河東の重要性 塩の産地であり交通の要衝

渭水合流前に南北に流れている黄河、現在は山西省と陝西省の境界になっている。そこに北東方向から合流するのが太原盆地を流れる黄河支流、汾水である。そして、汾水と黄河に囲まれたエリアが河東エリア(現在の山西省運城市)である。

伝説上の天子の舜は河東エリアの蒲阪に都をおいていたとされる。また、禹が王となり夏王朝を建てたとされる都市が安邑である。その後も安邑は戦国魏の都として栄えた。安邑は北魏による分割後に北部を夏県と改称されている。夏県は北宋の政治家にして資治通鑑の編纂で有名な司馬光の故郷である。

知名度の割に華やかな歴史を持つ河東エリア、なぜここが重要であるか、理由は2つある。

1つめの理由は、交通の要衝であるということ。華北平野から渭水盆地に至る交通路としては、洛陽から函谷関・潼関を経由する黄河沿いのルートが大変有名だが、河東エリアから黄河を渡河するルート(蒲津渡)もあった。渭水盆地の勢力にとって、華北平野に直接接続する潼関・函谷関の封鎖が最優先であったのは間違いないが、河東の動向にも注意を払う必要があった。
また、太原盆地は北方民族が中華に侵攻する際の入り口になることが多い。五胡十六国における匈奴漢・北魏はここから華北を席巻した。太原盆地から中華の枢要である長安・洛陽を窺う際に、河東エリアはその拠点として重要であった。北魏の優勢を決定づける出来事として、後秦と衝突した柴壁の戦いは重要視されているが、これは河東エリアの争奪戦に他ならなかった。

もう1つが河東エリアにある中華最大の塩湖、運城塩湖(解池・河東塩池ともいう)である。塩は人間の生存に欠かせない資源であり、内陸部においては特に貴重であった。製塩法・物流が未発達な古代中華において、運城塩湖から生じる利権の大きさがどれほどであったか、推し量るのは難しい。塩はしばしば国家財政を大きく左右し、塩の専売は西漢(前漢)の武帝以来、財政再建の常套手段であった。運城塩湖はかつて中華における塩消費の大部分を賄っていたとされ、まさに中原・関中の生死はこの要地にかかっていた。黄河文明から洛陽・長安の繁栄に至るまで、中華の屋台骨を支えるには、黄河とその支流から得られる淡水・運城塩湖から得られる塩、その両輪を揃える必要があったのだ。

戦国魏が三晋分裂で安邑などの河東エリアを押さえたこと、これは分裂時点における魏の権勢を裏付けるものであり、塩という必需品の確保は、戦国最強国とされる魏の立場を補強した。のちに魏は、秦からの圧力によって都を安邑から大梁(現在の河南省開封市)へ遷し、その後白起の活躍もあって秦の河東支配は決定的となった。これらは戦国の主役が魏から秦に移ったことを象徴する出来事であったといえる。

漢代において、河東郡は太原盆地の属する并州でなく、司隷に組み込まれている。これは、洛陽・長安と同様に特別視される要地であったことの反映と思われる。

河東郡解県は三国志関羽の出身地である。関羽はその後幽州琢郡に移り、劉備・張飛などと合流する。その経緯として、悪徳塩商人をぶちのめして逃げたという伝承と、塩の密売に関わっていたため逃げたという伝承がある。彼は劉備に従って大陸を縦横に駆け巡った勇将であり、しばしば権力者に抵抗した義侠としても有名であった。山西エリアの有名人である関羽だが、やがて山西商人の信仰対象となった。山西商人は古代より、塩の売買を背景に大きな存在感を示した。製塩法・物流の進歩に伴い、塩の産出は江淮地方(長江と淮水に挟まれたエリア)など沿岸部がメインとなっていくが、山西商人はその後も存在感を発揮し続け、その影響は中国全土に広がっていった。今や関帝廟は中国内外問わず至るところにあるが、解県にある解州関帝廟がその頂点と評価されている。

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