英雄達に抵抗した氐族苻氏 前編 慕容垂と苻丕

淝水の戦いで前秦が崩壊した後、華北を牽引したのは慕容垂と姚萇である。
だが、彼ら2人の前には氐族苻氏が立ちふさがった。
五胡を代表する英雄達を前に、華北の主導権を失った苻氏はどのように抵抗したのだろうか。資治通鑑で時系列を追ってみることにした。
前編は慕容垂に対する苻丕の抵抗を取り上げる。
前秦・後燕に関わる記述を主に抜粋したが、翟魏・西燕など周辺勢力の記述、東晋・北魏など天下の趨勢に関わる記述も適宜取り上げている。長文となった。
年は西暦に置き換えたが、月は旧暦のままとする。

383年
11月、淝水の敗戦で潰走した苻堅、唯一軍を保っていた慕容垂は苻堅を収容した。
苻堅は洛陽(河南省洛陽市)に到着した。慕容垂は、北方の混乱収拾と祖廟拝謁を理由に苻堅の許から離れようとした。慕容垂の自立を恐れる意見もあったが、苻堅は最終的に離脱を許可した。
前秦の権翼は、慕容垂を招き伏兵で襲おうとしたが、慕容垂は影武者を使って難を逃れた。

12月、慕容垂は安陽(河南省安陽市)に到着し、長楽公の苻丕に善後策を訊ねた。慕容垂の北上に不穏な空気を察した苻丕だが、自ら慕容垂を迎えることにした。対面の機会に苻丕を捕え、鄴(河北省邯鄲市臨漳県の西側、前燕の旧都)を根拠地にするよう慕容垂に勧める部下も居たが、慕容垂はこれを却下した。対して苻丕は慕容垂を襲う計画を練っていたが、反逆が明確でない時点での慕容垂殺害は大義を欠くと諫言する部下が居たので止めた。
慕容垂は前燕の旧臣と密かに燕の復興を謀っていた。たまたま、丁零族の翟斌が起兵して秦に叛き、洛陽の苻暉を攻めようとしていた。苻堅は慕容垂に翟斌を討伐させようとした。
苻堅から鄴に派遣されていた石越は苻丕に言った「苻堅の親征軍が敗れたばかりで民心は安定していない、罪を負って逃げ隠れている者達は乱を思う者が多く、このため丁零が一度呼びかけたら10日のうちに数千人となった、これは民心の不安定なしるしである。慕容垂は燕の宿望であり、旧業を復興する心がある。今これに兵を与えれば、虎に翼を与えるようなものだ」
苻丕は言った「慕容垂が鄴に居るのは、蛟の上に虎を敷いて寝るようなものだ、常に政変のリスクを身近に抱えている。これを外に出す方が良いのではないか。かつ、翟斌は荒々しいので、慕容垂の下になるのを承諾しないだろう、彼ら両虎を争わせて疲弊させた後にこちらが彼らを制すれば、卞荘子の術である(戦国策と史記張儀列伝 魯の大夫である卞荘子の故事 虎同士に戦わせると、小は滅び大も傷つく、その後傷ついた虎を倒すと一度に双虎を得られる)」
そこで、疲れて装備も粗末な兵2千を慕容垂に与え、広武将軍の苻飛龍に氐族騎兵1千を率いさせ垂の副将に置いた。
苻丕は苻飛龍に対し密かに戒めた「慕容垂は三軍の帥だが、お前は彼を謀るための将だ、しっかりやれよ」
慕容垂は鄴城に入って祖廟(鄴は前燕の旧都)への拝礼を要請したが、苻丕の許可がなかった。慕容垂は変装して入ろうとしたが、役人に咎められた。慕容垂は役人を斬ってその詰所を焼いて去った。
石越は苻丕に対し、慕容垂の叛意が明らかになったことから、その排除を進言した。淝水の敗戦後に苻堅を護衛した慕容垂の功績から、苻丕は躊躇った。
石越は言った「慕容垂が前燕に対してすら忠を示さなかったのに、前秦に忠を尽くすわけがない。今これを除かなければ、必ず後の患いとなろう」
苻丕は石越の進言に従わず、石越は周囲にこぼした「苻堅・苻丕の父子は好みて小仁をなし、大計を顧みない、最終的には捕らわれの身となるだろう」
慕容垂は息子の慕容農、甥の慕容楷・慕容紹(ともに慕容恪の子)を鄴に留め、安陽の陽池に到着した。苻丕と苻飛龍の謀略を慕容垂に報告する者達が居り、慕容垂は激怒して言った「我は忠を苻氏に尽くした、ところが彼はもっぱら我が父子を謀ろうとする、誠に不本意ながらこれでは動かざるを得ない」
河内で募兵し、10日の間に8千を得た。
苻暉は慕容垂の援軍を催促した。慕容垂は苻飛龍に言った「寇賊は近くにいる、昼は動かず夜に行って、その不意を襲うべし」
苻飛龍はそれに従った。夜、慕容垂は嫡子の慕容宝を前に居させ、庶子の慕容隆を自分に従わせ、慕容宝と連携の上で前後から氐の兵と苻飛龍を挟み撃ちし、彼らを悉く殺した。苻堅には苻飛龍殺害の理由を文書で報告した。
慕容垂は黄河を渡って橋を焼き、兵は3万いた。遼東鮮卑の可足渾潭を留めて兵を河内の沙城(河南省焦作市沁陽市)に集めさせた。慕容垂は鄴の慕容農らと密かに連絡を取り、彼らは兵馬と共に鄴から出奔した。

384年
1月、苻丕は年始に多くの賓客を招いたが、慕容農が来なかったことから、初めて変事を覚った。人を四方に派遣して慕容農の行方を捜したところ、3日して既に列人(河北省邯鄲市肥郷区の北東部)で挙兵していたことが判明した。
翟斌に合流していた慕容鳳・王騰・段延は、翟斌に慕容垂を盟主に推戴するよう勧め、翟斌はこれに従った。慕容垂は翟斌の誠意を疑い、協力を拒んだ。
慕容垂は洛陽に到着したが、苻暉は苻飛龍死亡の報告を受けており、門を閉ざしていた。慕容垂は未だに翟斌の合流を拒んでいたが、翟斌の協力なくして大業は成らないと説得され、ついに受け入れた。翟斌は慕容垂に尊号を称するよう勧めたが、慕容垂は慕容暐を差し置くことはできないと答えた。
洛陽は四方に敵を抱えることから、鄴を優先すべきと考え、洛陽から兵を退いて東に向かった。餘蔚(かつての扶余王で滎陽=河南省鄭州市滎陽市の太守)や衛駒(昌黎=河北省秦皇島市昌黎県で活動した鮮卑)が慕容垂に降った。
部下達が強く尊号を要請したため、晋の中宗(東晋の元帝・司馬睿、傍系から皇帝となった)の故事に従って、大将軍・大都督・燕王を称し、自身の政庁を統府と名付け、官制の整備を行った。弟の慕容徳(のちの南燕初代皇帝)を車騎大将軍・范陽王(前燕時代の王位)とした。兄(慕容恪)の子の慕容楷を征西大将軍・太原王(慕容恪の王位)とした。翟斌を建義大将軍・河南王とした。餘蔚を征東将軍・統府左司馬・扶余王とした。衛駒を鷹揚將軍、慕容鳳を建策将軍とした。兵20余万を率いて、石門から黄河を渡り、長駆して鄴に向かった。
慕容農が列人に走る際に、烏桓族である魯利の家に寄った。魯利は膳を出したが慕容農は笑って食べなかった。魯利はその妻に言った「彼は貴人である、家が貧しく飲食でもてなすことができない、どうしたらよいか」
妻は言った「彼は雄才大志がある、今理由なく訪問したのは、必ず他の理由がある、飲食のためではない。君は速やかに出迎え、遠望の上で非常事態に備えるべきだ」
魯利はこれに従った。
慕容農は魯利に言った「私は兵を列人に集めて燕の復興を図りたい、卿は私に従うか」
魯利は承諾した。
慕容農は烏桓の張驤を訪問し、これに説いた「家王(慕容垂)は既に大事を挙げ、翟斌らはこれを推奉した。遠近はこれに呼応し、来るものが相次いでいる」
張驤は再拝して言った「旧主を得てこれを奉じることが出来るなら、死を尽くさずにいられようか」
慕容農は列人の住民を徴発して兵とし、桑やニレを切って武器とし、前掛けを裂いて旗とし、趙秋を派遣して屠各族の畢聰を説得させた。畢聰は屠各・東夷・烏桓の各部衆数千を率いて慕容農に合流した。慕容農は張驤に輔国将軍、劉大(烏桓:畢聰に呼応し合流)に安遠将軍、魯利に建威将軍を与えた。
慕容農は自ら館陶(河北省邯鄲市館陶県)を攻め落として軍資器械を収め、蘭汗(慕容垂の母方叔父、のちに慕容宝を殺した)らに馬数千匹を略奪させた。兵は数万に至り、張驤らは慕容農を使持節・都督河北諸軍事・驃騎大将軍とし、諸将を監統させ、才に従って部署を配置し、上下は粛然とした。慕容農は、慕容垂とまだ合流していないため将士に封賞しなかった。趙秋は言った「軍に賞が無ければ、士は動かない。今来ている者は皆、一時の功を建て、万世の利を図りたがっている、ちゃんと封土褒賞を行い、中興の基礎を広げるべきである」
慕容農はこれに従ったため、赴く者が相次いだ。慕容垂はこれを聞いたが、善しとした。慕容農は更に有力者を燕に招き、彼らは応じた。
蘭汗らに頓丘(河南省濮陽市)を攻めさせ、勝った。
慕容農の号令は整粛にして、軍に私掠無く、士女は喜んだ。
苻丕は石越に歩騎1万余を率いて慕容農を討たせた。慕容農は言った「石越は智勇の名声がある、今回南に向かって慕容垂の大軍を防がず、こちらに来たのは、慕容垂を恐れて私を侮ったからだろう。必ず備えを設けていない、計略をもって彼を取るべし」
周囲は列人城を治めようと請い、慕容農は言った「善く用兵する者は士を結ぶに心をもってし、他の物ではしない。義兵を起こし、ただ敵を求め、山河を城池とすべき、列人の統治で満足できようか」
石越は列人の西に至り、慕容農は趙秋および参軍の綦毋滕に石越軍の前峰を撃たせ、これを撃破した。
参軍である太原(山西省太原市)の趙謙は慕容農に言った「石越の軍兵は精強だが、人心は恐惶し、容易に破れるはず、これに急襲をかけたい」
慕容農は言った「かの軍の武装は外面にあり、わが軍の武装は心の中にある。昼戦えば士卒は向こうの外面を見て恐れるだろう。暮れを待って撃つのが良い、必ず勝てる」
軍士に号令して備えを厳かにして待ち、みだりに動くのを禁じた。石越は柵を立てて防備を固めた。慕容農は笑って諸将に言った「石越は兵が精強で多勢なのに、到着早々の鋭意に乗じて我を撃たず柵を立てた、彼が無能であると分かった」
暮れに向かい、慕容農は鼓を鳴らしながら出て、列人城の西に兵を並べた。牙門の劉木はまず石越の柵を攻めたいと請い、慕容農は笑って言った「人は美食を見れば誰もがこれを欲しがる、独り占めは良くない。ただ、君の勇猛鋭意は善い、先鋒の栄誉は君に与えよう」
劉木は壮士4百で柵を乗り越え、前秦の兵はその勢いを恐れ従うのみだった。慕容農は多勢を率いて劉木に続き、大いに秦兵を破った。石越を斬り、その首を慕容垂に送った。石越と毛当は、前秦を代表する驍将で、そのため苻堅は息子2人の補佐に彼らを派遣していた(石越は鄴の苻丕、毛当は洛陽の苻暉)。彼らが相次いで敗死した(毛当は383年12月、翟斌軍に斬られた)ため、人心は不安定となり、各所に盗賊が起こった。
慕容垂は鄴に到着すると、改元し、前燕朝の様式を復活させた。慕容農は慕容垂と合流し、慕容垂は慕容農陣営の官位を追認した。慕容宝を太子とし、宗族功臣に王位や爵位を授けた。
可足渾潭は兵を集めて2万余人を得て、野王(河南省焦作市沁陽市)を攻めてこれを抜き、兵を転じて慕容垂に合流し鄴を攻めた。平幼とその弟達もまた、数万を率いて鄴の慕容垂に合流した。
苻丕は慕容垂に姜譲を派遣し説かせた「過ちを改めるのに、まだ遅くはない」
慕容垂は言った「私は主上(苻堅)から大変な恩を受けたので、苻丕を安全にし、人々を悉く動員して長安(陝西省西安市)に護送した後、燕の事業を修復し、秦と長く修好したい。なぜ機運を察することなく、鄴城をもって帰順しないのか。もし迷って燕に鄴を返さないのなら、我は兵勢を突き詰め、単身生き延びることも出来なくなるだろう」
姜譲は血相を変えて慕容垂を責めて言った「将軍(慕容垂、前秦で冠軍将軍だった)は前燕に容れられず、命を聖朝(前秦)に捧げたのだ。燕の土地に将軍の領分などあろうか。主上(苻堅)は将軍と風習・民族で異なったが、一度会っただけで心を傾け、宗族のように親しみ、その寵愛は旧臣以上だった。君臣の待遇であれほど厚いものが過去に有ったろうか。それなのに、ひとたび親征軍が少し敗れたからといって、急に自立しようとしている。長楽公(苻丕)は主上の太子であり、分陝の任を受けている(周公旦と召公奭が、陝=河南省三門峡市陝州区の東西で周を分割統治した故事を持ち出し、苻丕が前秦の東半分を担う存在であると主張)。どうして何もしないまま将軍に百城の地(鄴)を明け渡そうか。将軍が裂冠毀冕(左伝・昭公9年からの引用、冕も冠も頭に被るもので、華夏の文化を失い蛮俗に染まることの比喩)したいなら兵勢を突き詰めればよい、こちらから更に云々することがあろうか。ただ惜しむらくは、将軍が70の年にして(晋書載記だと、慕容垂が死んだ396年で数え71歳なので384年だと59歳のはず)、首を白旗にかけられ(紂王の末路)、高世の忠臣が逆鬼となることだ」
慕容垂は沈黙した。左右は姜譲を殺したいと請うたが、慕容垂は言った「彼は主のためにしただけで、何の罪があろうか」
礼して姜譲を帰し、苻丕と苻堅に文書を送り、利害を述べて苻丕を長安に還すよう請うた。苻堅・苻丕は怒り、返書してこれを責めた。
慕容垂は鄴を攻めてその外郭を抜いた。苻丕は退いて中城を守った。関東(函谷関の東側)6州の郡県は多く使者を送って、燕への投降を請うた。慕容垂は陳留王・慕容紹を冀州刺史として広阿(河北省邢台市隆堯県)に派遣した。

2月、慕容垂は丁零・烏桓の兵20余万を動員して、梯子・地下道と上下から鄴を攻めたが抜けなかった。長大な包囲陣を築いて、老兵・弱兵を肥郷(河北省邯鄲市肥郷区)に配置し、新興城を築いてここに輜重を置いた。
燕の范陽王・慕容徳は秦の枋頭(河南省鶴壁市浚県、かつて慕容垂と桓温が争った)を制圧した。
東胡の王晏は館陶に拠り、鄴の救援勢力となっていた。鮮卑・烏桓や郡県の民にも、集落に籠って燕に従わない者がまだ多かった。慕容垂は慕容楷・慕容紹を派遣し、これを討たせた。慕容楷は慕容紹に言った「鮮卑・烏桓および冀州の民は元々みんな燕の臣だった。いま燕の大業は始まったばかりで、人心一致しておらずバラバラである。これを安定させるには徳を用いるべきで、威圧してはならない。私は1か所に止まり、軍営の本部となる。君は民や夷を巡回・安撫し、そうして大義を示せば、彼らは必ず従うだろう」
慕容楷は辟陽(河北省衡水市冀州区の一部)に駐屯した。慕容紹は騎兵数百を従えて行って王晏を説いて、彼のためのメリット・デメリットを述べたところ、王晏は慕容紹に従って降伏し、ここにおいて鮮卑・烏桓および住民の降る者は数十万となった。
慕容楷は彼らのうち老弱な者達はその場に留め、役人頭を置いて彼らを安撫し、壮丁10余万を徴発し、王晏と鄴に戻った。慕容垂は大いに喜んで言った「君ら兄弟の才は文武を兼ね、先王(慕容恪)を継ぐのに足りている」

3月、慕容垂は前将軍の楽浪王・慕容温を派遣し、信都(河北省衡水市冀州区の一部)の苻定を攻めさせたが勝てなかった。

4月、慕容垂は撫軍大将軍の慕容麟を派遣して慕容温を助けさせた。
このころ関西(函谷関の西側)では慕容泓が自立を図っていた。苻堅の息子である苻叡は、姚萇の諫言を聞かずに慕容泓への無理攻めを行い、敗死した。責任を問われ窮した姚萇は出奔したのだが、そこに尹緯など関西の氏族が集結し、後秦の建国となった。
慕容垂は鄴城の堅固さから、補佐の人々も集めて軍議を行った。右司馬の封衡は漳水から引き込んで鄴を水攻めにしたいと提案し、これが採用された。慕容垂は自ら包囲を行った後、華林園(洛陽のものが有名だが鄴にもあった、曹操の造築とされる)で飲んだ。秦は密かに兵を出してこれを襲った。矢は雨のように降り注ぎ、慕容垂は脱出できなかった。冠軍大将軍の慕容隆が騎兵を率いて秦兵を攻撃し、慕容垂は辛くも難を逃れることが出来た。

5月、信都の苻定、高城(河北省滄州市塩山県と考えるが、河北省石家荘市藁城区の可能性もある)の苻紹が燕に投降した。慕容麟は兵を西に転じて苻亮・苻謨の守備する常山(河北省石家荘市)を攻めた。

6月、前秦軍は姚萇を包囲し、水源を押さえていない後秦軍は窮地となったが、大雨で巻き返された。また、慕容泓が部下に殺され、慕容沖が関西慕容部の棟梁となった。
常山を攻めた慕容麟に対し、苻亮・苻謨は投降した。慕容麟は進んで中山(河北省石家荘市正定県)を囲んだ。

7月、慕容麟は中山で勝ち、苻鑒の身柄を得た。慕容麟の威声は大いに振るい、留まって中山に駐屯した。
秦の幽州刺史・王永(名宰相王猛の子)、平州刺史・苻沖は両州の兵を率いて燕を攻撃した。慕容垂は寧朔将軍の平規を派遣して王永らを攻撃させた。王永は昌黎太守の宋敞を派遣して范陽(河北省保定市定興県)で戦ったが、宋敞の兵は敗れ、平規は進んで薊(北京市)南に拠った。
洛陽を守備していた平原公・苻暉は兵7万を率いて長安に撤退した。その後、洛陽には東晋が進出した。
翟斌は功績を恃んで驕慢・放縦で、要求がエスカレートしていた。また鄴城が久しく落ちないため、密かに二心を抱いた。太子の慕容宝は翟斌を除くよう請うたが、慕容垂は言った「河南で翟斌と交わした盟約に背くべきではない。もし国難が起これば、罪は翟斌に帰せられる。いま変事が明らかでないうちに彼を殺せば、人々は必ず私が彼の功績・能力を忌み憚ったからだと噂する。私は豪傑たちを集めて大業を隆興させようとしている。人に狭量を示して、天下に失望させてはいけない。たとえ彼に謀が有ろうとも、私は智をもってこれを防ぎ、何も成し遂げられないだろう」
范陽王・慕容徳、陳留王・慕容紹、驃騎大将軍の慕容農はみな言った「翟斌兄弟は功を恃んで驕り、必ず国の患いとなるだろう」
慕容垂は言った「驕れば速やかに敗れるから患いとはならない。彼には大功があるので、彼自ら倒れるに任せるだけだ」
更に彼らを礼遇するようになった。
翟斌は丁零族や与党を使って翟斌を尚書令にするよう請わせた。慕容垂は言った「翟王の功績は宰相に相応しい。ただ尚書の役所がまだ建っていないので、尚書令をすぐ置くことができない」
翟斌は怒り、密かに苻丕と共謀し、丁零に堤を決壊させ水攻めを頓挫させようとした。事態は発覚し、慕容垂は翟斌と弟の翟檀・翟敏を殺し、他はみな許した。翟斌の兄の子である翟真は、夜営の兵を率いて北の邯鄲(河北省邯鄲市)に向かい、兵を連れて鄴の包囲陣に向かい、苻丕と内外相応じようとした。太子・慕容宝と冠軍大将軍・慕容隆は翟真軍を撃破し、翟真は邯鄲に敗走した。
太原王・慕容楷と陳留王・慕容紹は、慕容垂にいった「丁零に大志はない、ただ恩寵が過ぎて乱をなしただけだ。いま彼らを拙速に追い込めば、彼らは結集して乱をなすだろう。それに対し、圧迫を緩めれば勝手に散るだろう。散った後にこれを撃てば、必ず勝てる」
慕容垂はこれに従った。

8月、翟真は邯鄲から北に逃走し、慕容垂は太原王・慕容楷と驃騎大将軍・慕容農に騎兵を授け追撃させた。下邑(河南省商丘市夏邑県、時代によっては安徽省宿州市碭山県が加わる、邯鄲より南にあるため本文記載と矛盾する)で追いついた。慕容楷が戦おうとしたところ、慕容農は言った「自軍の士卒は飢え疲れている、かつ賊の軍営を見たところ壮丁が見えない、伏兵が居るはずだ」
慕容楷は従わずに進んで戦い、燕軍は大敗した。翟真は北の中山に赴き、承営(現在地を同定てきず)に駐屯した。
鄴城内部では人馬の食糧が尽き、松木を削って馬を飼っていた。慕容垂は諸将に言った「苻丕は窮寇(窮地に立った敵:孫子・軍争篇にて、窮寇を追いつめないよう戒めている)であるが、彼らには降伏する道理がない。退いて新興城に屯するのが最善である、苻丕が西の長安に帰る道を開き、もって秦王(苻堅)の昔日の恩に謝し、かつ翟真を討つ計に集中しよう」
慕容垂は囲みを解いて新興城に赴いた。慕容農を派遣して清河(河北省南部と山東省北西部にまたがる)・平原(山東省徳州市)を巡り、税を徴収させた。慕容農は明確な約束事を立て、公平を期し、軍令は厳整にして、暴力に頼ることはなかった。これにより、穀物・布帛は街道に列をなし、軍資は豊富となった。
秦の幽州刺史・王永は振威将軍・劉庫仁(独狐部の部族長)に救援を求め、劉庫仁は妻の兄である公孫希に騎兵3千を授けて救援させ、薊南の平規に大勝し、勝ちに乗じて長駆し、唐城に籠り、慕容麟と対峙した。

10月、翟真は承営にあり、公孫希・宋敞と呼応した。苻丕は光祚に兵数百を添えて中山に向かわせ、翟真と同盟を結んだ。また陽平太守の邵興に数千騎を与えて、冀州の郡県から招集をかけ、襄国(河北省邢台市邢台県、後趙の旧都)で光祚と合流させようとした。燕の軍は疲弊し、秦は勢いを取り戻していたため、冀州の郡県は勝敗を見守り、趙郡の趙粟らは柏郷(河北省邢台市柏郷県)で挙兵して邵興に応じた。
慕容垂は、冠軍大将軍・慕容隆と龍驤将軍・張崇を派遣して邵興を攻撃させ、清河にいた驃騎大将軍・慕容農も戦線に投入した。慕容隆は襄国で邵興と戦い、大いにこれを破った。邵興は逃走したが、広阿で慕容農に遭遇し捕らえられた。光祚はこれを聞くと、西山(山西省の首陽山、あるいは北京の西山)を放棄して鄴に逃げ帰った。慕容隆は続いて趙粟らを全て撃破し、冀州の郡県はまた燕に従った。
劉庫仁は公孫希が平規を破ったのを聞いて、自身も大軍を率いて苻丕の救援に向かおうとしたが、当時独狐部へ身を寄せていた慕容文・慕容常に攻め殺された。公孫希の軍勢は自潰し、公孫希は翟真陣営に逃げ込んだ。
苻丕は光祚と封孚を派遣して、晋陽(山西省太原市)にいる張蚝(驃騎将軍)・王騰(并州刺史)に救援を求めたが、彼らは兵が少ないため動けなかった。苻丕は進退窮まり、補佐官と謀議した。司馬の楊膺は東晋に帰服することを請うたが、苻丕は許可しなかった。
このころ東晋の謝玄は、山東・河南・河北に劉牢之ら各将を派遣し、支配域を拡大しつつあった。苻丕は将軍の桑據を黎陽(河南省鶴壁市浚県)に駐屯させて東晋軍を防がせたものの、東晋の劉襲が桑據に夜襲をかけてこれを撃ち破った。苻丕は東晋を恐れ、従弟の苻就と参軍の焦逵を派遣して謝玄に援軍を要請した。謝玄宛の文にはこう書いてあった「道を空けて食糧を求めさせてほしい。それから、西の長安で起こっている国難に赴きたい。既に援軍が到着するのを待っており、来てくれたなら鄴を与えよう。もし西への路が通じず、長安が陥落したならば、このまま鄴を固守するだろう」
焦逵は参軍・姜譲と共に密かに楊膺へ言った「今わが陣営の失敗はこのように明らかである。長安とは連絡が絶え、安否が分からない。秦への節操を曲げ、誠を尽くして兵糧・援軍を求めているが、なお獲られないことを恐れている。にもかかわらず苻丕は強気のままで、彼がどっちつかずの態度を示せば、事は必ず失敗する。上表を正書し、東晋軍が到着したら、苻丕の身をもって東晋に帰順すべきと説得する。もし苻丕が従わなければ、捕縛して身柄を東晋に引き渡そう」
楊膺は自分の力で苻丕を制することが出来ると考え、東晋への上表を送った。

11月、慕容農は信都から西の魯口(現在地を同定できず)に向かい、丁零の翟遼(翟真の従兄)を撃破した。翟遼は無極(河北省石家荘市無極県)に退き、慕容農は蒿城(河北省石家荘市藁城区)に屯してこれに迫った。

12月、長安に居た慕容暐(前燕最後の皇帝)は慕容粛(慕容紹の兄、慕容恪の子)と乱を計画し、苻堅を自宅に招いて殺そうとしたが、大雨で果たされなかった。事が露見したため慕容暐・慕容粛に加え、長安城内の鮮卑族が虐殺された。慕容柔(慕容垂の幼子)は宦官・宋牙の養子だったため助かり、慕容盛(慕容宝の子)と共に長安を脱出し、慕容沖の許に出奔した。
慕容麟・慕容農は兵を合わせて翟遼を襲い、これを大破した。翟遼は単騎で翟真の許に遁走した。
慕容垂は苻丕が鄴に籠って去らないため、鄴を囲みながら苻丕が西(長安)に向かえるよう包囲網の配置転換を行った。
焦逵が謝玄に会ったところ、謝玄は苻丕の人質を援軍の条件として提示した。焦逵が苻丕の誠意と楊膺の意向を伝えたところ、謝玄は劉牢之・滕恬之らに兵2万を与えて鄴の救援に向かわせた。また、苻丕軍が飢餓状態にあったため、謝玄は水陸から米2千斛を送った。

385年
1月、慕容沖は阿房宮(陝西省西安市未央区)で皇帝に即位し、西燕が成立した。西燕は苻堅としばしば戦い、飢饉もあって長安の苻堅は追い詰められていた。
後燕の帯方王・慕容佐は寧朔将軍・平規と共に薊を攻め、王永(前秦の幽州刺史)の軍はしばしば敗れた。

2月、王永は宋敞に和龍(おそらく吉林省延辺朝鮮族自治州和竜市ではなく、龍城=遼寧省朝陽市双塔区のこと)・薊城の宮室を焼かせ、自身は兵3万を率いて壷関(山西省長治市壷関県)に逃走した。慕容佐らは薊に入城した。
慕容農は兵を動かして中山の慕容麟に合流し、共同で翟真を攻めた。慕容麟・慕容農は数千騎で承営に行き、形勢の視察を行った。これを見た翟真は兵を率いて攻撃を仕掛けた。
前燕の諸将は退却を欲したが、慕容農は言った「丁零は勇敢だが、翟真は惰弱だ。いま精鋭を選抜して、翟真の所在に攻撃を仕掛ければ、翟真は必ず逃げ、兵達も逃げ散るだろう。城門で立ち往生しているところに迫れば、かの軍を悉く殺すことが出来よう」
驍騎将軍の慕容国に百余騎を与えて翟真に攻撃をかけさせたところ、翟真は逃走した。翟真麾下の兵達は城門で我先に入ろうとして、お互いに踏みあう大混乱となり、大半が死んだ。ついに承営の外郭を抜いた。
苻堅は慕容沖と長安の西で戦ってこれを大破した。勝ちに乗じた苻堅は慕容沖の本拠地である阿房宮に迫ったが、慕容沖の反撃を恐れて城への突入を行わず、長安へ戻った。
劉牢之が枋頭に到着した。楊膺・姜讓の謀が露見し、苻丕は彼らを殺した。これを聞いた劉牢之は、躊躇して進まなくなった。

3月、苻暉が自殺した。彼は洛陽を放棄して長安に駆けつけたものの、慕容沖にしばしば敗れていたため、苻堅から叱責されていた。
苻堅は慕容沖を攻めて撃破し、鮮卑の捕虜1万余りを得たが、その全てを穴埋めにした。
慕容垂は鄴を攻めていたが、久しく落ちなかった。慕容垂は北方の冀州に活路を見出そうとし、撫軍大将軍・慕容麟を信都に、楽浪王・慕容温を中山に配置し、慕容農を鄴に戻らせた。これを聞いた者達は、後燕が振るわないと考え、自らの去就を考え直すようになった。
慕容農は高邑(河北省石家荘市高邑県)に到着し、眭邃を派遣したが、期限が過ぎても戻ってこなかった。長史の張攀は慕容農に言った「眭邃はいま、補佐の任であるにもかかわらず、あなたを欺いて還らなかった。軍を派遣して彼を討つべきである」
慕容農は応じず、詔勅を偽造して眭邃を高陽太守とし、同様に趙国以北を本貫地とする補佐の者達へ、太守・長史の地位を与えた。そして張攀に言った「君の所見は大いに間違っている。いま内紛を起こすべきではない。私が北に還る頃には、眭邃らは我々を迎えるだろう。君はただこれを観ていたまえ」
楽浪王・慕容温は中山に居たが、兵力は甚だ不足しており、丁零は四方で諸城に割拠していた。慕容温は諸将に言った「我が兵は攻めるには足りないが、守るには十分である。驃騎(慕容農)・撫軍(慕容麟)が兵を率いて、必ず賊軍を撃滅するはずである。今はただ糧を集め、兵を研ぎ、時を待つのみである」
こうして古くからの者達を慰撫し、新たな者達を招いた。農業・養蚕を奨励し、中山の住民で帰属する者は相次いた。郡県の城墻・堡塁は争うように軍糧を送り、倉庫は満ち溢れた。翟真は中山に夜襲をかけたが、慕容温はこれを撃破し、このあと再来することはなかった。慕容温は兵1万を派遣して、兵糧を慕容垂に届けさせた。また、将来の首都として慕容垂を迎えるべく、中山で宮室の造営を行った。
劉牢之は燕の黎陽太守・劉撫を攻めた。慕容垂は慕容農を留めて鄴の包囲を維持したまま、自ら劉撫の救援に向かった。苻丕は慕容垂不在を聞くと、兵を出して後燕の軍営に夜襲をかけたが、慕容農はこれを撃ち破った。劉牢之は慕容垂と戦ったが勝てず、退いて黎陽に駐屯した。慕容垂は鄴に戻った。

4月、劉牢之は兵を進めて鄴に至った。慕容垂は苻丕に向けていた兵を反転して劉牢之と戦ったが敗れた。ついに鄴への包囲を撤収し、退いて肥郷の新興城に駐屯した後、更に北へ逃げた。劉牢之は苻丕に無断で慕容垂を追いかけた。苻丕はこれを聞くと、劉牢之に続いて進軍した。劉牢之は董唐淵(現在地を同定できず)で慕容垂に追いついた。慕容垂は言った「秦と晋の連合が緊密でないことは瓦のようで、自軍が有利になるようお互いの出方を見ている。一度勝てば共に強気になり、一度失えば共に潰走し、両者の相補関係は築かれていない。いま両軍が相次いで来ているが、その軍勢はまだ合流していない。先行する劉牢之に急襲をかけるべきだ」
劉牢之は2百里を早駆した。彼の軍は五橋澤(現在地を同定できず)で燕の輜重を略奪するのに夢中で、味方同士で争う有様だった。慕容垂は劉牢之軍に迎撃し、これを大破した。斬首は数千。劉牢之は単騎で逃走し、たまたま秦の救援が到着したため、なんとか難を免れることが出来た。
後燕の冠軍将軍である宣都王・慕容鳳は戦う度に奮戦し、身の安全を顧慮しなかった。にもかかわらず、大小合わせて257回の戦闘において、大きな功績がなかった。慕容垂は彼を戒めて言った「今大業が初めて成った、汝はまず自分の身を愛せよ」
慕容鳳を車騎将軍・慕容徳の副将とし、その鋭気を抑えさせた。
鄴内部の飢えが甚だしかったため、苻丕は兵を率いて枋頭に行き、東晋の穀物にありついた。劉牢之は鄴城に駐屯し、敗残兵を収集し、軍を立て直した。軍が敗れた責任を取って、劉牢之は召還された。
後燕と前秦の対峙は長期化し、幽州・冀州は大いに餓え、人はお互いを食いあう有様で、集落は蕭條(物寂しい、不景気な)であった。後燕の兵士は多く餓死し、慕容垂は民に養蚕を禁じ、桑の実を軍糧としていた。慕容垂は北の中山に向かおうとし、驃騎大将軍の慕容農を先発とした。以前官位を与えた眭邃らは後燕の許に来て歓迎し、李(張攀の誤記か)は慕容農の智略に敬服した。
翟真は承営から行唐(河北省石家荘市行唐県)に移った。翟真の司馬である鮮于乞は翟真および諸々の翟氏を殺し、自立して趙王を名乗った。軍人たちは共謀して鮮于乞を殺し、翟真の従弟の翟成を擁立して軍主とした。彼らの兵は多く後燕に降った。

5月、西燕の慕容沖は長安を攻め、前秦の驍将である衛将軍・楊定を捕えた。追い詰められた苻堅は予言書に従い、長安を脱出して五将山(岐山、陝西省宝鶏市岐山県)での長久を図った。長安の守備には太子の苻宏を残した。

閏5月、慕容垂は常山に至り、翟成を行唐で包囲した。帯方王・慕容佐に命じて龍城を鎮守させた。

6月、高句麗が遼東に侵攻した。慕容佐は司馬の郝景を派遣して遼東の救援を試みたが、高句麗軍に敗れた。高句麗はついに遼東・玄菟(中国東北部から朝鮮半島北部に設置された郡)を陥落させた。
前秦の太子・苻宏が長安を放棄した。

7月、後秦の姚萇は呉忠を派遣して、五将山の苻堅を包囲した。苻堅は捕らえられ、新平(陝西省咸陽市)に幽閉された。
苻丕は兵3万を率いて枋頭から鄴城に帰ろうとした。東晋の龍驤将軍・檀玄は苻丕と谷口(現在地を同定できず)で戦った。檀玄の兵は敗れ、苻丕は鄴城に入ることができた。
建節将軍・餘巖が後燕に叛き、武邑(河北省衡水市武邑県)から北の幽州に向かった。慕容垂は幽州の将である平規に詔勅を下して言った「固守して戦うな、我が丁零を破った後で自ら討伐しよう」
平規は出て戦い、餘巖に敗れた。餘巖は薊に入り、千余戸から掠奪して去り、令支(河北省遷安市の南西部)に拠った。
翟成の長史である鮮于得が翟成を斬って後燕に降伏した。慕容垂は行唐で虐殺行為を行い、翟成の領民を悉く穴埋めにした。

8月、東晋の重鎮である謝安は、司馬道子との対立もあって、前秦の救援という体裁で広陵(江蘇省の淮安市・揚州市周囲)へ出鎮していた。この頃に病となった謝安は建康(江蘇省南京市)へ戻り、そこで死んだ。
姚萇は苻堅に伝国の玉璽を求めたが、苻堅は応じず、新平の仏寺で絞殺された。張夫人や中山公・苻詵はみな自殺し、後秦の将士はみな死者のために哀慟した。姚萇は苻堅殺害の悪名を隠そうとし、苻堅を壮烈天王と諡(おくりな)した。
鄴の苻丕は長安に赴こうとしていた。王永(前秦の幽州刺史)は壷関で苻丕を招いた。苻丕は鄴の男女6万余人を連れて、西の潞川(山西省南東部の濁漳河)に行き、驃騎将軍・張蚝や并州刺史・王騰は苻丕を迎えて晋陽に入った。王永は平州刺史の苻沖を壷関の守備に残して、自身は騎兵1万を率いて晋陽の苻丕に会った。苻丕は長安陥落と苻堅死亡を知ると、喪を発して皇帝に即位した。苻堅を宣昭皇帝と追諡し、廟号は世祖とした。大赦し、大安と改元した。
慕容垂は魯王・慕容和を南中郎将とし、鄴を鎮守させた。慕容農を派遣して蠮螉塞(北京市昌平県西北)に出て、凡城(河北省承徳市平泉市、かつて後趙と前燕が戦った)を経て、龍城に赴き、兵を合わせて餘巖を討たせ、慕容麟・慕容隆は信都から渤海・清河を巡らせた。慕容麟は前秦の渤海太守である封懿(前燕の封放の子、のちに後燕・北魏に仕えた)を撃破して、これを捕えた。慕容麟は歴口(現在地を同定できず)に駐屯した。
劉庫仁の死後、独狐部(匈奴と理解されているが、ここの記事では鮮卑とある)の部族長を継いでいた弟の劉頭眷が、劉庫仁の息子である劉顕に殺された。劉顕は独狐部の部族長となった。独狐部を頼っていた拓跋珪は劉顕から命を狙われ、拓跋珪は母の賀氏の助けで彼女の出身部族である賀蘭部に逃げた。拓跋珪の求心力は賀蘭部で危険視され、ここでも命を狙われたが、また母により助けられた。

9月、苻丕は張蚝・王永・王騰・苻沖らに官位を与えて新体制を発足。楊氏を皇后とし、苻寧を皇太子とし、息子らを王に封じた。
西域の亀茲への遠征を終えた呂光は東へ戻ろうとしたが、前秦の涼州刺史である梁熙に阻まれた。呂光は自ら涼州刺史を名乗り、前秦からの自立傾向を示した。
西部鮮卑の乞伏国仁も大都督・大将軍・単于を名乗って自立し、改元した。
前秦の尚書令であった魏昌公・苻纂は、混乱した関西から晋陽に逃げた。苻丕は苻纂を太尉とし、東海王に封じた。

10月、西燕は兵5万で後秦への討伐を行ったが敗れた。西燕に従軍していた楊定が隴右(甘粛省南部)に逃げた。
後燕に降伏していた苻氏らは、苻丕の即位を聞くと河北より遣使して謝罪した。前秦の中山太守・王兗は、もともと新平を本貫地とする氐族で、博陵(河北省保定市唐県もしくは河北省保定市蠡県)を後燕から固守していた。

11月、苻丕は王兗を平州刺史とし、河北苻氏らへの任官も行った。
苻丕は隴右の前秦勢力と後秦を挟撃する体制を取ったが、楊定が仇池公・龍驤将軍を名乗り、東晋に称藩した。東晋は楊定が自称していた官爵を承認した。
繹幕(山東省徳州市平原県北西部)を本貫地とする蔡匡が後燕に叛いて城に篭った。慕容麟・慕容隆は共に蔡匡を攻めた。東晋の泰山太守である任泰が兵を潜めて蔡匡を救援しようとした。蔡匡の堡塁から南へ8里のところで、後燕軍は任泰の援軍に気づいた。諸将は蔡匡が降伏しないうちに、外敵が突如現れたため、大いに心配した。慕容隆は言った「蔡匡は外部からの救援を恃んで降伏しなかった。いま任泰の兵を計ってみたが数千人に過ぎない。彼らが合流しないうちにこれを撃てば、任泰は敗れ、蔡匡は自ら降伏するだろう」
蔡匡を捨て置いて任泰を攻撃し、大いにこれを破った。斬首は千余り。蔡匡はついに降伏した。慕容垂は蔡匡を殺し、蔡匡の堡塁に居た人たちも殺した。
慕容農は龍城に到着し、兵馬を休めて10余日。諸将は皆言った「殿下が龍城までの道中を急行したにも関わらず、龍城でしばらく留まって進まない理由はなぜか」
慕容農は言った「私がここまで急行したのは、餘巖が白狼山(遼寧省朝陽市カラチン左翼モンゴル族自治県、かつて曹操が烏桓と戦った)を越えて盗み、良民を侵し乱すことを恐れただけだ。餘巖は凡才で、餓えた者達をそそのかし、烏合の衆となっており、綱紀など無い。龍城に到着した私は既に彼の喉元を締めており、時間がたてば彼の兵は離散するだろう。この状況を彼はどうすることも出来ない。いまここの田は善く熟し、収穫せずに行けば、いたずらに消耗するだけだ。収穫が終わるのを待ってから、行って彼の首を取ろう、出発まであと10日のみだ」
しばらくして、慕容農は歩兵騎兵あわせて3万で令支に到着した。餘巖の兵は震駭(驚き、震えること)し、城とともに慕容農へ帰順した。餘巖は万策尽きて降伏し、慕容農はこれを斬った。更に進んで高句麗を撃ち、遼東・玄菟の2郡を取り戻した。
慕容農は龍城に戻り、陵廟(龍城はかつて前燕の首都だった)の修繕を要請した。慕容垂は慕容農を使持節・都督幽平二州北狄諸軍事・幽州牧とし、龍城に鎮守させた。平州刺史の帯方王・慕容佐は平郭(遼寧省営口市蓋州市)に移した。
慕容農は初めて法制を立て、緩やかで簡便な統治を原則とし、刑獄を清め、賦役をはぶき、農業養蚕を奨励し、住民は満ち足り豊かであった。四方の流民で慕容農の許に至るものは数万人。かつて幽州・冀州の流民は多くが高句麗に逃れていたが、慕容農は驃騎司馬で范陽を本貫地とする龐淵を遼東太守とし、流民達を招き慰撫した。
慕容麟は博陵の王兗を攻めた。博陵城内では食糧と矢が尽き、前秦の功曹である張猗が慕容麟に内応し兵を集めて城を出た。王兗は張猗を責めて言った「卿は秦の民で、我は卿の上司である。卿は兵を起こして賊に応じながら、自ら義兵を名乗っている。この名実の相違はどういうことか。古の人で忠臣を求める時は、親孝行であることが要件となった。卿の母は城内に居るのに、これを捨てて顧みていない、私はこれをどう考えたらよいか。いま人々は卿の一切の功績を忘れ去り、卿の不忠不孝の事は忘れることが無いだろう。中州は礼義の国のはずなのに、卿のような者が居ようとは」

12月、慕容麟は博陵を抜き、王兗と苻鑒を捕え、どちらも殺した。前秦の昌黎太守・宋敞は烏桓・索頭(弁髪のことで、鮮卑の別称とされる)の兵を率いて王兗を救おうとしたが、及ばず帰った。苻丕は宋敞を王兗に代わる平州刺史とした。
慕容垂は北上して中山に到着し、諸将に言った「楽浪王・慕容温は流民を招き、倉庫を満たし、外に軍糧を給し、内に宮室を営んだ。蕭何をも上回る功績である」
慕容垂は中山に都を定めた。
苻定は信都に拠って後燕を拒んでいたが、慕容垂は従弟の北地王・慕容精を冀州刺史とし、兵を与えて苻定を攻めさせた。

386年
1月、拓跋珪が代の王に即位し、改元した。
燕王だった慕容垂が皇帝に即位した。
翟真が殺された前年、翟遼は黎陽に逃げ、東晋の黎陽太守である滕恬之は翟遼を甚だ信愛した。滕恬之は狩りを好んで士卒を愛さなかった。翟遼は密かに根回しを行い、兵達の心を掴んでいた。滕恬之が南の鹿鳴城(河南省周口市鹿邑県)を攻めた時、翟遼は後方で閉門し滕恬之が戻るのを拒絶した。滕恬之は東の鄄城(山東省菏沢市鄄城県)に逃げたが、翟遼は追って滕恬之を捕え、ついに黎陽を掌握した。東晋の豫州刺史である朱序は、将軍の秦膺・童斌を派遣し、淮水・泗水の諸軍と共に翟遼を攻撃した。

2月、後燕は大赦・改元し、人事制度・宗廟を整備した。
慕容沖は長安が気に入って、かつ慕容垂の強勢を恐れたため、東へ向かわずにいた。前燕の旧領への帰還を望んだ鮮卑達は慕容沖を恨み、左将軍の韓延が慕容沖を攻め殺した。段隨が西燕の王となり、改元した。

3月、慕容垂は慕容皝の側室だった母の蘭氏を追尊して文昭皇后とし、正室だった文明皇后段氏の代わりに太祖(慕容皝)と合祀しようとした。百官に議論させたが、皆に反論はなかった。博士の劉詳・董謐は主張した「堯の母は帝嚳の妃だったが、第三位だったため、息子が高貴な身分になったとはいえ、姜原(嚳の正妻、后稷の母)を差し置くようなことはなかった。明聖の道は極めて公平なことを優先する。文昭皇后には別に廟を立てるべきである」
慕容垂は怒り、劉詳・董謐に迫ったところ、彼らは言った「上がなしたいところは、臣に問うものではない。臣の回答は経書を踏まえ礼を重んじた結果であり、別の回答をあえて行うことはない」
慕容垂は再び儒学者達に問うことはせず、ついに段后を遷し、蘭后をこれに代えた。また景昭(慕容儁)の皇后可足渾氏が前燕の社稷を傾けたとして、これを追廃し、代わりに烈祖(慕容儁)の昭儀だった段氏を景徳皇后として、慕容儁と合祀した。
西燕では段隨・慕容顗・慕容瑤と3人の君主が相次いで殺された。慕容泓の子である慕容忠が擁立され、実権は慕容永が握った。

4月、慕容垂は子の慕容農を遼西王とし、慕容麟を趙王、慕容隆を高陽王とした。
代王の拓跋珪は魏王と称した。
前涼の王族である張大豫は、王穆や禿髪奚於と連携して呂光に当たったが、呂光は彼らを撃破した。前秦は呂光に車騎大将軍・涼州牧の官位を授けたが、苻丕の居る晋陽からの使者は中途の後秦で殺され、たどり着けなかった。
慕容垂は范陽王・慕容徳を尚書令、太原王・慕容楷を尚書左僕射、楽浪王・慕容温を司隷校尉とした。
西燕が去った後の長安は後秦が掌握し、姚萇はそこで皇帝に即位した。

6月、東晋が弘農(河南省三門峡市霊宝市)を攻め取った。
西燕の刁雲らは君主の慕容忠を殺し、慕容永を推した。慕容永は後燕に称藩した。
慕容垂は慕容楷ら諸王を派遣し、苻定ら関東苻氏を攻めさせた。慕容楷は文書で禍福を述べ、苻定らはみな降伏した。慕容垂は苻定らを侯爵に封じて言った「こうやって秦主(苻堅)の徳に報いよう」
苻丕は都督中外諸軍事・司徒・録尚書事の王永を左丞相・太尉とし、東海王・苻纂を大司馬とし、司空の張蛇を太尉(おそらく司徒の誤記)とし、尚書令の徐義を司空とし、司隷校尉の王騰を驃騎大将軍・儀同三司とした。王永は四方に檄文を伝え、共に姚萇・慕容垂を討とうとし、地方の有力者たちが前秦の下に集まった。

7月、前秦は後秦の安定(甘粛省平涼市涇川県)を攻撃し、一度勝った。姚萇は長安を弟の姚緒に任せて親征し、前秦軍を大破した。
枹罕(甘粛省臨夏回族自治州)の諸氐は老衰した衛平の代わりに、苻丕の族子である苻登を奉じた。

8月、慕容垂は太子の慕容宝に中山の留守を任せ、趙王・慕容麟を尚書右僕射として軍務を補佐させた。慕容垂自身は范陽王・慕容徳らを率いて南征し、高陽王・慕容隆を東の平原へ向かわせた。丁零の鮮于乞は曲陽(河北省保定市曲陽県)の西山を保持し、慕容垂が南伐することを聞くと、出撃して望都(河北省保定市望都県)に軍営し、住民からの略奪を行った。
慕容麟は自ら出撃して鮮于乞を撃とうとした。諸将はみな言った「殿下が中山を空けて遠征し、万一功無く帰れば、殿下の威厳が損なわれる、諸将を遣わして鮮于乞を討つ方が良い」
慕容麟は言った「鮮于乞は皇帝陛下が外征しているのを聞いて、油断し、決して備えを設けていない、一挙に捕えることができるだろう、心配には当たらない」
公言して魯口に至り、夜に迂回して鮮于乞に向かい、明け方に鮮于乞の陣営に至った。不意討ちして鮮于乞を捕えた。
翟遼は譙(安徽省亳州市譙城区)に侵攻したが、朱序により撃退された。
苻丕は苻登を征西大将軍・開府儀同三司・南安王・持節・州牧・都督とし、苻登が自称していた官爵を全て承認した。徐義を右丞相とした。王謄に晋陽の留守を任せ、尚書右僕射の楊輔に壷関を守備させると、自身は兵4万を率いて、平陽(山西省臨汾市堯都区)に進軍した。
姚萇の弟である姚碩徳は隴上(現在地を同定できず)で姚萇に呼応していた。彼ら兄弟は連携し、前秦の西方における版図を徐々に浸食していた。
拓跋什翼犍の少子の拓跋窟咄(拓跋珪の叔父)は前秦、西燕に身を寄せていたが、その後独狐部の劉顕が身柄を押さえ、北魏の南側国境に迫った。北魏内の諸部族は動揺し、拓跋珪の側近にも内応して彼の命を狙う者が現れた。拓跋珪は賀蘭部に逃げた後、後燕に救援を求めた。慕容垂は慕容麟を派遣して拓跋珪を救った。

9月、前秦で秦州(甘粛省天水市付近)を保持していた王統が後秦に降伏した。
呂光は苻堅の死を知り、軍を挙げて白い喪服を着させ、苻堅を文昭皇帝と諡した。

10月、西燕の慕容永は苻丕に使者を送り、道を借りて東に帰ることを求めた。苻丕は許さず、慕容永と襄陵(山西省臨汾市襄汾県)で戦った。前秦は大敗し、左丞相の王永、衛大将軍の倶石子が死んだ。
苻丕は長安から逃げてきた苻纂と対立しており、苻纂には壮兵3千余人がいた。西燕に敗北した苻丕は苻纂に殺されるのを恐れ、騎兵数千で南の東垣(河南省洛陽市新安県もしくは山西省運城市垣曲県)に走り、洛陽を襲おうとした。東晋の揚威将軍の馮該は陝から苻丕に奇襲をかけ、苻丕を殺した。太子・苻寧と長楽王・苻壽は捕らえられ建康に送られたが、助命され、先に東晋へ投降していた苻宏の下に付けられた。苻纂は弟の尚書である永平侯・苻師奴と共に前秦兵数万を率いて遁走して杏城(陝西省延安市黄陵県)に籠り、他の王公百官は慕容永に没した(死没か埋没か悩ましい)。
慕容永は長子(山西省長治市長子県)で皇帝に即位した。苻丕の皇后だった楊氏を妻に迎えたが、楊氏は剣で慕容永を刺したため慕容永に殺された。

放論
前秦は前燕の旧領でも善政を心掛けていた。にもかかわらず、関東では前燕復興への待望論が根強かった(小野響 「前秦崩壊と華北動乱」)。これは慕容恪らの遺徳というべきか。
一方で、関西では苻堅支持が根強く、前秦のみでなく、後涼、さらには苻堅を殺害した後秦まで彼に諡号をおくる状況であった。
東西で苻堅政権に対する評価が大きく異なることは、後編に取り上げる姚萇との対比で明らかとなるだろう。

後燕の建国段階において、烏合の衆という言葉が何度も頭に浮かんだ。前燕の旧領という地の利、慕容垂の実力、この両者が無ければ泡沫な内乱の1つで終わってもおかしくなかった。
逆に言えば、慕容垂が一定の成功を収めることさえなければ、前秦は華北の統合をしばらく維持できた可能性がある。関西における慕容泓の自立は慕容垂に続いたものだし、慕容泓と戦って敗戦後の処理を誤らなければ姚萇の自立はなかった。

前秦と後燕の対決を俯瞰すると、異民族同士の衝突であるにも関わらず、ルール無用の殺し合いとは異なる様相を感じ取れる。後燕と翟魏の衝突を見比べれば、差は明らかだ。苻堅と慕容垂の間には、道を分かった後でも、お互いへの譲歩を生み出す絆があったのだろう。ただし、苻堅の慕容部への対応は相当余裕を欠いている。五胡十六国を代表する仁徳の君とされる苻堅だが、晩年を考えるとやはりその評価には下方修正が必要だ。

たとえ関東で慕容垂が自立したとしても、苻堅が本拠地の長安周囲をしっかりと固めていれば、苻丕が落ち着かない気持ちのまま鄴で過ごすことはなく、西からの援軍も期待できた。結果として関東における前秦の戦況も遥かに良くなっていたはずである。
結局のところ、地固めが足りなかったのだ。淝水の敗因についての議論は尽きないが、前秦の持続性に限ったとしても、前燕旧領どころか首都長安に不安要素を抱えたままで東晋の併呑を試みたこと、長安や洛陽に腰を落ち着けることなく自ら出馬したこと、これらの損失は計り知れない。

慕容垂を相手に粘り強い抵抗を示した苻丕だったが、西燕相手に敗走したあと東晋に殺され、あっさり退場した。
東に帰りたい慕容部を遮ったことが敗因となったのは、くしくも苻叡と同じである。望郷の念に駆られ、追い詰められた軍の前に立ち塞がるのは、よほどリスキーな行為なのだろう。まして、五胡十六国有数の戦闘集団たる慕容部相手であれば尚更である。
対して慕容垂は、苻丕が長安に帰れるよう西側の包囲を空けていた。
慕容垂自身も苻丕の包囲にあたって孫子を引用していたが、まさに帰師勿遏と窮寇勿追の実例となった。

後出しになるが、苻堅死後に晋陽へ向かった苻丕の方針は疑問視される。
山西に居たままでは、後燕・後秦と東西二正面の攻防を強いられるし、北方には拓跋部など諸部族、南方には当時の最強国である東晋がいたのだ。
後燕と講和して長安に西帰し、苻堅の仇敵である後秦に集中し、前秦の根源地である関中の旧領回復に専念するべきだったのではないか。
敵討ちの大義と根源地を求めリスクを冒して関西に飛び込むべきところを、前秦支配が続き当面安全な山西に逃げ込んだこと。ここに苻丕の限界があったように思われる。
苻丕の器だと、苻堅の片腕として慕容垂相手に鄴を死守するという役割には応えられても、国主として後秦・後燕・東晋・西燕など周辺国全てと自力で渡り合うレベルには達していなかったのだろう。
それに対し、容易に支配できた洛陽を見送って鄴に集中した慕容垂の戦略眼はやはり優れている。しかしながら、苻丕の頑強な抵抗に手を焼いているうちに、東晋が鄴周囲まで進出してしまった。慕容垂は鄴を首都とすることを諦めざるを得ず、これは後燕の限界点を大きく規定する結果となった。

慕容農と慕容麟、後燕の創立期・拡大期において両名の役割が大変重要だったことが分かる。太子慕容宝にとって、これほどの働きを示した兄弟の存在は脅威であり、後燕の先行きに早くも暗雲が立ち込めていることを感じとれる。

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