クマーラジーヴァ 五胡十六国で中国仏教の基礎を築いた名僧

クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)、高校世界史で名前は知っていたが、具体的な事績を知ったのは五胡十六国を深掘りするようになってからである。

クマーラジーヴァの生年は確定していないが、4世紀中頃にクチャ(亀茲、シルクロードの一つ天山南路上のオアシス都市、タリム盆地北側にあり、現在は新疆ウイグル自治区)で生まれた。父はインド人高僧で、母は亀茲皇族だった。7歳で出家し、その後カシミール(現在はインド・パキスタン・中国の国境付近で係争地)など西域各地を遊学したが、基本的に当時のシルクロード仏教は上座部優位であった。ところが、カシュガル(カシミールとクチャの間で、天山南路と西域南道の交差点、現在は新疆ウイグル自治区)において、スーリヤソーマ(須利耶蘇摩)から大乗仏教の教えを受けたことで、大乗メインに転向、主にナーガールジュナ(龍樹)の中論に傾倒した。その後クチャに戻ったクマーラジーヴァは、若くして高僧として名を轟かせた。
それを聞いた前秦の苻堅は、呂光(のちの後涼初代)にクマーラジーヴァを迎えにいくように命じた。呂光の西域遠征はクマーラジーヴァを得るために発せられたといっても過言ではない。クチャに到達し、クマーラジーヴァを得た呂光だったが、前秦が淝水の戦いに敗れ崩壊したため、クマーラジーヴァは後涼に留め置かれた。その後関中を制した後秦の姚興が後涼を滅ぼすと、クマーラジーヴァは長安に招聘された。彼の訳僧としてのキャリアはそこから始まった。

梵網経・摩訶般若波羅蜜経・妙法蓮華経・佛説阿彌陀経・坐禅三昧経・諸法無行経・孔雀王呪経・大智度論・中論・十二門論・百論 などなど
(これらの漢文原典に興味のある方は、東京大学のデータベースで全文を閲覧できる。ちなみにこのサイトでは、鳩摩羅什法師大義・高僧傳・出三藏記集の漢文原典も掲載されている。)
量・質ともに中国史上稀にみる漢訳をなしたクマーラジーヴァは、その後の中国仏教の流れを大きく規定したと言われる。そして、漢語を原典とする日本仏教も計り知れない影響を受けた。

まず、シルクロード仏教のマイノリティだった大乗が、中国と日本において支配的になったこと、その過程でクマーラジーヴァの果たした役割は非常に大きいと考えられる。

次に、日本の仏教において、極めて重要な仏典を提供したことである。
日本の仏教史において、やはり最澄の果たした役割が大きい。かつて、ハイレベルな教えに触れる上で中国留学は必須だったが、最澄よりのち比叡山で学べば最高峰の仏典にアクセスできるようになった。あとはその中でどの経典を重視するか絞ればよい。仮に既存の経典で自分にとって足りない要素があるなら、それを突き詰めることで新たな道が開ける。法然・親鸞・日蓮・栄西・道元と、鎌倉仏教開祖の多くが比叡山出身であることは、ある意味必然であった。経典偏重の最澄の姿勢は、密教を重視した空海などから批判されたものの、教えを広く伝え後世に残すためには、やはり文字の役割が大きなウエイトを占める。伝教大師の名は伊達じゃなかったということだ。
その最澄が学んだ中国天台宗は、妙法蓮華経を最高位に置いた教義で、クマーラジーヴァの影響を多分に受けている。また、最澄が唐から持ち帰った仏典にも、クマーラジーヴァの漢訳やそこから派生した経典が多く含まれていたと思われる(妙法蓮華経自体は最澄以前から日本に伝来しており、正倉院に断簡が所蔵されている)。

クマーラジーヴァに関連して、戒律についても言及しておきたい。
7歳で出家したクマーラジーヴァだが、受戒(戒律を受ける)は20歳頃である。彼ほどの才をもってすら、受戒まで10年以上かかったのだ。
古代において、戒律は一昔前の博士学位に相当する重みを持っていたと考えられる。戒律は限られた高等機関(戒壇)でしか授けられず、受戒を経験済かつ授戒に値すると認められた高僧しか授与できなかった。中国では5世紀、日本では8世紀の鑑真来日まで、正式な授戒は行えなかったのだ。
その後次第に硬直化していく戒律制度だったが、平安時代に転機が訪れた。最澄が大乗の教えに基づいた戒壇を設けようとしたのだ。比叡山が戒壇として認められるまで、結構な紆余曲折を経ているのだが、ここで大乗戒の出典として拠った梵網経はクマーラジーヴァの翻訳と伝えられている。
ちなみに時代とともに戒律の条件は緩和していき、現代の日本仏教だと得度(出家)からさほど時間をかけず受戒に至る。

中国・日本の仏教に決定的な影響を与えたクマーラジーヴァだが、自らの仏典漢訳事業には大きな疑問を持っていた。
パーリ語・サンスクリット語・ガンダーラ語などから漢語に訳す中で、どうしても原典が持つ教えのニュアンスや音楽的要素はオミットせざるを得ない。中国で教えを広める使命、権力者の要請などから漢訳を止めるわけにはいかないが、クマーラジーヴァにとっては苦痛を伴う作業だったようだ。
私は「漢詩なんて韻文じゃん、それを読み下すとか何の意味があるの?」とずっと思っている。例えとしては不遜かもしれないが、まあそれに似た問いかけがクマーラジーヴァ自身にもあったのだろう。逐語訳傾向の玄奘に対して、クマーラジーヴァの漢訳は意訳気味とされるが、漢語仏典に対しある程度の割り切りをしていたものと思われる。

余談
各種仏典に関して、最近のこなれた現代語訳、「新国訳大蔵経」シリーズが大蔵出版から刊行されている。
それに関連して、大蔵出版のウェブサイトを見ていると、何やら目立つお知らせが。
『上座部仏教における聖典論の研究』に関する声明
仏教研究者サイドからも当該事件に関する記事を見つけた。
正しい心・行いについて究めていくべき仏教学で、言論の自由に対する圧迫を加える研究者が居るという事実に愕然とした。
また、過去において、自由な言論・真実の記載には一層大きな障害があったのだろうと思われる。
情報リテラシーの重要性を再確認したし、また発信しうる立場としても身を引き締める気持ちを新たにした。

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