五胡十六国の中盤で華北を統一し、中華統一に最も近づいた苻堅。彼は民族融和を推進し、汎中華的な政権を目指した聖人君主とされる。
しかしながら、実際には苻堅が他民族を必要以上に優遇した事実はなく、あくまで出身民族の氐に基盤を置いた政権だった。
苻堅の優遇は、慕容垂・姚萇など個人に対するものにとどまり、鮮卑慕容部や羌族全体に及ぶものではなかった。
前燕皇族の慕容永は、前燕滅亡後に長安に移動させられたが、その生活は非常に貧しかった。姚襄の重臣であった羌族の斂岐は、前秦で官職を受けられず反乱を起こしている。羌でありながら苻洪以来の勲旧であった雷氏も、苻堅政権により冷遇されている。
更に重要なのが関中(渭水盆地:現在の陝西省付近)在住の漢人に対する扱いである。
前秦はもともと、石虎死後の後趙混乱に乗じて関中に進出した蒲氏(苻氏)が、現地の漢人と協力することで樹立された国家である。
ところが、苻堅によって汎中華政権となっていく中で、関中漢人は次第に軽視されるようになった。たとえば、前秦の漢人宰相として有名な王猛は青州北海郡(現在の山東省)の出身である。また、関中を代表する名士の天水尹氏を禁錮し、解除後も低位の官職しか与えなかった。晩年の苻堅が王猛に例え、重用できなかったことを嘆いた後秦の名臣尹緯は天水尹氏である。
淝水の後、関中の漢人は姚萇を立てる方向に動いた。これにより、前秦は慕容部・羌族のみでなく、漢族からも切り離され一層の窮地に立たされた。
淝水後の前秦が関中掌握にも苦労したこと、主要な将が苻姓ばかりになったこと、これらは戦前から苻堅政権が抱えていた歪みの顕在化であり、必然の形勢だった。
姚萇については、再評価をしておきたい。早々に苻堅を見限った慕容垂に対し、姚萇はしばらく苻堅に臣従していたのだ。ところが、苻堅の息子苻叡は、参謀姚萇の諫めも聞かず慕容泓への無理攻めを敢行し、戦死した。その後姚萇が謝罪したにもかかわらず、苻堅に許す気配はなかった。詰め腹を切らされる状況が確定的となった姚萇はやむを得ず自立した。
その姚萇に天水尹氏を始め、関中の氏族が結集したのだ、すでに苻氏の世が終わりなのは明らかだった。スムーズな権限移譲と関中の泰平を達成するため、姚萇は苻堅に禅譲を要求したが、「五胡にかすりもしない羌族に皇位などくれてやるものか(私訳:苻堅から見た五胡の内訳がどうだったのかは興味深い)」と言われたので仕方なく殺した。
姚萇は為政者・天子として苻堅を大変敬愛していた。そのため、殺した後も罪の意識に苛まれて「そもそも我が兄姚襄を殺した貴方が悪いのです、私は悪くない(私訳)」と自ら必死に言い聞かせた。
また、息子である姚興は、苻堅をモデルとして教育を施したと思われる。儒教を重んじる姿勢、徳治主義的お裁きの数々、一方で仏教にも敬意を払いクマーラジーヴァといった高僧を招聘するなど、姚興の振る舞いはいかにも誰かさんの再来のようである。後秦の名君とされる姚興だが、苻堅同様その評価はなんだか胡散臭い。姚興が具体的に下した判断を振り返ると、政略・軍事のビジョンは姚萇に及ばないのだ。苻堅といい姚興といい、儒教・仏教サイドからのプラス補正が疑われる場合には注意を払うべきだ。
淝水後の混乱における主要な勢力として、慕容垂・姚萇・苻氏・関中慕容氏が挙げられる。他にも西域の呂光・匈奴鉄弗部の劉衛辰(赫連勃勃の父)・匈奴独狐部の劉庫仁などの群雄がいた。結果的には鮮卑拓跋部の代(のちの北魏)が華北を制することになるのだが、当時で代に賭けられる人はどれほど居ただろうか。北魏がそれほどの大逆転勝利を決めていることは強調しておきたい。
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