洛神賦 曹植が詠んだ女神との悲恋

洛神賦は西暦223年(一説には222年)に三国魏の曹植が詠んだ賦である。

文選収載ということで自宅にあった岩波の「文選・詩篇」を当たってみたが収載されていなかった。
賦は厳密な意味での詩と区別されている。詩は「詩経」を起源とし、賦は「楚辞」を起源とする。孫久富 「賦と長歌の比較」によると、賦は散文と詩歌の2つの特徴を併せ持つ韻文と大まかに分類されるが、詩と比較した賦の特徴として次のようなものが挙がる。

・韻律の定まらない傾向がある
・句数など形式の多様性が認められる
・長文となる傾向がある
・詩が抒情的となりがちなのに対し、賦は叙事的色彩が濃厚
(事物を詳しく述べることで作者の志と理念を伝えるのが主な創作指針)

詩ほど韻律や形式にこだわる必要がなく、また多くの字数を費やす選択肢を持てるため、より自由な創作が可能となる。賦もまた詩と同じく中華で愛好された文学の一様式だった。

洛神賦に関しては、221年に死んだ甄氏(もともと袁煕の妻で、鄴を攻略した曹丕は彼女を妻としたが、皇后には立てられず曹丕により殺された、彼女の息子である曹叡は甄氏を文昭皇后と追贈した)がモデルであるとして、ややスキャンダラスな意味で話題になることが多い。
確かに、唐のころ文選に註を付した李善の記載ということもあり、無視できない伝統的解釈であるが、史実と認定すべきではない。
「私家版 曹子建集」というサイトに詳細な考察があり、非常に読み応えのある内容だった。

中華最高峰の文豪である曹植の手による傑作文学ということで、書道の領域にて、洛神賦は多くの先達が題材として選択した。
もっとも有名なのは東晋の王献之であろう。王献之は王羲之の7男で、父と共に「二王」と並び称される。その王献之の洛神賦だが、現存するのは13行のみであるため、作品名は「洛神賦十三行」と呼ばれる。
その他に、南宋から元にかけて活動した趙孟頫、明の祝允明などの書跡が現代に伝わっている。

洛神賦で描かれる情景はとても美しく、絵画の題材としてもしばしば用いられた。
もっとも有名なものは東晋の顧愷之による制作と伝わる洛神賦図である。
唐の頃には司馬紹(東晋の明帝)が描いた洛神賦図も存在していたという。司馬紹は非常に優れた画家であったとされ、西晋・東晋を通じて筆頭に位置付けられることもある(嶋田さな絵 「『歴代名画記』にみる魏晋以前の画家と作品」)。
王敦の乱を平定して東晋の皇帝権力の確立に貢献した司馬紹だが、数え27歳で早世した。長生きしていれば東晋の命運がどれほど好転していたか、と惜しまれることの多い彼だが、その夭折は絵画分野でも重大な損失だったのだ。
絵画の師として司馬紹を導いたのは王廙(王羲之の叔父)であり、王羲之・王献之も能画家として知られていた。琅邪王氏の存在感たるや。

洛神賦の原文は、ソースによって微妙に字の違う箇所があった。韻文であることを考慮して掲載を見送った。
現代語訳については、「私家版 曹子建集」を参照すべきと考え、ここには掲載しない。
学術的な解説としては、猿渡留理 「曹植『洛神賦』の特徴」を挙げたい。

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