楊定(後仇池初代)を益州牧、楊壁を司空・梁州牧とし、乞伏国仁(西秦の前身)を大将軍・大単于・苑川王とした。

4月、後秦の征西将軍である姚碩徳は、楊定に迫られたため、退却して涇陽(陝西省咸陽市涇陽県)を過ぎた。楊定と魯王・苻纂は共同して涇陽の姚碩徳を攻め、大勝した。姚萇が陰密(甘粛省平涼市霊台県)から姚碩徳を救援したため、苻纂は敷陸(陝西省延安市南部)まで退いた。
慕容垂は山東方面から首都の中山(河北省石家荘市正定県)に戻った。長子(山西省長治市長子県)を本拠地とする西燕から亡命してきた慕容柔・慕容盛・慕容会に問うた「長子の様子はどうだ、取れるか」
慕容盛は言った「西軍はゴタゴタしていて、人々は東へ帰りたがっている。陛下は仁政を治めて待つだけで良い。もし大国である後燕にひとたび臨めば、必ず投降してくる。これは孝行息子が慈父に帰ってくるようなものだ」
慕容垂は喜び、慕容柔を陽平王、慕容盛を長楽公、慕容会を清河公とした。
高平(山西省西部)の翟暢が太守を捕えて、郡ごと翟遼に降った。慕容垂は諸将に言った「翟遼は一城の兵をもって、三国(東晋・後燕・西燕)の間で叛服が定まらない。討つしかあるまい」

5月、太子の慕容宝に中山を守らせ、章武王・慕容宙を補佐に付けると、慕容垂自ら翟遼を攻め、太原王・慕容楷を前峰とした。翟遼の部下たちは燕・趙の出身だったので、慕容楷が来ると聞くと「太原王(慕容恪)の子は私の父母なり」と行って、帰順するものが相次いだ。翟遼は恐れて降伏の使者を出した。慕容垂は翟遼を徐州牧・河南公とし、戻った。
賈鮑と翟遙が中山に夜襲をかけたが、慕容宝と慕容宙はこれを撃退した。
独狐部の劉顕は領土が広く、兵も強い北方の雄だったが、兄弟同士で争っていた。北魏の長史の張兗が拓跋珪に言った「劉顕の志は併呑にあり、内部の乱れに乗じてこれを捕えなければ必ず後の患いとなる。北魏単独では勝てないので、後燕と共に攻められたい」
拓跋珪はこの助言に従い、燕に使者を派遣し援軍を要請した。
苻登は兄の苻同成を司徒・守尚書令・潁川王とした。弟の苻広を中書監・安成王とした。子の苻崇を尚書左僕射・東平王とした。
慕容垂は黎陽(河南省鶴壁市浚県)から中山に戻ったが、ここで東方における後燕への反乱が多数起こり、楽浪王・慕容温に討たせた。
前秦の苑川王・乞伏国仁は騎兵3万を率いて鮮卑の3部族を六泉(寧夏回族自治区固原市原州区か)で襲った。

7月、乞伏国仁が一連の戦闘に勝ち、鮮卑3部族はみな降伏した。
苻登は瓦亭(寧夏回族自治区固原市涇源県大灣鄉瓦亭村)に出兵した。姚萇は彭沛穀(盧水胡)の堡塁を攻めてこれを抜き、彭沛穀は杏城へ逃げた。姚萇は陰密に帰り、太子の姚興に長安(陝西省西安市)を鎮守させた。
劉衛辰が後燕に馬を献じたが、劉顕がこれを掠奪した。慕容垂は怒って太原王・慕容楷を派遣して趙王・慕容麟と共に劉顕を攻撃させ、大破した。逃げる劉顕に拓跋珪が追撃を仕掛け、撃破した。劉顕は西燕に逃げた。独狐部の部民は慕容麟に収容され、後燕は多くの牧畜を得た。
呂光(後涼の初代)の将が張大豫(前涼の一族)に攻め勝った。張大豫は広武(甘粛省蘭州市永登県)に逃げた。

8月、広武の人々が張大豫を捕えて、姑臧(甘粛省武威市、呂光の本拠地)に送り、張大豫は斬られた。
東晋では司馬徳宗が皇太子となり、大赦が行われた。
慕容垂は劉顕の弟である劉可泥を烏桓王とし(独狐部=匈奴が定説だが、資治通鑑385年8月の記事では鮮卑と記されていた。今回の烏桓王叙任はどう考えるべきなのだろう)、独狐部の民を安撫し、8千余落を中山に移した。
前秦の馮翊太守である蘭櫝は、兵2万を率いて頻陽(陝西省渭南市富平県)から和寧(杏城の東南)に入り、魯王・苻纂と長安を攻めようと謀った。苻纂の弟の苻師奴は苻纂に尊号を勧めたが、苻纂は従わなかった。苻師奴は苻纂を殺して取って代わり、蘭櫝は苻師奴と絶交した。西燕の慕容永は蘭櫝を攻め、蘭櫝は後秦に救援を請うた。姚萇自ら救援に向かおうとしたが、尚書令の姚旻と尚書左僕射の尹緯が言った「苻登が近く瓦亭まで迫っている。留守に乗じて後方から襲ってくるだろう」
姚萇は言った「苻登の兵は盛んで、一朝一夕では制圧できない。苻登は鈍重で、決断力に欠ける。取り回しに優れた軽軍でわが領地に深入りすることなどできない。私は2か月の間に賊(苻師奴・慕容永)を破って帰ってくる。苻登がやってきても、何もできはしない」

9月、姚萇は泥源(甘粛省慶陽市寧県)に出兵した。苻師奴は蘭櫝に向けていた兵を反転して姚萇と戦ったが、大敗し、鮮卑に逃亡した。後秦は苻師奴の兵をことごとく収容し、屠各の董成らも皆降った。
苻登は胡空堡(陝西省咸陽市彬州市)まで兵を進め、漢人・異民族で前秦に帰する者達は10余万に上った。

10月、翟遼はまた後燕に叛き、山東方面を荒らした。
姚萇は進軍して黄河の西側で慕容永を攻撃し、慕容永は逃走した。蘭櫝軍が姚萇を拒んだため、姚萇は蘭櫝に攻撃をかけた。

12月、姚萇は蘭櫝を捕え、杏城に到着した。
後秦の姚方成が前秦の雍州刺史・徐嵩に攻め勝ち、徐嵩は捕らえられた。姚方成が徐嵩を責めたところ、徐嵩は罵って言った「お前らの姚萇の罪は万死に値し、苻黄眉(前秦の皇族)は姚萇を斬ろうとしたが、先帝(苻堅)がこれを止めた。内外に任を授け、栄寵は極まっていた。犬馬ですら養われた恩を知るというのに、大逆(苻堅殺害)をなした。お前ら羌の輩に人の理を期待できようか。どうして速やかに私を殺さないのか、早く死後の世界で先帝が姚萇を支配する様を見たいものだ」
姚方成は怒って、徐嵩を三斬(足・腰・頸)し、その士卒を悉く穴埋めし、妻子は軍への褒賞とした。姚萇は苻堅の屍を掘り出し、無数に鞭うち、服を剥いで裸にし、茨の上に敷いて、埋めなおした。
涼州で飢饉が起こり、米1斗が5百銭に相当した。人々はお互い食べあい、大半が死んだ。後涼で反乱が相次いだものの、呂光は鎮圧した。

388年
1月、東晋の謝玄が死んだ。

2月、苻登は朝那(寧夏回族自治区固原市彭陽県)に陣を敷き、姚萇は武都(甘粛省平涼市霊台県北西部)に陣を敷いた。
翟遼は後燕に使者を派遣して謝罪したが、慕容垂はこの使者を斬り国交を絶った。翟遼は魏の天王を自称し、改元し、百官を置いた。
後燕の青州刺史の慕容紹が東晋の辟閭渾に押されて後退した。辟閭渾は前秦に属していたが、関東(函谷関より東側)の混乱により東晋に投降していた。

3月、慕容垂は太子の慕容宝を録尚書事として政を行わせ、自身は要点のみ押さえた。
呂光は功臣の杜進の名声を憚り、これを粛清した。段業が呂光に法の厳峻さを訴えたところ、呂光は呉起・商鞅による富国強兵で反論した。段業は呉起・商鞅が結局身を滅ぼしたことを指摘し、堯・舜の聖業を目指すよう訴えた。

4月、東晋は朱序を都督司・雍・梁・秦四州諸軍事、雍州刺史とし、洛陽(河南省洛陽市)に配置した。都督兗・冀・幽州・并州諸軍事、青・兗二州刺史として、譙王の司馬恬が東部方面を代わりに担当した。
苑川王の乞伏国仁は鮮卑の越質叱黎を撃破し、その息子を捕えた。
慕容垂は夫人の段氏を皇后とし、太子の慕容宝を大単于とした(393年4月にも慕容宝が大単于に任じられた記載あり)。段氏は右後禄大夫である段儀の娘で、妹は范陽王・慕容徳に嫁いでいた。段儀は慕容宝の舅である。先に死んだ別の段氏に成昭皇后の諡号を贈った。

5月、前秦の皇太弟の苻懿が死んだ。諡号は献哀。

6月、苑川王の乞伏国仁が死んだ。諡号は宣烈、廟号は烈祖。子の乞伏公府はまだ幼いため、群臣は弟の乞伏乾帰を推戴し大都督・大将軍・大単于・河南王とし、大赦・改元した。
北魏王の拓跋珪は庫莫奚を撃破した。

7月、庫莫奚が北魏の軍営を襲ったが、拓跋珪はまたこれを撃破した。庫莫奚は宇文部に属し、契丹と同類だが異種である。彼の祖先らは前燕の慕容皝に撃破され、徒民していた。
前秦と後秦は春より対峙し、しばしば戦い、勝ったり負けたりしていた。ここで休戦し双方帰った。関西(函谷関より西側)の豪傑は後秦が久しく成功しないため、多くが後秦を去り前秦に付いた。
乞伏乾帰は妻の邊氏を王后とした。百官を置いて、漢の制度を踏襲し、重臣達を任官した。

8月、苻登は子の苻崇を皇太子に立て、苻弁を南安王、苻尚を北海王とした。
拓跋珪は密かに後燕を出し抜こうとする志があった。九原公の拓跋儀を中山に派遣した。慕容垂は拓跋珪自身が来なかったことを詰問した。拓跋儀は、かつて拓跋部と慕容部が兄弟のごとく晋室に仕えたことを持ち出し、使者の派遣は道理を失っていないと主張した。慕容垂は、いま後燕の国威が当時と比べ物にならないと主張した。拓跋儀は言った「燕がもし徳礼を修めず、兵威をもって自らの強さを欲するなら、これは将帥の領域であり、私はあずかり知らぬこと」
拓跋儀は帰って拓跋珪に報告した「燕主・慕容垂は老衰し、太子・慕容宝は闇弱(ものの道理がわからず、気力に乏しい)、范陽王・慕容徳は自らの才気を恃み慕容宝の臣たりえない。慕容垂が死ねば、内訌が必ず起こり、そうなれば出し抜くことが出来る、今はまだできない」
拓跋珪はこの報告に満足した。拓跋儀は拓跋珪の母弟・拓跋翰の子(拓跋翰は什翼犍の三男であり、孫である拓跋珪の同母弟とは考えにくい、母弟を母方叔父と読むにしても賀姓でなければならない)。

9月、乞伏乾帰が金城(複数候補あり、甘粛省蘭州市西固区か)に遷都した。

10月、姚萇は安定に帰った。苻登は新平(陝西省咸陽市付近)に進出し、兵1万余を率いて姚萇の軍営を囲み、四面から哭き声をあげさせた。姚萇は軍営内に命じて哭して応じた。苻登は退いた。

12月、東晋の尚書令である謝石が死んだ。
前秦は苻登の兄である潁川王・苻同成を太尉にした。

389年
1月、遼西王の慕容農は龍城(遼寧省朝陽市)に5年居たが、この方面の安定と他方面の多難から転属を希望した。慕容垂は慕容農を召還して侍中・司隷校尉とし、代わりに慕容隆を龍城に置いた。
姚萇は、前秦がしばしば戦闘に勝つのは、苻堅による神の助けを得ていると考え、軍中に苻堅の像を立て、これに祷って言った「私の兄である姚襄は私に復讐を命じていた。新平であなたが死んだ災禍は、姚襄の命令を行っただけで、私の罪ではない。苻登は陛下の遠戚だが、なお復讐を欲している。まして私が兄を忘れようか。陛下が私を龍驤将軍(苻堅の即位前における将軍位、苻洪もかつて任じられたとされる、姚萇が秦の天子を自称した根拠)に任命したのは、建業を許可したも同然である、私はあえてこれを違えようか。いま陛下のために像を立てるので、陛下は私の過ちを追及しないでほしい」
苻登は楼閣にのぼり、はるか先の姚萇に向かって言った「臣下となりながら君主を弑逆し、それなのに像を立てて福を求めても、ご利益などあるはずなかろう」
続いて大声を出して言った「君を弑した賊の姚萇は、どうして自ら出てこないのか。私はお前と決着をつけよう」
姚萇は応じなかった。久しく戦ったがいまだ利益は無かった。軍中が夜ごとに苻堅の神像に驚いたため、像の首を斬って前秦に送った。
苻登は河南王の乞伏乾帰を大将軍・大単于・金城王とした。
拓跋珪は高車を襲って撃破した。

2月、呂光は三河王を自称し、大赦・改元し、百官を置いた。呂光の妻である石氏、子の呂紹、弟の呂徳世は身を寄せていた仇池から姑臧に到着した。石氏を后、呂紹を太子とした。
拓跋珪は吐突鄰部を大破し、徒民を行った。
苻登は輜重を大界(陝西省咸陽市彬州市と甘肃省平凉市涇川県の間)に留め、自ら軽騎兵1万余を率いて安定の羌の堡塁を攻め、勝った。

4月、乞伏乾帰は侯年部を撃破した。このため秦・涼・鮮卑・羌・胡は多く乞伏乾帰に付き、乞伏乾帰は彼らに官爵を授けた。
慕容徳・慕容麟が賀訥(賀蘭部、拓跋珪の意向に反して吐突鄰部への救援を行った)を攻撃し、勿根山(内モンゴル自治区ウランチャブ市興和県の北西にある山)まで追われた、賀訥は窮して降伏した。賀訥は上谷(北京市)に移され、賀染干は中山で人質となった。

7月、苻登は後秦の右将軍である呉忠らのいる平涼を攻め、勝った。

8月、苻登は苟頭原(甘肃省平凉市涇川県の西北)に拠って安定に迫った。諸将が姚萇に決戦を勧めたところ、姚萇は言った「窮寇(追い詰められた敵)と勝ちを競うのは、兵家の忌むところ、私は計略で苻登を捕えよう」
尚書令の姚旻を留めて安定を守らせ、夜に騎兵3万を率いて前秦の輜重が置いてあった大界を襲い、勝利し、毛后と南安王・苻弁、北海王・苻尚を殺し、名将数十人を捕虜とし、男女5万余口を掠めて帰った。毛氏は美しくさらに勇敢で、騎射が得意だった。後秦の兵が軍営に入り、毛氏はなお弓を引き馬にまたがり、壮士数百を率いて力戦し、700余人を殺した。衆寡敵せず、後秦に捕らえられた。姚萇は毛氏を妻に迎えようとしたが、毛氏は罵りかつ哭して言った「姚萇、お前は以前に天子(苻堅)を殺し、いままた皇后を辱めようとしている。皇帝は天、皇后は土、どうしてお前を受け入れようか」
姚萇は毛氏を殺した。諸将は前秦軍が驚き乱れていることから、更に攻撃しようとし、姚萇は言った「苻登の兵は乱れているが、怒気はなお盛んである。まだ軽んじてはならない」
後秦軍は攻撃を中止した。苻登は敗残兵を収容して胡空堡に駐屯した。姚萇は姚碩徳に安定を鎮守させ、安定の千余家を陰密に移すと、弟の征南将軍・姚靖に陰密を鎮守させた。

9月、苻登が東に向かった際、姚萇は姚碩徳に秦州の守将を選抜させ、従弟の姚常を隴城(甘肅省天水市秦安県)に、邢奴を冀城(甘肅省天水市甘谷県)に、姚詳を略陽(陝西省漢中市略陽県)に置いた。楊定は隴城・冀城を攻めて勝ち、姚常を斬り、邢奴を捕えた。姚詳は略陽を放棄し、陰密に逃げた。楊定は自ら秦州牧、隴西王を称し、前秦はこれを追認し授けた。

10月、苻登は竇衝を大司馬・都督隴東諸軍事・雍州牧とし、楊定を左丞相・都督中外諸軍事・秦梁二州牧とし、楊壁を都督隴右諸軍事・南秦益二州牧とし、約束して共に後秦を攻めようとした。また監河西諸軍事・并州刺史の楊政、都督河東諸軍事・冀州刺史の楊楷と約束して各軍を率いて長安で合流しようとした。楊政と楊楷は河東の人で、苻丕が敗亡した際に流民数万戸を収集し、楊政は黄河の西に、楊楷は湖(洞庭湖か)と陝(河南省三門峡市陝州区)の間に割拠していた。
翟遼は丁零の故堤を派遣して慕容温(後燕の楽浪王・冀州刺史)に偽装降伏させた。故堤は慕容温を刺し殺し、慕容温の部下達と共に西燕へ走った。慕容農は襄国で故堤の軍を迎撃し、悉く捕らえた。ただし、故堤は逃げ失せた。

11月、枹罕(甘粛省臨夏回族自治州)の羌族である彭奚念が乞伏乾帰に付き、乞伏乾帰は彭奚念を北河州刺史に任じた。

12月、姚萇は東門将軍の任盆を用いて、偽って内応・開門する手筈で苻登を誘い込もうとした。苻登がこれに従おうとしたところ、出征していた征東将軍の雷悪地がこの報に苻登の下に馳せ参じて言った「姚萇は詐術が多い、信じてはいけない」
苻登は進軍を中止した。姚萇は雷悪地が苻登に謁見したことを聞き、諸将に言った「この羌(雷悪地、姚萇と同族の羌)が苻登に見えたから、事は成らなかった」
苻登は雷悪地の勇猛さと武略が人並み外れていることを密かに憚っていた。雷悪地は恐れ、後秦に降った。姚萇は雷悪地を鎮軍将軍にした。
前秦は安成王・苻広を司徒とした。

390年
1月、西燕の慕容永、ついで翟遼が洛陽を窺ったが、東晋の朱序はどちらも撃退した。その後、洛陽を息子の朱略に任せると、朱序自身は襄陽(湖北省襄陽市)へ移った。

3月、姚萇は前秦の扶風太守の斉益男を新羅堡(現在地同定できず、扶風=陝西省宝鶏市あたりなのだろう)に攻め、斉益男を敗走させた。苻登は後秦の天水太守の張業生を隴東(陝西省咸陽市涇陽県)に攻めたが、姚萇が救援し、苻登は退いた。

4月、前秦の鎮東将軍である魏揭飛は衝天王を自称し、氐・胡を率いて後秦の安北将軍である姚当成を杏城に攻めた。後秦の鎮軍将軍である雷悪地は叛旗を翻して魏揭飛に呼応し、鎮東将軍の姚漢得を李潤(陝西省渭南市大荔県の北部)に攻めた。姚萇は自ら彼らを撃とうとし、群臣はみな言った「陛下は60里先の苻登を憂えず、6百里先の魏揭飛を憂えている、何故だ」
姚萇は言った「苻登をにわかに滅ぼすことはできない、苻登もわが城をにわかに抜くことはできない。雷悪地の智略は非常のもので、もし南に魏揭飛を誘引し、東の姚当成に結託し、杏城・李潤を得てこれに籠られると、長安の東北は我が領有でなくなる」
密かに精兵1600を率いて赴いた。魏揭飛・雷悪地は兵数万あり、氐・胡で彼らに赴く者は絶えなかった。姚萇は魏揭飛らに兵が合流するのを見るたびに喜んだ。群臣が怪しんで問うと、姚萇は言った「魏揭飛らは同じ心の悪党たちを扇動誘引し、多くの種類となった。私が敵の首魁に勝っても、残党を平定するのは容易でない。いま烏合している。私が勝ちに乗じて彼らを捕えれば、一挙に残党を無くすことができる」
魏揭飛らは後秦兵が少ないのを見て、全軍で攻めてきた。姚萇は堡塁を固くして戦わず、弱気なふりをしつつ、子の中軍将軍・姚崇に騎兵数百を与えて敵軍の後方に進出させた。魏揭飛の兵は擾乱した。姚萇は鎮遠将軍の王超らに兵を与えてこれを攻撃し、魏揭飛及び将士1万余を斬った。雷悪地が降伏を要請し、姚萇は裏切り前と同様に待遇した。雷悪地は人に言った「私の智勇は当代にて傑出しているが、姚萇翁と戦う度に苦しめられた。これが私の分際なのだ」
姚萇は姚当成に命じて、軍営地の柵が立っていた孔に木を植えて、戦勝記念とした。1年以上経って、その様子を問うたところ、姚当成は言った「営地がとても小さかったので、大きくした」
姚萇は言った「私は結髪(元服)して以来、長年にわたって多くの敵と戦ってきたが、未だかつて魏揭飛戦のような快勝を経験したことが無い。千余の兵で三万の兵を破ったのだ。営地は小さいからよいのだ、どうして大きい営地をありがたがろうか」
吐谷渾の視連が乞伏乾帰に使者を派遣した。乞伏乾帰は視連に沙州牧・白蘭王とした。
拓跋珪は慕容麟と合流し、賀蘭・紇突鄰・紇奚の3部族を攻撃し、撃破した。紇突鄰・紇奚は魏に投降した。

7月、馮翊(陝西省西安市および陝西省渭南市付近)の郭質が広郷(おそらく陝西省渭南市だが、甘粛省隴南市の可能性もある)で挙兵して前秦に応じた。三輔(長安周囲)に飛ばした檄文にこうあった「姚萇は凶虐で、神人(苻堅のことか)を毒した。わが一族は代々前秦により堯・舜の仁を賜り、常伯(常侍)・納言(尚書)の子ではなく、卿校牧守(九卿・校尉・州牧・郡太守といったところか)の孫である。恥を忍んで生き残るより、道を踏み外すことなく死のう」
これにより三輔の城塞・堡塁はみな郭質に呼応した。独り鄭県(陝西省渭南市華県)の苟曜は従わず、数千人を集めて後秦に付いた。前秦は郭質を馮翊太守とし、後秦は苟曜を豫州刺史とした。
劉衛辰は息子の劉直力鞮を派遣して賀蘭部を攻めた。賀訥は困窮し、北魏に降伏した。拓跋珪は兵を率いて賀蘭部を救援し、劉直力鞮は退いた。劉直力鞮は賀蘭部の部民を、東側の国境に移した。

8月、東晋の劉牢之は翟釗に鄄城(山東省菏澤市鄄城県)で攻撃し、翟釗は河北に逃走した。また翟遼を滑台(河南省安陽市滑県)で破り、張願は東晋に降伏した。

9月、北平(北京市)の呉柱が千余人を集め、沙門の法長を天子としたが、後燕の慕容隆は冷静に鎮圧し、呉柱は斬られた。
吐谷渾の視連が死に、子の視羆が立った。

10月、乞伏乾帰は視羆に使者を派遣し、父と同様に沙州牧・白蘭王へ任じようとしたが、視羆は受けなかった。

12月、郭質と苟曜が鄭の東側で戦い、郭質は敗れ、洛陽に逃げた。

391年
1月、賀染干は兄の賀訥を殺そうと謀り、賀訥はこれを知り挙兵して攻め合った。拓跋珪は後燕に報告し、自身の先導による賀蘭部討伐を要請した。

2月、慕容垂は趙王・慕容麟を派遣して賀訥を攻撃し、鎮北将軍・蘭汗に龍城の兵で賀染干を攻撃させた。

3月、苻登は雍(陝西省宝鶏市鳳翔区)から出撃して、范氏堡(現在地を同定できず)にいた後秦の安東将軍・金栄を攻撃し、攻め勝った。ついに渭水を渡り、段氏堡(現在地を同定できず)の京兆太守・韋范を攻めたが勝てなかった。曲牢(陝西省西安市にあった杜県の東北)に転進した。

4月、後燕の蘭汗は賀染干を牛都(牛川、内モンゴル自治区フフホト市の西南)で撃破した。
兵1万を擁した後秦の苟曜は、密かに苻登への内応を図った。苻登は曲牢から繁川(樊川、陝西省西安市の南)に向かい、馬頭原(山西省臨汾市古県のそれではないと思われる)に軍をおいた。

5月、姚萇は兵を率いて苻登を迎え撃ったが、苻登は姚萇軍を攻撃の上で撃破し、後秦の右将軍である呉忠を斬った。姚萇は兵を収容してまた戦おうとし、姚碩徳は言った「陛下は軽々しく戦うことを慎み、計略で苻登を捕えようとしていた。いま戦って不利となりながら、賊に向かって前進するのは何故か」
姚萇は言った「苻登の用兵は遅緩で、虚実を知らない。いま軽兵で直進し、わが軍の東側に籠った(苻登が普段行わない用兵である)。必ず苟曜の青二才と共謀している。ここで緩手を取れば、共謀が成功してしまう。彼らが合流しないうちに苻登を急襲し、彼らの計画を頓挫させるしかない」
ついに進んで戦い、大いに苻登軍を破った。苻登は退いて郿(陝西省宝鶏市眉県)に駐屯した。
前秦の兗州刺史である強金槌は新平に籠っていたが、姚萇に降り、子の強逵を人質とした。姚萇は数百騎で強金槌の陣営に入った。部下達は姚萇を諫めたが姚萇は言った「強金槌は既に苻登の許を去った、私をたばかったならどこへ帰ろうというのか。彼が心から従おうとしているのだから、真心を尽くして彼と結ぶべきだ、不信で疑ってよいものか」
氐族らは姚萇を捕えたいと考えていたが、強金槌は従わなかった。

6月、慕容麟は賀訥を赤城(河北省張家口市赤城県)で撃破して、賀訥を捕え、賀蘭部の数万が降伏した。慕容垂は慕容麟に命じて賀訥を部落に帰し、賀染干は中山に移した。
慕容麟は帰還すると慕容垂に言った「臣が拓跋珪の挙動を見たところ、いずれ国の患いとなろう、拓跋珪を中山に召還し、彼の弟に国を任せた方が良い」
慕容垂は従わなかった。
西燕の慕容永は河南に侵攻したが、東晋の楊佺期に撃破された。

7月、拓跋珪は弟の拓跋觚を後燕に派遣したが、慕容垂は老衰し、その子弟が拓跋觚を拘禁し代わりに良馬を求めた。拓跋珪は取引に応じず、ついに後燕と断交し、西燕に修好の使者として長史・張衰を派遣した。拓跋觚は逃げ帰ろうとしたが、太子・慕容宝が拓跋觚を追って捕らえた。慕容垂の拓跋觚への待遇は従前と変わらなかった。
苻登は新平を攻めたが、姚萇が救援し、苻登は退いた。
前秦の驃騎将軍である沒弈干は二人の息子を乞伏乾帰に人質として差し出し、共に鮮卑の大兜を討つよう請うた。乞伏乾帰は沒弈干と共に大兜を攻撃して勝った。大兜は身をやつして逃げ、乞伏乾帰は大兜の部衆を収容して帰り、人質だった沒弈干の2子を帰した。沒弈干は乞伏乾帰に背いて、東の劉衛辰に付いた。

8月、乞伏乾帰は騎兵1万で沒弈干を討ち、沒弈干は他樓城(寧夏回族自治区固原市原州区にあったとされる)に逃げた。乞伏乾帰は沒弈干を射て、目に当たった。

9月、太学博士の范弘之が殷浩に諡号を与えるよう提案し、桓温を不臣であるとした。桓氏はなお強勢で、尚書左僕射の要職にあった王珣が桓温の旧臣だったこともあり、范弘之は左遷された。范弘之は范汪の孫で、范汪は桓温の政敵だった。

10月、柔然部の人は代々、拓跋部の代国に服属していたが、苻堅が代を滅ぼした際に、柔然は劉衛辰の下に付いた。拓跋珪が魏王に即位すると、高車などを攻撃し、諸部族は概ね北魏に服従したが、柔然だけは北魏に仕えなかった。拓跋珪は馬を食糧にしながら柔然へ遠征し、柔然を二分していた郁久閭匹候跋・郁久閭縕紇提の兄弟はともに降伏した。
翟遼が死に、代わりに息子の翟釗が立った。翟釗は鄴を攻めたが、慕容農に撃退された。
呂光は派兵して留守(沒弈干征伐)に乗じて乞伏乾帰を攻撃したが、乞伏乾帰はこの報に兵を返し、呂光の兵も帰った。
劉衛辰は子の劉直力鞮を派遣し、兵8-9万で北魏の南部を攻めた。

11月、拓跋珪は兵5-6千で抗戦し、鐵岐山(現在地を同定できず)の南で劉直力鞮を撃破した。劉直力鞮は単騎で逃走した。勝ちに乗じて劉直力鞮を追い、五原郡(内モンゴル自治区バヤンノール市および包頭市一帯)の金津(古名でいう九原県と宜梁県の間にあった)で黄河を渡り、劉衛辰の国に侵攻した。劉衛辰の部落(匈奴鉄弗部)は驚き乱れた。拓跋珪は劉衛辰の居城である悅跋城(代来城、陝西省楡林市西方の白城台遺跡とされるが諸説あり 市来弘志 「代来城の位置と現況について」)に到達した。劉衛辰は息子達と逃げたが、拓跋珪は諸将を分遣し追撃した。劉衛辰は自身の部下に殺され、劉直力鞮は北魏に捕らえられた。

12月、拓跋珪は鹽池(陝西省楡林市定辺県から寧夏回族自治区呉忠市塩池県あたり)に軍を置き、劉衛辰の宗族・与党5千余人を誅殺し、死体を黄河に投げ込んだ。黄河以南の諸部族は悉く投降し、馬30余万、牛羊400余万を得て、一気に国力を高めた。劉衛辰の年少の息子、劉勃勃(のちの赫連勃勃)は薛幹部に逃げ込んだ。拓跋珪は薛幹部に人を寄越して劉勃勃の身柄を求めたが、薛幹部を率いた太悉伏は劉勃勃を使者に示して言った「勃勃の国は破れ家も滅び、窮状をもって私に帰順している。私が彼とともに滅びようとも、彼を捕えて魏に与えるのは忍びない」
こうして劉勃勃を沒弈干に送り、沒弈干は娘を劉勃勃の妻とした。
苻登は安定を攻め、姚萇は陰密に行って抗戦した。姚萇は太子の姚興に言った「苟曜は、私が長安から北行して陰密に向かうと聞けば、必ず長安に来てお前に会おうとするだろう。お前は彼を捕えて誅殺するべし」
はたして苟曜が長安で姚興に会おうとしたため、姚興は尹緯に苟曜をなじらせ、その後誅殺させた。
姚萇は苻登を安定城の東部で破り、苻登は退いて路承堡(現在地を同定できず、人名+堡は頻用される)に籠った。姚萇は酒を置いて盛んな宴会を開き、諸将はみな言った「もし魏武王(曹操を思い浮かべるところだが、姚襄を指す)であれば、賊が今のようにのさばることはなかった。陛下は慎重すぎる」
姚萇は笑って言った「私が亡き兄に敵わない点は4つある。身長8尺5寸で、上肢が膝下まで伸びる異容は人々に畏怖された、これが1つめ。十万の兵を率いて天下の権衡を争い、旗を掲げて向かうところ敵なしだった、これが2つめ。温故知新にて、道芸を講論し、俊英を集めた、これが3つめ。兄が兵を統率すると、上下は喜んで死力を尽くした、これが4つめ。そんな私が功業を建立できた理由は、賢臣達を駆使し、その算略の中から優れたものを正確に選び取っているだけである」
群臣はみな万歳の声をあげた。

392年
1月、苻登は昭儀である隴西の李氏を立てて皇后とした。

2月、慕容垂は魯口(河北省衡水市饒陽県)から東へ向かい、翟釗への親征を行った。

3月、慕容垂が翟釗を撃破した。
前秦の驃騎将軍である沒弈干が兵を率いて後秦に降り、後秦から車騎将軍・高平公に任じられた。
姚萇は病で臥せ、姚碩徳に李潤を鎮守させ、尹緯に長安を守らせると、太子の姚興を安定の行営に呼び寄せた。
征南将軍の姚方成は姚興に言った「敵軍は未だ滅せず、主上は病で寝ている。王統らはみな私兵を有し、いずれ我が国の患いとなるだろう。彼らを悉く除くべし」
姚興はこれに従い、王統・王広・苻胤・徐成・毛盛を殺した。姚萇は怒って言った「王統兄弟は私と同郷で二心など無かった。徐成らはみな前秦の名将で、私は彼らを臣下として用いていたのに、なぜ彼らを殺したのか」

4月、慕容垂に追い詰められた翟釗は西燕に救いを求めた。慕容永が群臣と謀ったところ、渤海の尚書・鮑遵は言った「両軍を戦わせた後、我々がその後を承ければ、これ卞荘之の策(出典は戦国策と史記・張儀列伝、虎同士を争わせて1頭が死んでから生き残った1頭を刺し殺せば簡単に2頭の虎が手に入る)である」
太原の中書侍郎・張騰は言った「慕容垂は強く、翟釗は弱い。翟釗を倒しても慕容垂は大して疲弊せず、後を承ける意味がない。速やかに翟釗を救い、三国鼎立とする方が良いに決まっている。これから私が兵を率いて中山に行き、昼は兵を多く見せ、夜は火を多くすれば、恐れた慕容垂は中山の救援に向かうだろう。私が前、翟釗が後で挟み撃ちにできる。これは天が授けた好機であり、失ってはいけない」
慕容永は張騰の提案に従わなかった。

6月、慕容垂は黎陽に駐留し、黄河を渡ろうとしていた。翟釗は黄河南岸に兵を並べて慕容垂の渡河を阻止しようとした。慕容垂は陣営を40里西の西津(現在地を同定できず)に移し、上流からの渡河を偽装した。翟釗が西津に向かったところで、慕容垂は密かに中塁将軍の桂林王・慕容鎮らに黎陽からの夜間渡河を行わせた。翟釗はこれを聞くと急遽黎陽に引き返し、慕容鎮らの陣営を攻めた。慕容垂は慕容鎮らに陣営を固守するよう命じていた。往復で消耗した翟釗軍は慕容鎮の陣営を抜くことが出来ず、退却しようとした。慕容鎮らは兵を出して戦った。慕容農は西津から渡河して慕容鎮らと挟撃し、翟釗軍を大破した。翟釗は滑台に戻って妻子と敗残兵を回収すると、北に黄河を渡り、白鹿山(河南省焦作市修武県の北)に登り、天険に拠って守った。後燕軍は進めなくなったが、慕容農は言った「翟釗には食糧が無く、久しく山中に居られない」
兵を退きつつ、騎兵を斥候に残した。はたして翟釗は山を下りた。慕容農は兵を返して不意打ちし、悉く翟釗軍を捕えた。翟釗は単騎で長子(西燕の本拠地)に逃走した。慕容永は翟釗を車騎大将軍・兗州牧とした。1年余り後、翟釗は反逆を図った罪で慕容永に殺された。
慕容垂は翟魏勢力の豪族たちを起用し(その中には、崔浩の父、清河の崔宏も居た)、翟釗の7郡3万余戸を安堵した。滑台に章武王・慕容宙を置き、兗・豫二州刺史とした。徐州民の7千余戸を黎陽に移すと、そこに彭城王・慕容脫を置き、徐州刺史とした。慕容宙の補佐として、抜群の才幹を誇った崔廕が付けられた。

7月、苻登は姚萇の疾病を聞き、大いに喜んで世祖(苻堅)の神像に報告し、大赦し、百官を2階級昇進させ、馬にまぐさを与え、兵をはげまし、安定から90余里のところまで進軍した。

8月、姚萇の病は少し癒え、出撃して苻登の進軍を阻んだ。苻登は出撃して迎撃しようとしたが、姚萇は安南将軍の姚煕隆を派遣して別方面から前秦の軍営を攻めさせ、恐れた苻登は帰還した。姚萇は夜に兵を率いて苻登の後を追った。明け方、前秦の斥候だった騎兵が報告した「賊の諸陣営は既に空で、どこへ向かったか分からない」
苻登は驚いて言った「彼は何という人間なのか、去る時も来る時も私は知覚することが出来ない。まさに死のうとしているのに、忽然とやってくる。朕がこの羌と世を同じくしたことは、なんと厄介なものよ」
苻登はついに雍へ帰り、姚萇もまた安定に帰った。
呂光は弟の右将軍・呂宝らを派遣し、乞伏乾帰を攻撃させたが、呂宝は死に将兵も1万余人死んだ。子の虎賁中郎将・呂纂に南羌の彭奚念を攻撃させたが、呂纂も負けて帰ってきた。呂光は自ら彭奚念を枹罕で攻撃し、勝った。彭奚念は甘松(甘粛省甘南チベット族自治州テウォ県の南東)に逃げた。

10月、東晋の雍州刺史である朱序が老病を理由に解職を求め、受理された。郗恢がこれに代わった。
関中(渭水盆地周囲)在住の巴蜀人(四川エリアの人達)がみな後秦に謀叛を起こし、弘農(河南省三門峡市霊宝市)に拠って前秦に付いた。苻登は竇衝を左丞相とし、竇衝は華陰(陝西省渭南市華陰市)に移動した。東晋の郗恢は将軍の趙睦を派遣して金墉城(洛陽の防衛施設)を守らせた。河南太守の楊佺期が湖城(現在地を同定できず)に兵を置き、竇衝を攻撃し、竇衝は敗走した。

11月、東晋の都督荊・益・寧三州諸軍事、荊州刺史として、殷仲堪が江陵(湖北省荊州市)に赴任したものの、西府軍を束ねるには実力が伴っておらず、桓温の息子である桓玄が徐々に台頭していた。
東晋の皇子である司馬徳文が琅邪王となり、琅邪王だった司馬道子は会稽王になった。

12月、慕容垂は中山に戻り、遼西王・慕容農を都督兗・豫・荊・徐・雍五州諸軍事とし、鄴を鎮守させた。

393年
5月、前秦の右丞相(392年10月には左丞相とあったが)である竇衝は、天水王の位を求めたが、苻登はこれを許さなかった。

6月、竇衝は秦王を自称し、改元した。
金城王の乞伏乾帰は、子の乞伏熾磐を太子に立てた。熾磐は勇略明決で父を超えていた。

7月、苻登は野人堡(現在地を同定できず)にいる竇衝を攻めた。竇衝は後秦に救援を要請した。尹緯は姚萇に言った「太子(姚興)の仁は広く知られているが、その英略は未だ知られていない。苻登を撃破して、その英略を明らかにしたい」
姚萇はこれに従った。姚興が兵を率いて胡空堡(陝西省咸陽市彬州市)を攻めたので、苻登は竇衝への包囲を解き、胡空堡へ赴いた。そこで姚興は平涼を襲い、大いに成果を得て帰った。姚萇は姚興を長安へ帰し、その守備に当てた。

8月、拓跋珪は、劉勃勃の引き渡しを拒否した(391年12月)太悉伏率いる薛幹部を攻め、その城を落とした。太悉伏は前秦に逃げた。
氐のリーダーである楊仏嵩が東晋を裏切って後秦へ奔った。楊佺期と趙睦は彼を追った。

9月、楊佺期と趙睦は潼関(陝西省渭南市潼関県)で楊仏嵩を破った。後秦の姚崇が楊仏嵩を救援し、東晋軍を破り、趙睦は死んだ。

10月、姚萇が重病となり、長安に戻った。
慕容垂は西燕を討つべく議論した。諸将は後燕で戦役が続いて兵が疲弊していることから困難を訴えたが、慕容垂は自身が存命であるうちに慕容永を討滅する必要があると考え、強行した。

11月、慕容垂は歩兵騎兵合わせて7万で中山を出て、並行して諸将による多方面からの西燕攻撃を開始した。慕容永は兵5万を潞川(山西省南東部を流れる浊漳河、かつて前秦と前燕の決戦が行われた)の守備に当てた。

12月、慕容垂は鄴に到着した。
姚萇は太尉の姚旻、僕射の尹緯・姚晃、将軍の姚大目、尚書の狄伯支を禁中に招き、詔を遺して輔政の体制を整えた。姚萇は太子の姚興に言った「この諸公をそしる者があっても真に受けてはいけない。お前は肉親を安撫するに恩をもってし、大臣を接するに礼をもってし、人を待遇するに信をもってし、民を遇するに仁をもってせよ。この4者に失するところがなければ、私の憂いはもう無い」
姚晃が涙を流しながら苻登への対策を問うたところ、姚萇は言った「いま大業は成就しようとしており、姚興の才知なら苻登への対処も十分可能である。私に問う必要はない」
姚萇が死んだ、享年は数えで64。
姚興は姚萇の死を隠して喪を発しなかった。叔父の姚緒に安定を鎮守させ、姚碩徳に陰密を鎮守させ、長安の守備には弟の姚崇を当てた。
ある人は姚碩徳に言った「公の威名は昔から重く、部曲は最強である。今は代替わりの時で、あなたは必ず朝廷に疑われるだろう。しばらくは秦州に移って事態を観望してはどうか」
姚碩徳は言った「太子の志と度量はひろやかで明るい、そのような心配は無用である。いま苻登が健在であるのに骨肉で攻め合えば、自滅するだけだ。私が死ぬ結末しか見えない、そのようなことはしない」
姚碩徳はついに姚興のもとに行って会った。姚興は姚碩徳に対し、目上の人に対する礼をとった。
姚興は大将軍を自称し、尹緯を長史、狄伯支を司馬とすると、兵を率いて前秦の討伐に向かった。

394年
1月、苻登は姚萇死亡の報に喜んで言った「姚興は小児、私は彼を杖で打つだけだ」
大赦し、兵を挙げて東へ向かい、司徒の安成王・苻広に雍を守らせ、太子の苻崇に胡空堡を守らせた。乞伏乾帰を左丞相・河南王とし、五州牧(秦・梁・益・涼・沙)とし九錫(皇帝と同格の待遇を意味する9つの特典)を加えた。
禿髮思復鞬が死に、息子の禿髮烏孤(のちの南涼初代)が立った。呂光は禿髮烏孤に使者を派遣し、冠軍大将軍・河西鮮卑大都統に任じようとした。禿髮烏孤は呂光の下風に付くべきか悩んだが、呂光にはまだ敵わないため、受けて呂光を油断させた方が良いと考え、官位を受けた。

2月、苻登は屠各の姚奴・帛蒲という2つの堡塁(胡空堡の東にあった)を攻め、勝った。
慕容垂は慕容会に鄴の留守を任せ、慕容楷・慕容農を別働隊としながら、自身は沙庭(鄴の南西)に進出した。慕容永は諸将を分配して防衛線を敷きつつ、兵糧を台壁(山西省長治市にあった)に集め兵1万余を配置した。

4月、苻登は六陌(陝西省咸陽市乾県の北東)から廃橋(陝西省咸陽市興平市)に赴き、後秦の始平太守である姚詳は馬嵬堡(陝西省咸陽市興平市)で防戦した。姚興は姚詳の救援として尹緯を派遣した。尹緯は廃橋に籠って前秦軍を待った。前秦兵は必死で水を確保しようとしたが得られず、渇死するものは10人のうち2-3人となり、困窮して尹緯への攻撃を急いだ。姚興は尹緯に指示した「苻登は窮寇である、慌てずしっかり守って彼の攻勢を挫こう」
尹緯は言った「先帝の崩御により、人々は動揺し恐れている。いま奮戦して敵を擒にしなければ、大事は去ってしまう」
ついに前秦と戦い、前秦兵は大敗した。夜に前秦兵は壊滅し、苻登は単騎で雍に逃げた。太子の苻崇と安成王の苻広は苻登の敗戦を聞いて、ともに城を捨てて逃げた。苻登は雍に帰れなくなり、平涼に向かって敗残兵を収集すると、馬毛山(平涼にある要害)に入った。
慕容垂は鄴の西南から1か月以上動かなかった。不審に思った慕容永は迂回路をとる奇策を予想し、軍の重心を軹関(河南省済源市)に移した。兵糧を集めた台壁には1軍が駐屯するのみとなった。すかさず慕容垂は大軍を動かし、滏口(河北省邯鄲市磁県)を出て天井関(山西省晋城市沢州県)経由で山西に侵入した。

5月、後燕軍が台壁に到着し、慕容永は援軍を派遣したが撃破され、台壁への包囲網が完成した。慕容永は太行に配置していた兵を返し、自ら精兵5万を率いて抗戦した。
西燕の重臣である刁雲、慕容鐘が後燕に降伏したため、慕容永は彼らの妻子を誅殺した。
慕容垂は台壁の南に居り、驍騎将軍・慕容国に騎兵1千を授けて伏兵とし、自身が慕容永を引き込んで偽装退却した。追撃で数里突出した慕容永は、慕容国に退路を断たれたあと四方からの攻撃を受け、大敗した、斬首8千余。慕容永は長子に帰った。晋陽の守将は、慕容永の敗報を受け、晋陽城を放棄した。丹陽王・慕容瓚らが進んで晋陽を取った。
姚興は初めて姚萇の喪を発し、槐里(陝西省咸陽市興平市)で皇帝に即位した。大赦・改元し、安定に向かった。姚萇の諡号は武昭皇帝、廟号は太祖。

6月、東晋の会稽太妃である鄭氏(孝武帝・司馬曜と司馬道子の祖母、簡文帝・司馬昱の母)を追尊して簡文宣太后とした。群臣は鄭氏を元帝(司馬睿)に合祀すべしと言ったが、徐邈は生前の鄭氏が司馬睿の側室だったため反対した。折衷案として、司馬睿の太廟近くに鄭氏の廟を新しく立てた。
慕容垂は進軍して長子を包囲した。慕容永は後秦への亡命を考えたが、侍中の蘭英は、慕容皝が龍城で石虎の包囲に長年耐えた故事を持ち出して籠城を勧め、慕容永はこれに従った。
苻登は子の汝陰王・苻宗を派遣して乞伏乾帰に救援を要請し、乞伏乾帰を梁王に封じ、苻登の妹を乞伏乾帰の后とした。乞伏乾帰は前軍将軍の乞伏益州らに騎兵1万を授けて救援させた。

7月、苻登は乞伏乾帰の兵を迎えるため出陣した。
姚興は安定から涇陽(陝西省咸陽市涇陽県)に行き、苻登と馬毛山の南で戦い、苻登を捕え、殺した、享年52。
苻登の部下達は解散させられ、農業に従事することとなった。陰密の3万戸が長安に移され、苻登の皇后である李氏は、姚晃に下賜された。乞伏益州らはこの結果を聞くと、兵を引いて帰った。前秦の太子である苻崇は湟中(青海省西寧市湟中区)に逃げたあと、皇帝に即位し、改元した。苻登の諡号は高皇帝、廟号は太宗。
後秦で竇衝を国主に推す叛乱があったが、姚興は自らこれを鎮圧し、結果的に竇衝の身柄を得た。

8月、慕容永は困窮し、東晋と北魏に救援を求めたが、援軍が来ないうちに西燕の部将が内応して長子城を開門、後燕は慕容永を捕え、斬った。

10月、前秦の苻崇は乞伏乾帰に放逐され、隴西王の楊定の許に逃げた。楊定は自身で兵2万を率いて苻崇とともに乞伏乾帰を攻めたが、乞伏乾帰は涼州牧の乞伏軻弾、秦州牧の乞伏益州、立義将軍の乞伏詰帰に騎兵3万を授けて防戦させた。まず乞伏益州が楊定と戦い敗れた。乞伏軻弾と乞伏詰帰が退こうとしたところ、乞伏軻弾の司馬である翟瑥が剣を振るって怒り言った「主上(乞伏乾帰)が雄武をもって開基し、向かう所敵なし、その武威は秦・蜀地方に振るっている。将軍は宗室をもって元帥の任にあるのだから、まさに国家を助けるべく命がけで力を尽くさねばならない。いま秦州牧(乞伏益州)は破れたが、まだ二軍が無傷であるのに、敵軍の虚勢を恐れて退いたとあっては、どの面下げて主上に見えるつもりか。この瑥に任が無いからといって、将軍を斬れないと思っているのか」
乞伏軻弾は謝って言った「私は皆の心を知らなかっただけだ。果たして君のような心もちであるなら、私も死を愛してみせよう」
乞伏軻弾は騎兵を率いて進んで戦い、益州・詰帰もこれに続いた。彼らは楊定軍を相手に大勝し、楊定と苻崇は殺され、斬首は1万7千級だった。

放論
後秦は淝水後の関西を制した勢力として知られているが、姚萇の事績を追っていくと奇跡としか思えなかった。苻登・苻纂など多方面から攻められ、後涼・西秦・後仇池はいずれも前秦に近しい勢力で、西燕は関係良好といえず、叛徒にも雷悪地などの強敵がいた。四方に敵を抱えた中でどの勢力に自身が対峙し、勝てずとも自軍をどう有利に導くか、姚萇が見せた判断の冴えは、まさに非常の人だった。
周囲が敵だらけの弱小勢力から、しばしば負けながらも地道に勢力拡大した手腕の見事さは、後漢末・190年代の曹操を彷彿とさせる。曹操には、皇帝を奉じる大義があり、覇者というべき袁紹の後ろ盾もあった。対して姚萇には、皇帝弑逆の汚名があり、孤立無援だった。
戦場での立ち回りも曹操を彷彿とさせる要素がある。前秦と後秦の盛衰を分けた転機として大界の戦いは重要だが、敵後方の輜重を君主自ら急襲して戦況を大きく変えたことは、まるで三国志における官渡の戦いのようであった。
苻登に阻まれ、関西支配を確立する前に生涯を終えたが、置かれた状況の厳しさを考えると、五胡十六国で最高の英主は姚萇だったのかもしれない。
そんな姚萇だからこそ、やはり考えざるを得ない、苻堅が粘り強く姚萇を信任し尹緯も含め十分に使いこなせていたなら、姚萇が早々に苻堅を殺す失態を犯さなければ、と。

苻登の器量は姚萇に遠く及ばなかった。それでも善戦できたのは、前秦の善政・苻堅の仁徳が関西において高く評価されていたからだと考えられる。
前秦になびく勢力が頻繁に現れたこと、前秦・後秦の双方が苻堅の神像を祀ったことなど、史実からもその様子は読み解くことができる。君主の横死が2度続いても、関西における前秦の求心力は健在だったのだ。
そして、だからこそ、先代の苻丕が陝西でなく山西に身を置いた判断は悔やまれる。

この時代は、メインテーマの姚萇VS苻登だけでなく、後燕が翟魏・西燕を倒し勢力拡大していくさま、北魏が独狐部・賀蘭部・鉄弗部を倒し勢力拡大していくさま、赫連勃勃の悲劇的な生い立ち、後涼・西秦・後仇池の動向(特に西秦乞伏氏の存在感に驚いた)など、興味深い出来事だらけでつい冗長な記事になった。
一方で、最強国たるべき東晋の地味さが気になった。淝水の戦いにおける殊勲だった謝玄・謝石の死亡と朱序の引退は思わずフォーカスしたが、前編で見られた劉牢之による鄴進出のような、派手な外征はほとんどなかった。陳郡謝氏と司馬道子の暗闘、孝武帝司馬曜と司馬道子の暗闘など、国内の政争が主な関心事だったのだろう。前秦崩壊・華北動乱というまたとない好機で、内向的に動かざるを得なかった東晋の残念さ、これには言及しておきたい。

前秦と後秦の戦役全体を通じて、城邑でなく堡塁に拠って争う様子が印象的だった。土木に頼らず人馬で守る氐・羌の気質が現れていたように思われる。それに加えて、軍と民間人を分離する意図もあったのなら、彼らに対してまた別の評価を行う必要がある。

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