鮮卑の通婚関係 その2 拓跋部編

鮮卑の通婚関係を掘るシリーズ、慕容部に続いて拓跋部だが、あまりにも言及しなければならないことが多すぎてまとめられる気がしない。

・そもそも拓跋部は鮮卑なのか

これまで鮮卑として理解されていた拓跋部だが、近年では匈奴とみなす説も出ている。拓跋部との通婚関係で重要な賀蘭部、中華北東部で鮮卑慕容部と鎬を削った宇文部についても同様の議論がある。鮮卑はもともと匈奴から分枝しており、民族というより様々な起源を持つ部族の連合と解釈した方が良いのかもしれない。

・拓跋珪(道武帝)をめぐる部族的背景と子貴母死

拓跋珪の祖母は慕容部、母は賀蘭部。珪の正妻は慕容部だが、嫡男拓跋嗣(明元帝)の母劉貴人は匈奴独狐部である。
拓跋珪は匈奴独狐部のリーダー劉庫仁の後ろ盾を得つつ、祖父拓跋什翼犍以来の天敵である匈奴鉄弗部の劉衛辰(夏を建国する赫連勃勃の父)に対抗していた。
しかし、劉庫仁の息子劉顕に代替わりしてから拓跋珪は命を狙われるようになり、母の実家である賀蘭部を頼っている。このように拓跋嗣の外戚である独狐部は拓跋珪と対立している。

北魏を語る上で重要な子貴母死(皇太子を立てる際に、その生母に死を賜う)の制度、その意義は婦人の政治干渉・外戚専横の防止にあったと考えられている。
しかしながら別の理由も考える必要がある。拓跋嗣が嫡流となれば独狐部の台頭は避けられない。独狐部と拓跋部の対立を考えると、劉貴人に死を賜る動機は十分にあった。また、劉貴人の死の背後には、拓跋珪自身の外戚である賀蘭部の意向もあったかもしれない。
その上、拓跋珪は北魏建国の後にいわゆる部族解散を断行している。その狙いが部族勢力の抑止と皇帝集権の強化にあったことは疑いない。子貴母死によって、後継者選定は従来の部族力学でなく皇帝自ら決定できるようになる。これは、拓跋珪の目指した皇帝集権・脱部族政治に合致するもので、まさに子貴母死の主目的であったとする研究報告がある。

・拓跋嗣による子貴母死の踏襲とその部族的背景

拓跋珪により生母を殺された拓跋嗣だが、自身の皇太子拓跋燾を立てるにあたり、その生母杜氏に死を賜った。これにより子貴母死が常制化することになる。
この背景について少し説明が必要と思われる。拓跋嗣の弟拓跋紹は、生母賀夫人を殺そうとした父拓跋珪に反発し、拓跋珪を殺害した。(賀夫人を殺そうとしたことについて、拓跋嗣が実母の死を嘆いて出奔したことに伴い、拓跋紹を太子にしようとした子貴母死の一環という説もある)
賀夫人は名前の通り賀蘭部で、政変後の拓跋紹には、賀蘭部を中心とした部族の集結が見られた。拓跋嗣は部族政治が活性化する様を見て、何故父が生母を殺したか初めて理解したのかもしれない。子貴母死を踏襲した拓跋嗣であったが、父のやり方への反省から、拓跋燾とその生母杜氏を早めに引き離している。

・子貴母死の影響とその後

子貴母死により、鮮卑貴族が皇帝の生母になる頻度が激減した。子貴母死の対象者は大部分が漢人であり、制度末期の拓跋宏(孝文帝、元宏)に至ると鮮卑由来の血は1/32以下であったとされる。漢化政策のターニングポイントとされる彼だが、北魏の漢化は子貴母死制度に伴う必然の変化であったと考えられる。
また、拓跋濬(文成帝)以降、子貴母死は皇太后・養母が後宮から政治を支配する方便として利用されるようになっていった。馮太后政権はそれを象徴している。
子貴母死は拓跋宏により廃止された。廃止の動機について漢化の文脈から語られることが多い。しかしながら、部族政治の脅威が遠ざかり、後宮主導となった実態から子貴母死はその役目を終えていたという要素も無視できない。

・慕容氏、姚氏、赫連氏など対抗勢力から多くの妻を迎えている

拓跋珪の皇后は慕容氏、拓跋嗣の皇后は姚氏、拓跋燾の皇后は赫連氏である。特筆すべきなのは、彼女らの立后がそれぞれ、慕容氏と衝突した参合陂・姚氏と衝突した柴壁・赫連夏の滅亡より後ということである。
慕容部同様、拓跋部も対立する部族に対し、戦場では衝突しつつ、自部族の継代にあたって好敵手となった部族の血を重んじたということなのかもしれない。
まあ、慕容部は容姿端麗で知られる部族だし、赫連勃勃はイケメンぶりに姚興が心酔したと史書に残っているので、純粋に容姿で選んだ可能性はあるのだが。

・皇后を決める儀式:金人鋳造

北魏では、皇后候補の有力な妻が現れた場合、金人という人像を鋳造させ、像が欠けることなく立ったら皇后になれるという儀式があった。
拓跋珪の妻で拓跋嗣の母劉貴人は、金人鋳造に失敗し皇后になれなかった。対して、拓跋珪の妻で慕容宝の娘慕容氏は金人が無事立ったので皇后になった。拓跋嗣の妻で姚興の娘姚氏は金人鋳造に失敗したが、拓跋嗣の寵愛著しく皇后に相当する待遇を受け、死後に皇后の称号を追贈された。

北魏の造像に対する熱意は凄まじく、雲崗石窟・龍門石窟は中華を代表する仏教美術として知られる。金人鋳造の儀式もまた、拓跋の造像への執着を反映した風習であったように思われる。

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