結論から先に述べると、賈詡に失策は無かった。
賈詡は董卓・李傕・段煨・張繍に仕えた後、曹操・曹丕の2代にわたり魏の重臣として活躍した。
李傕による長安奪取、曹操が九死に一生を得た修羅場である宛城の戦い、張繍が袁紹でなく曹操に帰順したこと、官渡の戦いにおける烏巣襲撃、潼関の戦いにおける馬超と韓遂との離間、いずれも賈詡の献策に基づいており、その策謀スキルは群を抜いていた。また、嫡子の曹丕を太子に薦め、私党を作らず生涯を全うするなど、保身や処世の観点からも常に適切な動きをしていた。
その功の多大さは明らかである一方、李傕による争乱を助長した行為など、徳は少ない人間と考えられていた。陳寿は前者を考慮したのか、荀彧・荀攸と並置する形で立伝しているが、三国志に注を施した裴松之はおそらく後者の立場からそれを批判している。呉の孫権も、賈詡が三公の筆頭である太尉になった際、賈詡が太尉の器でないことを指摘し、任命した曹丕を嘲笑したという。
しかしながら、賈詡に対する批判は、献策の対象が不適切であったこと、対象人物の利益のみで社会への影響を考慮していなかったことに集中しており、献策自体の有用性には文句のつけようもなかった。
ではなぜ、このようなタイトルの記事を書いたかというと、正史三国志の諸葛亮伝に気になる記載があるからだ。
賈栩の要請に従って出馬した司馬懿が諸葛亮に敗北したと書かれているのだ。
最初にこの記載を見たときは驚いた。何故なら自分が知る限りで賈詡に失策はなく、初めての失策として記載されているように思えたからだ。
ところが、賈詡の没年は223年であるとされる。そのため、司馬懿が諸葛亮の第四次北伐に対峙した231年時点で既に故人である。ここで記載に矛盾が生じるため、受け止めはデリケートに行う必要がある。
そして、よく見ると賈栩で文字が違う。
考えられる可能性は3つある
①陳寿の記載が誤っている
②賈詡とは別に賈栩という人物が魏に居た
③賈詡の没年が223年ではなくもっと後
以上のうち、③はまず考えられない。賈詡本伝の内容が間違っていることになるし、他の史料にも大きな矛盾を生じることになるからだ。賈詡ほどの重鎮が223年以降も存命であるなら、太尉かそれ以上の官位(相国、丞相、太傅など)でないとおかしい。太尉は223年に鐘繇が就任しているし、賈詡がより上位の官位に就いたり官を辞した記載はない。また223年から231年までの事績が残っていないのも不自然である。
三国志における賈栩についての記載は、この1か所しかなく、賈栩という臣が本当に居たのか判然としない。正史と評価されている晋書の宣帝紀(司馬懿の本紀)では、祁山で諸葛亮に包囲された魏将として賈嗣の名が見え、三国志における誤字の可能性は十分考えられる。結局のところ、①か②のどちらが正しいか断定するのは困難だが、いずれの解釈を取るにせよ、ここに出てくる賈栩は賈詡その人ではない。
以上から依然として、賈詡は無失策の名参謀という輝かしい評価となるのである。
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