節度使から読み解く安史の乱・五代十国

魏晋南北朝から外れるが、地理への興味をベースに置くと面白い題材なので取り上げることにした。
半ば予想しながら調べ始めたが、「全員、節度使」と言いたくなるような実情に思わず笑ってしまった。

節度使とは
節度は古来より、出征する将軍に対して、君主が自らの代行者であることを示すしるしとして下賜したものであった。
それを語源とする節度使は、外民族の侵入を警備する辺境守備隊の司令官として発生し、まず以下の10節度使が設けられた(天宝十節度使)。

河西節度使:710年に初めて設けられた節度使、甘粛省武威市を中心とし、突厥と吐蕃の連絡を絶つことを目的としている、兵力73000
安西節度使:新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ市を中心とし、西域・天山南路の防備を担当、兵力24000
北庭節度使:新疆ウイグル自治区のウルムチ市と昌吉回族自治州付近を中心とし、西域・天山北路の防備を担当、兵力20000
河東節度使:山西省太原市を中心とし、北方の突厥・ウイグルへの防備を担当、兵力55000
朔方節度使:寧夏回族自治区呉忠市を中心とし、河東節度使とともに北方の突厥・ウイグルへの防備を担当、兵力64700
范陽節度使:別名に盧龍軍節度使、北京市・河北省保定市一帯に置かれ、東北の庫莫奚・契丹への防備を担当、兵力91400で天宝十節度使のうち最大
平盧節度使:遼寧省朝陽市を中心とし、東北の室韋・靺鞨への防備を担当、兵力37500
隴右節度使:青海省海東市を中心とし、吐蕃への防備を担当、兵力75000
剣南節度使:四川省成都市を中心とし、吐蕃・吐谷渾への防備を担当、のちに西川節度使(成都市)・東川節度使(四川省綿陽市)と東西に二分割された、兵力30900
嶺南節度使:別名に清海軍節度使、広東省広州市を中心とし、南方の異民族統治を担当、兵力15400

さらに、李隆基(唐の玄宗、皇帝であった期間は712年-756年)以降になると、従来は辺縁守備目的の節度使が内地にも置かれるようになった。そのうち歴史的に重要なのが、以下の2節度使である。

河南節度使:別名に宣武軍節度使・帰徳軍節度使・宋州節度使、河南省開封市を中心とする
魏博節度使:別名に天雄軍節度使、河北省邯鄲市を中心とし、成徳軍(別名に鎮冀節度使、河北省石家荘市)および盧龍軍(范陽)とともに河朔三鎮と呼ばれた

開元の治として有名な李隆基の改革だが、その中心に募兵制がある。唐は西魏以来の均田制(国家が農民に土地を給付し、そこから租税を得る)・府兵制(均田制をベースに租税減免と引き換えに徴兵)を採用していたが、唐の治世による人口増加、租税・兵役逃れの戸民逃散などで実情に合わなくなってきていた。募兵制である以上、募兵の原資である財の運用も地方軍司令官に任せるのはある種の必然となる。節度使の裁量は軍事だけでなく、財政さらには行政にも及び、魏晋南北朝の都督や総管を上回る絶大な権力を手にすることとなった。

安史の乱における節度使
平盧節度使に任じられた安禄山は、その後で范陽節度使ともなった。さらに、751年には河東節度使を兼ねた。これら3節度使の兼任は関東(河南省三門峡市にある函谷関より東)の大半を勢力圏とした軍事政権といっても良い。
当時の宰相だった李林甫(唐の皇族)には、漢人を節度使にした場合、中央に戻った後で自身の政敵となりうることから、蕃将(異民族の将軍)を節度使に置く傾向があった。安禄山は突厥とソグドの混血であり、宰相の地位を脅かさない人物とみなされていたようだ。
宰相位が李林甫から楊国忠(楊貴妃のはとこ、一説にはいとこ)に移った。安禄山と楊国忠は李隆基の寵を競ったが、長安にいる楊国忠が有利であり、安禄山は唐朝との対立を深める結果となった。楊国忠は李隆基をそそのかして安禄山の長男である安慶宗を斬殺した。陳留(河南省開封市)で河南節度使の張介然を攻略していた安禄山は、これを知って激怒し、張介然以下を惨殺すると、君側の奸である楊国忠を除くという名目で長安(陝西省西安市、唐の首都)に向かった。河西節度使の哥舒翰が潼関(陝西省渭南市にある東西を分ける要衝)を守備していたが、安禄山軍はこれを撃破した。
李隆基は成都へ逃げたが、楊国忠が剣南節度使だったことに注目しておきたい。楊国忠は自身の勢力圏に皇帝を迎えようとしたものの、道中で乱の責任を問われて殺された。
安禄山は中華の中心である洛陽(河南省洛陽市)で燕の皇帝に即位した。本拠地が范陽なので、国号として燕を選択するのは自然な流れである。そして、安禄山は後任となる范陽節度使に史思明を置いた。
安禄山を殺した次男の安慶緒が史思明を除こうとしたため、史思明は唐に帰順した。後に唐へ叛いた史思明は、安慶緒を殺して燕の皇帝となった。ただし、史思明は都を洛陽でなく范陽に置き、東北部における地方政権としての色彩が強くなった。
安史の乱当時、安禄山の従兄である安思順は、河西節度使から転じて朔方節度使になっていた。これも李林甫の意向であり、李林甫自身も朔方節度使の経験者である。乱に伴って安思順は朔方節度使から召還された。
安思順の後任となる朔方節度使が郭子儀であり、安禄山の後任となる河東節度使が李光弼である。この2人こそ、安史の乱平定に大きく貢献した2大功臣である。

乱後の節度使
唐朝は節度使への制御を失っていった。節度使の中には唐朝の承認なく人事権を行使したり、中央への租税上供を拒んだりする者も現れた。節度使が持つ君主の代行者という本来の意味は失われ、地方軍閥化が進んで藩鎮という呼称がより適切な状況となった。
李适(徳宗)や李純(憲宗)が藩鎮の抑圧を試みたが、持続する仕組みを作ることはできなかった。

唐末の節度使
朱全忠は唐の宣武軍節度使を長年務め、李克用は唐の河東節度使を長年務めた。
開封はかつて大梁と呼ばれ、戦国魏の首都が置かれたこともある。このため、朱全忠は梁王に封じられた。山西は古国晋のあった地であり、しばしば晋州とも呼ばれる、李克用が晋王に封じられたのは地理的必然である。
朱全忠は隣接した藩鎮を浸食していき、それは河中節度使(山西省永済市を中心に設置)にまで達した。李克用は南に接する河中節度使を娘婿の王珂に任せていたが、王珂は朱全忠の圧力に耐えきれず降伏し、やがて河中節度使は朱全忠が兼ねるところとなった。当時における朱全忠の優勢を象徴する出来事と言えよう。
李克用の死後、息子の李存勗が河東節度使・晋王を引き継ぐと、混迷する後梁に対して巻き返しを図り、923年に後梁を滅ぼした。李存勗は突厥沙陀部の出身だが、同じ李氏であることから、国号を唐に改めた。五代の首都は概ね開封だが、後唐のみが首都を洛陽としている。

呉の建国者である楊行密は唐の淮南節度使であったが、朱全忠の浸食に耐えて独立を維持し、唐から呉王に封じられた。呉はその後に宰相の家系から簒奪を受け、南唐となった。

呉越の建国者である銭鏐は唐の鎮海軍節度使(浙江省北部・江蘇省南部)であり、後梁から呉越王に封じられた。

閩の建国者である王審知は唐の威武軍節度使(福建省)であった。

荊南の建国者である高季興は唐の荊南節度使(湖北省中部)であった。

楚の建国者である馬殷は唐の湖南節度使(湖南省)であり、後梁から楚王に封じられた。

唐の清海軍節度使である劉隠は、後梁から南平王ついで南海王に封じられた。劉隠死後に跡を継いだ弟の劉龑は、劉氏であることから国号を漢に改めて皇帝となった、これが南漢である。

王蜀(前蜀)の建国者である王建は唐の西川節度使であり、唐から蜀王に封じられた。

後唐の節度使
石敬瑭は後唐において保義軍節度使(河南省三門峡市)、宣武軍節度使、河東節度使を歴任した。特に河東節度使は後唐の母体となった藩鎮であり、皇帝に迫りうる極めて重要なポストである。後唐の皇帝である李従珂は石敬瑭を疎んで天平軍節度使(山東省西部)に左遷した。石敬瑭は契丹と結んで挙兵し、後唐を滅ぼした。後晋の国号については、やはり河東節度使との関わりの中から理由を見出すべきである。

王蜀を滅ぼした李存勗は孟知祥を西川節度使に任じた。孟知祥は李克用の娘婿であり、西川節度使となる前は李存勗の後任として河東節度使の地位にあった。西川節度使への転属は明確な左遷である。孟知祥は早々に自立を図り、後唐から蜀王に封じられたものの、すぐ後に蜀の皇帝を自称した。これが孟蜀(後蜀、五胡十六国のそれと区別するため)である。

後晋の節度使
劉知遠は後晋で忠武軍節度使(河南省中部)・帰徳軍節度使を経た後、河東節度使となった。947年に契丹の侵攻によって後晋が滅ぼされると、劉知遠は河東節度使の任地である晋陽(山西省太原市)で皇帝に即位し、主を失った開封に移って首都とした。劉知遠は突厥沙陀部であるが、劉氏であることから国号を漢とした。

後漢の節度使
郭威は後漢で魏博節度使であった。後漢皇帝やその側近との対立により郭威は挙兵し、後漢を倒して皇帝となった。国号として魏博の魏、邯鄲の趙などが有力だったものの、郭威は虢叔(姫昌=周文王の弟)の後裔を自称して周を選択した。古国周は儒教の理想とする国家であり、周の国号は漢・唐と同様に特別な価値を持つ。

劉知遠の弟である劉崇は、劉知遠の後任として河東節度使の要職にあった。後周の建国後に漢の再興という名目で自立した。これが北漢である。
李存勗・石敬瑭と、過去2度にわたって山西勢力が河南政権を打倒している。北漢は遼(契丹)と結んで石敬瑭の事跡を再現しようとした。

後周の節度使
郭威は後漢との対立で一族を失っており、正妻の甥であった柴栄が後周を継いだ。即位前の柴栄は澶州節度使(河南省濮陽市)であった。

趙匡胤は後周の帰徳軍節度使であり、早世した柴栄の後を承ける形で即位した。国号は節度使由来の宋となった、これが北宋である。(ちなみに、古国宋の首都は開封の隣にある河南省商丘市)

趙匡胤は節度使の抑圧に成功し、こうして節度使が乱舞する時代は終わった。

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