京兆韋氏とは、京兆郡杜陵県(現在の陝西省西安市)を本貫地とする氏族である。西漢(前漢)の丞相(非常設の宰相職)を輩出するなど、名門として古くから知られていたが、南北朝時代ではそれ以上に存在感のある名将を2人輩出した。
韋叡と韋考寛である。
そして、韋叡が南朝所属であるのに対し、韋考寛は北朝と、南北両朝で存在感を示した点も興味深い。
韋叡
京兆を本貫地とする韋叡が南朝に属した理由は、劉裕が北伐で長安(京兆郡に属する)を奪取したことにある。劉裕は建康に帰還した隙を突かれて赫連勃勃に長安を奪われたが、最大の成果は韋叡の祖先を得たことにあるといっても過言ではない。
韋叡は宋・斉と王朝が交代する中で次第に出世し、最終的に梁の建国者である蕭衍と結びついた。蕭衍が南朝を掌握する過程で、韋叡の献策が大いに貢献したという。
西暦505年、南北交通の要衝である合肥(現在の安徽省合肥市)を水攻めにし、陥落させた。
506年、北魏が大軍で南下し、鍾離(現在の安徽省滁州市鳳陽県)を攻めた。北魏の兵力は号100万、実数でも数十万規模ではあったようだ。鍾離城の守備兵は3千程度であったが、守将の昌義之が良く持ちこたえた。蕭衍は韋叡と曹景宗に約20万を率いさせ、鍾離の救援に向かわせた。
韋叡は戦地に急行し、あっという間に陣営を完成させた。
北魏の楊大眼(*)は三国志の関羽・張飛を超えると評された猛将であり、梁軍は彼に対処することができなかった。韋叡は車を連結した陣を築いて楊大眼の突撃を受け止めると、強弩を放って楊大眼軍に痛撃を与え、楊大眼自身も矢傷を負った。
北魏は淮水北岸に城を築き、淮水南岸の侵攻軍本隊と橋で連絡していた。川の両岸を橋で連絡しながら包囲を行うのは、拓跋珪による柴壁の戦いを意識したものであったろう。韋叡は水軍で淮水を制圧すると、枯草・油を載せた船で淮水に架かる橋を焼き落とした。帰路を失った北魏軍は恐慌状態となり崩壊、梁の大勝となった。
南朝は騎兵の調達が難しい関係で、北朝に対して軍事的に劣る局面が多かった。そんな南朝における軍事的マイルストーンとして、劉裕の北伐(正確には東晋時代)と陳慶之の北伐がまず挙がるが、韋叡が北魏の大軍と驍将楊大眼を退けた鍾離の戦いは、それに次ぐインパクトを持っている。
*楊大眼について
氐族仇池王の子孫である。楊大眼は、1つの眼球に複数の瞳孔を持つ重瞳であったという史料がある。名を考えると先天的なものであったかもしれない。古代中国において、常人と異なる身体的特徴は貴人を示唆するものとして重んじられた。
鍾離の戦勝に多大な貢献をした韋叡だが、戦功を誇ることなく、世間の称賛を浴びた。
この件以外でも、配下の兵を労り、朝廷では謙虚な態度をとり、領民にも仁愛をもって接する姿勢は、蕭衍をはじめ多くの人から敬われた。また、物惜しみせず人に施したため家には財産がなかった。まさに儒家がお手本とするような振る舞いであり、名門の面目躍如といったところだろう。
韋叡は520年に79歳で世を去った。長命にして宋・斉・梁と南朝を渡り歩き、梁の強勢を支えた名臣の死を蕭衍は深く悼んだ。
韋考寛
韋考寛の祖先は劉裕の北伐後も関中に残留していたようだ。そのため、韋考寛は北魏でキャリアをスタートした。
やがて宇文泰と高歓によって北魏が2分されたが、韋考寛は宇文泰の西魏に属した。
西魏(宇文泰)と東魏(高歓)は長安~洛陽付近で死闘を繰り広げた。圧倒的な国力・軍事力を誇る東魏に対し、西魏は良く持ちこたえたが、韋考寛の働きによる部分も大きく、特に玉壁(現在の山西省運城市稷山県)で高歓自身が率いる大軍を食い止めたのは注目される。
高歓の死後、東魏・北斉による軍事的脅威は大幅に軽減したが、名将斛律光により北周は決め手を欠く状況が続いていた。韋考寛は斛律光が北斉の簒奪を目論んでいるという流言を行い、北斉の手で誅殺させた。
斛律光を失った北斉は、斛律羨(斛律光の弟)・高長恭(蘭陵王)も相次いで粛清しており、国家の藩屏たりうる武将が居なくなった。宇文邕(武帝)は韋考寛の策を採用して関東(函谷関より東)に親征し、結果的に北斉を滅ぼした。韋考寛も侵攻軍への参加を希望したものの、玉壁の要衝を任せられるのは韋考寛しか居ないと留められた。
宇文邕の死後、北周の実権は外戚楊堅が握るところとなった。楊堅にとって最大の障害が、蜀を征服した重臣尉遅迥であった。
そのため、楊堅は唯一対抗しうる韋考寛をぶつけることにした。韋考寛は尉遅迥の後任として鄴に派遣され、その途中で尉遅迥が反旗を翻したためそのまま戦うことになった。北周を代表する名将同士の衝突は、双方が20万以上を動員した激戦であった。尉遅迥は歴戦の名将であり、かつ配下の士気も高く、正面から対決するのは難しかった。韋考寛は自身が囮となって本隊を引きつけ、鄴城で見物していた敵後方を別働隊に攻撃させ騒ぎを起こした。尉遅迥軍は根源地を失う恐怖で混乱状態に陥り崩壊、結果的に尉遅迥は敗死した。
韋考寛は尉遅迥の乱と同年の580年に72歳で没した。北魏・西魏・北周と3朝に渡って仕えながら、高歓の猛攻を凌ぎ切り、斛律光を謀殺し、尉遅迥を敗死させるなど、業績は南北朝最高峰といえる。しかしながら、尉遅迥を除いた直後の韋考寛死亡により、楊堅に対抗しうる存在は北周から居なくなった。韋考寛の働きは、結果的に宇文氏から楊氏への王朝交代を助長したことになる。宇文氏に長年仕えた晩年の韋考寛から見て、皇帝即位間近の楊堅はどのように映っていたのだろうか。
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