高句麗という一大勢力

高句麗の歴史におけるハイライトは、隋の度重なる侵攻を撃退し、隋崩壊のきっかけとなったことである。高句麗はその後の李世民(唐太宗)による攻撃すら凌いだ。
そんな凄まじい底力を持った高句麗だが、魏晋南北朝でもしばしば存在感を示している。

高句麗は西漢(前漢)期の前1世紀ごろに興った勢力とされる。その起源は更に古い歴史を持つ夫余族であると史料に残っているが、墳墓など考古学的観点から否定する意見もある。
王莽は高句麗兵を用いて匈奴を討伐しようとしたが、うまく動員できなかった。そのため王莽は高句麗王を殺したが、これを契機に反乱が激化し、新国滅亡の一因となった。
東漢(後漢:五代と区別したいので)の治世の間、高句麗は東北部で勢力を誇示していた。三国魏のころ、それまで高句麗を圧迫していた遼東の公孫氏が滅亡した。高句麗はこの機会に勢力伸長を試みたが、そこで魏は毋丘倹を派遣した。司馬師に対して反乱を起こしたあの毋丘倹である。彼の侵攻により高句麗は首都丸都(現在の中国吉林省集安市)を落されたが、滅亡には至らず政体を保つことができた。
西晋が八王の乱・永嘉の乱などで混乱すると、高句麗はそれに乗じて領土拡大した。しかしながら、その後慕容皝の前燕と衝突することになった。前燕の攻撃により、高句麗は再び首都丸都を失ったが、前燕に臣従することで危機を乗り切った。前燕を滅ぼした前秦に対しても高句麗は関係強化を試みた。
前秦崩壊後は再び勢力を伸長し、慕容垂率いる後燕に対し、圧迫を加えるほどであった。また、北燕初代皇帝として高句麗人の慕容雲(高雲)が擁立された。
南北朝時代は両朝それぞれと通交して文物の輸入に努めた。この頃は朝鮮半島方面での領土拡大に専念し、西暦427年(五胡か南北朝か微妙なタイミングだが)に首都を丸都から平壌に遷した。当時が高句麗の全盛期で、間違いなく東北部における最強国家であった。
南北朝の並立を前提に外交戦略を組んでいた高句麗だったが、隋の中華統一に伴い歯車が狂い始めた。高句麗は隋・唐の度重なる侵攻を受けたものの、粘り強く持ちこたえた。そこで唐は新羅に目を付け、百済を滅ぼさせるなど国力を高めた上で、高句麗に二正面作戦を仕掛けた。その結果、668年をもって高句麗は滅亡した。

高句麗の滅亡後、唐を朝鮮半島から追い出した新羅だったが、高句麗を継承して698年に東北部より興った渤海国から圧迫を受けた。渤海国は926年に契丹の手で滅ぼされたが、高句麗の系譜はその後も続いた。
9世紀末、後百済に続いて後高句麗(泰封)が新羅から独立し、朝鮮半島は後三国時代を迎えた。918年に後高句麗を乗っ取った高麗は、935年に新羅を滅ぼし、936年に後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一した。

このように東北部の一大勢力として、何世紀にも渡って存在感を示し続けた高句麗だが、その強さについては、やはり騎兵との関わりから論じるべきであろう。
高句麗が拠った東北部は寒冷な気候で、馬の生育に有利だった。また、農耕に不利な気候ゆえに遊牧を生業とするものが多く、騎兵に転じやすい環境だったと考えられる。出土する馬具の成熟度が三燕(前燕・後燕・北燕)と比べてさほど劣っていないこと、高句麗古墳群に描かれた騎馬の壁画など、考古学的成果も高句麗が騎馬民族として持っていたポテンシャルの高さを裏付けている。

高句麗については、日本との関わりも言及しておきたい。
乙巳の変(大化の改新)・白村江の戦い・壬申の乱、7世紀は古代日本にとって歴史的大事件が続けざまに起こった。
これらは、親百済か親新羅か、という観点から議論されることが多い。しかしながら、その更に背後で、朝鮮古代三国の残り1国かつ最大の勢力を持つ高句麗、そして東アジアの超大国唐が影響を及ぼしていたことは間違いない。
高句麗と日本は、西暦400年前後に朝鮮半島南部の主導権をかけて衝突したとされるが、新羅が台頭した6世紀後半以後の関係は比較的良好だったと考えられている。高句麗滅亡後にその後継を自任した渤海国は、唐・新羅よりも日本と通交していた。
上で言及した高句麗古墳群の壁画には、高松塚古墳など日本の古墳壁画との類似性を示すものがあり、文化的連帯を改めて思い知らされる。なお、高句麗古墳群の世界遺産登録に当たっては、日本画家平山郁夫の尽力があった。

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