賈充は、名臣羊祜の提案した征呉を、自身の権勢の為に押し留めた抵抗勢力・悪臣と評価されている。
今回はその評価への修正を試みたい。
羊祜の同母姉である羊徽瑜は司馬師の妻かつ司馬攸の養母である。一方の賈充は司馬攸の舅である。つまり、羊祜と賈充はともに司馬攸の後ろ盾となるべき人物であり、司馬攸を立てるという共通の目的を持っていたはずなのだ。
司馬攸が大業を成すには、征呉の功績が決定的に重要である。賈充からすれば、「征呉は結構だが、司馬攸を総大将にする算段が先だ、軍略自慢に溺れて本分を見失うな」と羊祜に言いたかったかも知れない。
司馬炎は賈充を都督として長安に出鎮させようとしたことがある。当時の西方は禿髪樹機能による乱の渦中で、刺史が何人も戦死し、上役の都督が免官されるなど文字通りの死地であった。この出鎮の背景として、賈充が娘を司馬攸に嫁がせていたことが考えられる。
ここで羊祜が、政敵であるはずの賈充出鎮に反対したのだ。軍才の不確かな賈充派遣が晋のためにならないという大義はあるものの、司馬攸にとって有力な後見人である賈充を擁護したと解釈できる。
そもそも、尚書左僕射(尚書とは皇帝への上奏文を司る重要なセクション、そこで非常設の録尚書事・長官の尚書令に次ぐ職位)・衛将軍(大将軍・驃騎将軍・車騎将軍に次ぐ序列4位の将軍職)という中央の要職にあった羊祜が都督荊州諸軍事となったこと、これ自体が司馬攸との繋がり故の左遷である。
では、なぜ賈充は司馬炎との関係を悪化させるリスクを冒してまで、司馬攸の舅になったのか。
もともと賈充は、何曾・裴秀・山濤と共に司馬炎を太子にするよう司馬昭に要請しており、司馬炎派の代表格というべき重臣だったのだ。
ところが、山濤の冀州転出・裴秀の死去などにより、羊祜を中心とする司馬攸派が次第に優位となった。また、司馬炎の嫡男司馬衷は、長ずるとともに愚鈍さを明らかにしていったので、司馬攸への待望論が増しつつあった。
さらに言えば、司馬昭の賈充に対する信任は絶大であり、賈充個人に特別な遺言を残していた可能性がある。
司馬攸は司馬懿から将来の大器を見込まれ、司馬昭の実子でありながら男子の居ない司馬師の養子となった。その経緯には司馬懿、司馬師の意向が多分にあったと思われ、彼らを敬愛した司馬昭は景王(司馬師)の天下を司馬攸に還すという意識を強く持っていた。
どういった理由にせよ、司馬炎派の中心人物で、司馬昭の遺言に司馬炎を最も理解していると名指しされた賈充、彼が司馬攸と通婚したことは西晋政界を揺るがす一大事であった。
司馬攸は養母である羊徽瑜が亡くなった際に、服喪期間として最長の3年(正確には3回忌までの25ヶ月)を確保した。これは賈充の提案に基づいており、司馬攸の孝を喧伝し、名声を高める意図を持っていたと考えられる。
司馬炎はそれを逆手に取り、司馬攸不在中の征呉を決断した。賈充は反対したものの、賈充が行かないなら司馬炎自身で親征するという話になった。賈充総大将と司馬炎親征と、司馬攸にとっての道を開きやすいのがどちらかは明確だ。また、賈充は司馬衷の舅になっていたため、司馬衷の皇帝即位も賈充にとって不満の無い選択肢となっていた。
司馬攸に対し青州赴任の令が発せられたのは、西暦282年12月であり、同年の4月に賈充が死去した直後である。司馬攸は翌283年3月に病死した(不審な要素あり)。
司馬炎と司馬攸との政争は、賈充の死を契機にワンサイドゲームと化したのだろう。
賈充の征呉反対には別の可能性も感じている。
「敵国呉の存在が張りとなって、司馬炎は君主として及第点の行いを維持できている、早々に征呉を成功させることで、晋の政体はむしろ危うくなる」という思惑である。
司馬攸の存在による緊張感もまた、司馬炎が天子としての品格を維持する上で重要だったように思われる。
歴史展開を知る者ゆえの後知恵にも程があるけれど、賈充ならこの程度の見通しは十分持ち得る、そういう謎の信頼感がある。
しかしながら、西晋・司馬炎の独り勝ちを避けるようバランシングした賈充の試みは、晋書その他後世において理解されず、悪臣・佞臣という評価が確立するに至った。
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