西魏の軍制について 八柱国・十二大将軍は虚構だったのか

前島佳孝 「西魏の統治領域区分についての補論」で感得するところが多く、記事を書くことにした。

周書 巻16列伝第8によると西魏では、爾朱栄以後に最高指導者の称号となった柱国大将軍に至った者が8名居り、八柱国と呼ばれている。
メンバーは、宇文泰(のちの北周太祖)・李虎(唐高祖李淵の祖父、のちの唐太祖)・元欣・李弼・独狐信・趙貴・于謹(於謹)・侯莫陳崇である。

柱国大将軍の下位に位置付けられた大将軍(かつて武官の頂点を意味した)には12人が任じられ、十二大将軍と呼ばれている。
メンバーは、元賛・元育・元廓(のちの西魏恭帝)・宇文導・侯莫陳順・達奚武・李遠・豆盧寧・宇文貴・賀蘭祥・楊忠(隋文帝楊堅の父)・王雄である。

八柱国のうち、全軍を統括する宇文泰と皇族の重鎮である元欣を除く6人は、それぞれ2人の大将軍を従えて軍を分掌していた。
そして、12名の大将軍はそれぞれ2名の開府を統べた。
各開府が率いる軍を1単位とした24軍が構成された。読んで字のごとく、西魏で創始された府兵制の基本的ユニットである。
ここでの開府は、開府儀同三司である。儀同三司とは、人臣の頂点である三公(周の太師・太傅・太保、および東漢の太尉・司徒・司空が有名)と同等の待遇を示す称号で、そのうち自身の政庁を持つ権限=開府を許された人のことを開府儀同三司という。
ちなみに、北周の575年、開府儀同三司と驃騎大将軍(大将軍に次ぐ将軍号)を合わせて、開府儀同大将軍と呼ばれるようになった(北史 巻30列伝第18、速水大 「唐代勲官制度研究の現状と課題」)。

6柱国がそれぞれ12大将軍のうちの誰を傘下に収め、どのように西魏を分割統治したか、以前から疑問を持っていたのだが、毛漢光による先行研究があった。それによると、

李虎:元賛・元育を配下とし、京城および長安付近を掌握
李弼:豆盧寧・楊忠を配下とし、洛水(北方から合流する渭水支流)流域、北華州・雍州を掌握
独狐信:宇文導・元廓を配下とし、渭水上流、雍州一帯を掌握
趙貴:王雄・宇文貴を配下とし、渭水中流、岐山雍州から秦嶺山脈までを掌握
于謹:達奚武・賀蘭祥を配下とし、渭水下流、雍州・華州一帯を掌握
侯莫陳崇:李遠・侯莫陳順を配下とし、涇水(北西から合流する渭水支流)流域、涇州・寧州・雍州を掌握

長安周囲は西を李虎、東を于謹が担当し、遠方は長安を中心として秦嶺山脈から黄河(渭水合流前)までを放射状に分割し、南から趙貴・独狐信・侯莫陳崇・李弼が担当するという配置である。

しかしながら、柱国と大将軍の対応を示す資料は確認されていない。さらに、議論の根本にある周書記載そのものの信頼性が揺らいでいる。
山下将司は、八柱国の語が唐代の創作であると論じた(「唐初における貞観氏族志の編纂と八柱国家の誕生」)。
また、八柱国2位とされる李虎の序列が実際には7位だったようだ(前島佳孝 「西魏・八柱国の序列について」)。
柱国と大将軍の実像は、隋唐の先祖を含むが故に、周書の成立した唐代で曲筆を要するデリケートな部分だったのだろう。現在「八柱国十二大将軍」は、古い歴史認識を示す用語として、安易な使用が難しくなっている。
よくよく考えると、国家の幹部人事というのは年単位で変化を認めるのが通例であり、535年から556年まで続いた西魏において、固定化された指導体制を想定するのは難しい。武川鎮軍閥で特別な重みを持った賀抜勝の扱い、司空・徐国公だった若干恵の扱い(前島佳孝 「柱国と国公」)なども気になる。

前島佳孝は、毛漢光の説に代えて、宇文泰の親族のうちで統治と軍務の才を備えた宇文導・宇文護という甥2人に注目し、宇文導を配置した秦州(甘粛省天水市付近)と宇文護を配置した蒲坂(山西省運城市永済市)を、宇文泰個人の重視した2大エリアとしている。

宇文泰は高歓に対抗する必要から便宜的に立てられたリーダーであるに過ぎず、北族元勲との上下関係はそれほど明確でなかったとされる。
西魏から北周にかけて、宇文氏が元氏や北族元勲に勝る権威をどのように獲得していくか、周礼の採用と漢人への宇文姓授与(大川富士夫 「西魏における宇文泰の漢化政策について」)・通婚関係(会田大輔 「北周宗室の婚姻動向」)などからも苦心の跡を読み取ることが出来る。

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