公孫瓚はかつて、中華における最大勢力であった

公孫瓚は過小評価されている。世間一般の公孫瓚に対するイメージは、袁紹に一方的に押し込まれて、救援勢力の見込めない籠城策をとって、当たり前のように最期を迎えたというもの。だがこれは、袁紹と公孫瓚の戦役におけるごく一部分を切り取ったものに過ぎない。

序論:曹操「袁紹さえ倒せば、あとは何とかなる」

曹操にとっての官渡は、孫権にとっての赤壁同様、国力差の大きな非対称の戦争であった。袁紹は官渡で敗れても次の機会を幾らでも見込める一方、曹操が負ければ衰亡一直線だった。袁家の敗因は、官渡そのものではなく、官渡で生じた時間的猶予のうちに袁紹死亡、家督争いが起こったことによる。

本論:袁紹「公孫瓚さえ倒せば、あとは何とかなる」

実はかつて、袁紹にとっても同じ位置付けの戦いがあり、それが公孫瓚と衝突した界橋の戦いであった。

公孫瓚は、異民族や黄巾の討伐に実績をあげたことから群雄に駆け上がった。本拠地の幽州は、馬と良質な騎兵にアクセスしやすく、軍事的に価値の高い州だった。その上、青州・徐州は黄巾討伐の関係で強い影響力があり、青州刺史の田楷と徐州刺史の陶謙、いずれも公孫瓚の子分である。また、実効支配には至らなかったものの、冀州・兗州にも刺史の派遣を試みている。朝廷から4州統治を認められたこともあった。200年の官渡の戦い時点で、袁紹と曹操がそれぞれ4州支配(数字上は同じだが、曹操の4州支配は極めて脆弱)だったが、公孫瓚は10年ほど先んじてそれに近い実力を備えていたことになる。以上から、公孫瓚は董卓衰退後の最大勢力であったと考えられる。
一方の袁紹は、ようやく冀州1州を地盤として得たばかりであった。国力の差は明白であったし、公孫瓚は幽州の地の利から白馬義従という精鋭騎兵を揃えるなど、兵科の点でも勝っていた。その圧倒的戦力差を打開したのは、麹義の用兵であった。麹義は於夫羅率いる匈奴の撃退にも功績があり、中華・異民族それぞれで当時最強クラスの騎兵集団を倒したことになる。易京攻城戦で後れを取ったものの、野戦においては東漢(後漢:五代のものと区別するため)末屈指の名将と呼んで差し支えない。天下を決する前に袁紹に処刑されたのが悔やまれる。

易京での籠城策について、救援勢力の見込めない中での籠城ということで、愚策と考える者も多い。しかしながら、もし公孫瓚が少しでも持ちこたえていたなら、袁紹が曹操から受ける圧力は無視できないレベルになっていた。易京包囲網は少なくとも緩むし、維持できなかった可能性すらある。199年の公孫瓚滅亡は袁紹にとってもギリギリのタイミングだったのだ。曹操の脅威に十分対処できる状況で公孫瓚を滅ぼした時、袁紹はどれほど喜んだだろうか。

結論:公孫瓚はとても強かった

四方を群雄に囲まれた曹操に対し、袁紹の敵は公孫瓚と黒山賊だけだったのに、なぜあれほどモタついていたのか。以前は疑問に思っていたが、今は思わない。公孫瓚が圧倒的に難敵だったからだ。また、曹操が袁紹に決戦を仕掛けるタイミングは、公孫瓚討伐直後で袁紹軍の体勢が整っていないあの時点以外になかったことも、今では容易に理解できる。
公孫瓚が界橋で負けなければ、漢の後を継ぐのは燕であったかもしれない。赤壁や官渡ほど注目されないが、天下の趨勢を変えた戦いがそこにあった。

補論:公孫瓚「劉虞さえ倒せば、あとは何とかなる」

劉虞は幽州の牧(州の長官であるが、監察官に過ぎない刺史と違って軍権を有する、後の都督に対応する役職)で、領民だけでなく異民族からも崇敬された宗族である。朝廷から6州統治(≒世界の半分をやろう)という提案をされている。袁紹が献帝に代わる皇帝として擁立しようとしたこともある(何進派の袁紹は、少帝が正統と考えており、董卓が擁立した献帝を受け入れられなかった)。

実力に勝る公孫瓚も、その権威に対しては屈せざるを得なかった。劉虞と公孫瓚は次第に対立し、最終的に劉虞が公孫瓚に攻め込んだ。ところが劉虞は、配下の兵を殺さず公孫瓚のみを殺せという命令を下してしまった。これでは劉虞配下としては動きようがない、公孫瓚に巻き返された。劉虞は捕われ、雨乞いに失敗したことを理由に処刑された。

劉虞は領内統治や異民族への宥和政策など、儒教的価値観に基づく徳治主義の権化であった。かつて春秋時代に、覇者(軍事力の無い周を守る諸侯連合の盟主)であった宋の襄公は、楚の軍勢が渡河を終えるまで待ったうえで正々堂々と攻撃を仕掛けてボロ負けした。このことから、戦争などでやたら仁義に拘って自滅することを「宋襄の仁」というが、劉虞が公孫瓚に敗北したケースはまさにこれに当たる。

宿敵たる劉虞を打倒した公孫瓚だったが、劉虞を慕う者たちが次なる脅威である袁紹に合流していった。また、公孫瓚は名士を軽視したため、彼らも袁紹になだれ込んだのだ。そうして公孫瓚は次第に袁紹に対し劣勢となっていった。劉虞殺害に対する幽州世論の反発と親袁紹の異民族烏桓の侵攻もあり、本拠地の幽州が最も脅威に晒された。最後に籠った易京は、意外にも冀州の拠点であった。

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