盧植が劉備に与えたもの

盧植=劉備の師、というイメージで語られることが多く、注目されることは少ない。しかしながら、盧植に師事していたからこそ劉備は世に出られたといっても過言ではない。盧植を師に持ったことによる影響は計り知れないのだ。
これから主要なものを挙げていきたい。

与えたものその1 教養

盧植は東漢(後漢:五代のものと区別するため)の大儒である馬融に学び、兄弟弟子である鄭玄に次ぐレベルの、当時最高峰の大儒であった。劉備は学問にことさら熱心とは言えなかったようだが、そんな中でも彼から受けた教えが、皇族・名士・群雄と渡り合う上で役立ったであろうことは容易に想像できる。

また、雅言という中華の共通語についても触れておきたい。中華では、少し移動するだけで言葉が通じなくなるのだ。これは情報技術や移動手段の発達した現在でもそのまま当てはまる。当時の知識階級は雅言を用いて、出身地が異なる者同士の意思疎通を図っていたとされる。雅言は西洋におけるラテン語に相当する。
諸葛亮を手に入れるまで、劉備陣営に雅言を満足に使える人はいなかったという説があるのだが、劉備自身が習得していた可能性は十分考えられる。劉備の言語能力の議論にあたっては、盧植の塾が洛陽近郊(緱氏県)にあったことにも注目すべきだろう。

与えたものその2 信用と人脈

盧植に師事したことにより、劉備は関羽・張飛といった侠客としての繋がりに加えて、儒家・名士のネットワークにもアクセスできるようになった。兄弟子の公孫瓚のみに注目されがちだが、それでは不十分である。
たとえば、劉備に徐州牧就任を勧めた代表人物は、徐州の名士である麋竺・陳登、そして名士中の名士孔融(孔子の末裔)である。この時点で、劉備が名士層に相当の支持を得ていたことがわかる。盧植の弟子という看板・司隷遊学期の人脈形成がその評価を支えたのは言うまでもない。上の言語能力の議論を補強する史実でもある。
荊州で諸葛亮を得るまで名士との繋がりを重視しなかったから天下取りで後れを取ったという意見は、これだけで見当違いと分かる。

与えたものその3 袁紹に仕えるという選択肢

もともと公孫瓚の弟分であった劉備が、徐州牧就任を境に袁紹派に鞍替えしたことは、三国志におけるちょっとした謎扱いされている。
陶謙と袁術の同盟瓦解によって説明されることが多いのだが、盧植の影響も考慮すべきだと感じている。
盧植は晩年、袁紹の軍師に就任して、そのまま生涯を終えた。公孫瓚陣営として働いていた劉備だが、師と兄弟子の板挟みによる葛藤はあったものと思われる。
その上、公孫瓚は徳治の宗族劉虞を殺害したため、幽州で反公孫瓚の輿論が沸き上がっていた。幽州出身の劉備としても動かされるところはあったろう。

最終的に劉備は、師である盧植が支持した袁紹を選び、兄弟子の公孫瓚と決別した。これは簡単に裏切りと断じられる動きではなく、当時も悪名とはならなかったであろう。

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