鮮卑の通婚関係を掘るとなかなか面白いので記事にしてみた。
まずは慕容部について。
・あまりにも深い段氏との繋がり
前燕の基礎を築き上げた慕容廆、前燕の初代王慕容皝、その正妻は段氏である。
慕容部と死闘を繰り広げた鮮卑段部であったと思われる。
前燕の初代皇帝慕容儁の正妻は可足渾氏であるが、段氏も妻として迎えている。
その後も、慕容儁の弟で後燕の初代皇帝慕容垂、その息子で後燕の2代皇帝慕容宝、慕容垂の弟で南燕の初代皇帝慕容徳、と段氏の正妻を持つ者が多くみられる。慕容徳の甥で南燕の2代皇帝慕容超、その生母も段氏であった。
4世紀前半の慕容部と段部が争う最中、そして西暦357年の段部滅亡の後も、段氏との通婚関係は続いている。
後の拓跋部でも感じることだが、鮮卑にはライバルとなる胡人の血を取り込んで更に氏族を強くする、そんな結婚観があったように思われる。一方で、漢族の血は概ね軽視されており、慕容恪に対する微妙な待遇がそれで説明できる。
・そこに割って入った可足渾氏
慕容儁の正妻、その息子で前燕の2代皇帝慕容暐の正妻はともに可足渾氏である。慕容垂にも可足渾氏の妻がいた。可足渾氏は遼東の辺境政権時代から慕容氏と密着していた勢力である。慕容儁と可足渾氏の婚姻が成立したのは340年頃とされ、これはちょうど段部に対する慕容部の優位が決定的になった頃である。
慕容垂が慕容儁・慕容暐から冷遇されたのは何故か、正統の慕容暐系を差し置いて慕容垂が関東(函谷関より東側)で早々に擁立されたのは何故か、西燕で慕容沖(慕容儁と可足渾氏の息子)を殺して段随が擁立されたのは何故か。こういった疑問に対し、可足渾派と段派の暗闘という観点でアプローチしてみるのも面白いかもしれない。南燕の本拠地が段斉と同じ広固(現在の山東省青州市)だったのも偶然ではないだろう。ただし、段派であるはずの後燕に仕えた可足渾氏(可足渾譚、可足渾健)もおり、単純な二元論は危うい。特に、慕容垂に関しては、母親の出身氏族である蘭氏の影響も無視できない。
・拓跋氏とも通婚
慕容皝には拓跋氏の妻が居た。また、彼の妹と娘は拓跋什翼犍に嫁いでおり、共に正妻として遇された。
娘の方の慕容氏と什翼犍との息子が拓跋寔であり、その息子が拓跋珪(北魏の道武帝)である。さらに、拓跋珪は捕虜となった慕容宝の娘を皇后として遇している。
拓跋珪は、淝水の戦い後の混乱を慕容垂に臣従することで乗り切った。参合陂後の凄まじい親征を体験したこともあり、稀代の英雄である慕容垂に敬意を払っていたと思われる。皇帝即位のタイミングが慕容垂死後なのも偶然ではないだろう。慕容垂の孫を寵愛した拓跋珪の気持ちは、上で仮定した鮮卑の結婚観を踏まえると自然なもののように思えてくる。
・最後に苻堅…
苻堅が370年に前燕を滅ぼした時、慕容儁の娘の清河公主(14歳)の容姿に見惚れて妃にした。この際、弟の慕容沖(12歳)も容姿が美しかったので孌童(れんどう:男色の若衆)として迎えている。
苻堅に関しては、慕容垂の妻段氏を後宮に迎えていたこともある。
現代の価値観で測るべきではないが、聖人君主とされる苻堅、その性的嗜好は少々度が過ぎている。
まあ少し擁護もしておこう。鮮卑慕容部は色白で容姿端麗であった。そのうえ、歩くと揺れる金冠(歩揺:慕容の語源となったという説あり)など様々な装飾品を愛好し、考古学的成果(三燕文化:前燕・後燕・北燕)も得られている。
そんなイケてる民族が好んで妻にした段部、これもやはり優れた容姿であったと考えるのが自然だ。
慕容部と段部の美しさは、氐族苻堅の心もガッチリ掴んだ、そういう善意の解釈で今回は締めることにする。
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