長江を跨いで江南の建業・建康を攻略するのは、大変な難事業である。
歴史上でも、曹操・曹丕・曹休・司馬師・苻堅など攻略に失敗した英雄達を多数挙げられる。
(唯一成功したのが宇宙大将軍こと侯景。何かとネタにされがちな人物だが、その突破力は本物。高歓ほどの英雄が危険視したのも納得である。)
江南攻略の鉄板は、荊州方面から長江を攻め下るルートで、蜀の豊富な木材を造船に用いることができれば盤石となる。西晋も隋もこのルートからの攻略であった。
江南と荊州の関係を踏まえた上で注目しておきたい事柄が幾つかある。
1つ目は、戦国秦の白起が楚の首都である郢(のちの江陵)を攻略したこと。
江陵は長江中流域の港湾都市であり、荊州の要であった。秦はすでに蜀を領有しており、関中の生産力も考慮すると、当時の長江下流域のみで秦に対抗できないのは明らかであった。楚は首都を陳に遷すなど中原(黄河中下流域南側の平原)に活路を見出そうとしたが、韓・魏・斉との熾烈な中原争奪は、秦をさらに利する結果となった。
2つ目は南北朝時代、西魏が侯景の乱に乗じて蜀と江陵(後梁=西魏・北周・隋の傀儡政権)を手に入れたこと。
上記の戦国秦と同じ状況を再現できたことが、その後の成功にどれほど寄与したか想像に難くない。問題は、南朝梁の混乱に乗じることのできた西魏とできなかった北斉、この差がどこで生まれたか。色々と考察の余地はあるが、北斉で高歓・高澄・高洋と権力者の交代が続き、また早々に易姓革命を行った結果、地固めに力を割かざるを得なかったという要素が大きいと思われる(侯景の脅威、長江下流を渡河する難しさもあるのだろうが)。南北朝の行方を左右する重要な時期に、一貫して国益に繋がる善手を重ねた宇文泰の凄みが光る。結果的には、高歓と宇文泰の寿命の差が、めぐりめぐって北斉と北周の命運を定めたとも言える。
3つ目は三国志、呉の孫権が荊州確保に拘ったこと。
呂蒙による関羽への攻撃は、復讐戦として夷陵の戦いを呼びこみ、呉・蜀漢双方とも国力を大きく損なう結果となった。孫権による荊州奪取の判断は、蜀漢はもとより呉が魏に勝利する可能性さえも閉ざす愚策であったと評価する者が多い。
では何故、孫権は火事場泥棒をしてまで荊州を欲したか。それは、荊州の帰趨が江南の安全保障を決定づけるにも関わらず、下流からの正攻法による奪取が困難だからであったと考えられる。赤壁以前、孫権は江夏太守の黄祖に対し度々攻勢を試みているが、長年成果をあげられずにいた。その原因として、将兵の質などより、下流からの侵攻による地理的不利がより大きいと考えられている。その頃から孫権は、江南を本拠地とする勢力から見た荊州の重みを、嫌というほど実感させられていたのだろう。
東漢(後漢:五代のものと区別するため)における荊州は、人口・戸数とも益州に次ぐ2位であったことも付記しておく(西暦140年 続漢書 郡国志)。
4つ目は東晋のころ、荊州を守備する西府が、江南を守備する北府と並ぶ程の存在感を示したこと。
劉弘、陶侃、庾亮、桓温、桓沖、桓玄、劉毅と、西府のリーダーはなんとも豪華な面々である。荊州守備の西府が首都防衛を担う北府と同レベルに扱われたことは少し意外に思う。しかしながら、西晋の流れをくむ国家として、孫呉がなぜ数十年持ち堪えて、なぜ最終的に征服されたか熟知しており、それゆえに荊州を必死で守ろうとしたのだろう。
実際に東晋や南朝は、蘇峻・桓玄・侯景と内外の敵により建康を度々占領されているが、残った領土でのバックアップは可能であり、都度奪還できている。一方で、江陵を失った南朝の陳は一度も取り戻すことができず、そこを楔として滅びた。
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