中国史のダイナミズムを理解する上で地理的背景は欠かせない

歴代中国王朝の首都として有名な洛陽と長安。併記されることも多いが、両者の有する機能は大きく異なった。
端的に言えば、洛陽が商都であったのに対し、長安は軍都であったのだ。

中国史におけるダイナミズムの原点は、最も豊かな土地と最も軍事的に優れた土地が異なるということに尽きる。

最も豊かな土地とは、中原であった。
中原とは、黄河中下流の南方に広がる平原で、現在の河南省付近を指す。中原は黄河文明の黎明地であった。黄河を利用した灌漑農業の余剰生産力により、生命維持に関わらない領域にリソースを投入できるようになり、結果として文明が発展したというお決まりのパターンである。時代は下って周王朝の頃、中原には鄭・衛・曹・宋・陳・蔡など多くの国家群がひしめき合った。これは、狭い国土にあっても多くの利権を得られたこと、豊かであったが故に諸勢力が争奪しあう対象となったことを反映している。
その中原を代表する都市が洛陽(洛邑)である。ここでは二里頭遺跡が発掘されており、夏王朝との関連も示唆されている。中原の西端にあたる洛陽がなぜ中核都市となりえたか、色々と議論の余地はあるものの、自分が思いつく範囲で挙げると下のようになる。

  • 山を後背とした城邑作りが可能で防衛に優れていた
  • 黄河はしばしばその流路を変えているが、洛陽付近は比較的安定していた、氾濫も少ない
  • 渡河地点に近く、北方との連絡が可能であった
  • 中原としては上流寄りにあるため、人・物資の分配が容易かつ攻められにくかった

最も軍事的に優れた土地とは、北方であった。
火器が発達する中世以前において、騎兵は圧倒的な戦力を誇った兵科であった。現代ウマは紀元前2200年頃のロシアのボルガ・ドン地域が起源であるとされている。ボルガ・ドン地域はステップと呼ばれる比較的寒冷な草原地帯である。中華の北方もステップであり、馬の生育は容易であった。また、北方のステップは農業に不向きであったがゆえに、遊牧を生業とするようになり、住民は特別な訓練なしで騎兵になる素養を持っていた。以上から北方は、騎兵に起因する軍事的優位性を持ったエリアとなった。
そして、東漢(後漢:五代のものと区別するため)の行政区分における幽州・并州・涼州もまた、騎兵の調達が容易なエリアであった。皇甫嵩(涼州)、麹義(涼州)、盧植(幽州)、徐栄(幽州)、劉備(幽州)、呂布(并州)、張遼(并州)と、東漢から三国時代にかけて最高峰の陸戦指揮官が上記3州に集中しているが、これまでに述べた地理的背景を踏まえると、決して偶然ではなかったと考えられる。

最も豊かな中原、最も軍事的に優れた北方、その両者を結ぶ接点が渭水盆地と河北エリアである。渭水盆地は黄河の支流である渭水流域の盆地で、現在の陝西省付近にあたる。渭水盆地は関中と呼ばれることも多く、歴史的に重要な役割を果たしてきた。一方、河北エリアは黄河中下流の北側に広がる平野部で、現在の河北省付近にあたる。これら2つのエリアでは、中原由来の経済的恩恵を享受しつつ、北方からの騎兵供給も得ることができた。

そして、渭水盆地を代表する都市が長安であり、河北エリアを代表する都市が鄴であった。
戦乱期における長安と鄴の重要性は、商業文化の中心である洛陽をしばしば凌いだ。
統一王朝の本拠地を見ても、陝西を拠点にしたのが、秦・西漢(前漢)であり、河北を足がかりにしたのが東漢であった(袁紹・曹操は光武帝の事績を模倣しようとした)。
八王の乱後期、五胡十六国、南北朝といった時代は混沌としており敬遠されがちだが、長安と鄴をどの勢力が掌握し、どちらが優勢かで概ね説明できる。

中華文明の浸透、江南の開発、海運の発達などにより、中原の持つ経済的優位性は次第に失われていった。それに伴って、洛陽だけでなく、中原とのアクセスを前提として重視された長安・鄴も、その意義を徐々に変化させていった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次