山東半島が南朝劉宋に属している地図をよく見る。これは劉裕による南燕征服の成果を反映したものである。ところが、斉や梁の頃になると山東半島は北魏の版図となっている。
西暦450年における拓跋燾南伐の影響と考えていたが、実際には慕容白曜の業績だったことを最近知った。資治通鑑において、慕容白曜に関する記事は巻132(467-470年)に集中しているため、読んでみることにした。年は西暦だが、月は旧歴に従う。
事前知識として、当時の背景を簡単に説明する。
464年、劉駿(宋の孝武帝)に代わる皇帝として長男の劉子業(前廃帝)が立ったものの、皇族や重臣の殺害を繰り返した。465年(新暦では466年)、劉子業の叔父である劉彧(明帝)が劉子業を殺して皇帝に即位した。一方で、劉子業の弟である劉子勛を皇帝に立てようとする動きが別にあり、劉彧陣営と衝突した。劉子勛陣営には多くの高官が名を連ね、宋を2分していたと表現しても差し支えないほど大規模な内乱であった。蕭道成(のちの斉太祖・高帝)の活躍などにより劉彧優位で事態は進行し、466年に劉子勛は殺されたが、劉子勛陣営の抵抗は続き、ついに北魏を引き込んだ。
資治通鑑抄訳(467年2月~470年10月)
467年
2月、魏は平東将軍の長孫陵らに兵を授けて青州に赴かせた。征南大将軍の慕容白曜は、騎兵5万を率いてその後援にあたった。慕容白曜は燕太祖(慕容皝)の玄孫(やしゃご、孫の孫)である。白曜は無塩(山東省泰安市東平県)に到着し、これを攻めたいと思ったが、将佐(将官と佐官、高級武官)はみな考えた「攻城兵器が準備できておらず、急攻は良くない」
左司馬で范陽(北京市・天津市・河北省保定市の一帯)出身の酈範は言った「いま軽装の軍で遠くより襲来し、敵国境に深く侵入している、滞って良いはずがない。また、わが軍が早々に来着しながら攻囲にもたつけば、申纂(無塩の守将)は必ずわが軍に備えがないと言うだろう。いまもし彼らの不意をついて出撃すれば、一戦にして勝つことができる」
白曜は言った「司馬(酈範)の策、これだ」
慕容白曜は偽装退却した。申纂が再び備えを設けることはなかった。白曜は夜中に兵を分遣した。
3月、夜明けから無塩城を攻め、食時(辰の時=午前8時頃、もしくは食事どき)に勝った。申纂は逃げたが、白曜軍はこれを追って捕らえ、殺した。白曜は無塩の民をことごとく軍への褒賞にしようとしたが、酈範は言った「斉は形勝の地(敵を防ぐのに好都合な地勢、周囲を海に囲まれた山東半島は防衛しやすい)であり、遠大な見通しで統治するのが良い。いま官軍(魏軍)がその国境に入り始め、人心は調和していない。多くの城が我々の様子をうかがい、ことごとく固守の志がある。徳と信をもって彼らを手なずけなければ、いまだ平定は容易でない」
白曜は言った「善し」
無塩の民はみな免ぜられた。
白曜はまさに肥城(山東省泰安市肥城市)を攻めようとし、酈範は言った「肥城は小城であるが、攻めれば長引く。勝っても軍の勢いは増さず、勝てなければ軍の威力が挫かれる。彼らは無塩が撃破され死傷し泥まみれになった様子を見て大いに恐れている。もし警告の手紙を送れば、たとえ降伏しなかったとしても逃散するはずだ」
白曜はこれに従い、果たして肥城は潰え、粟30万斛を獲た。白曜は酈範に言った「この外征で卿を得た、三斉(斉の地を三斉と呼ぶこともある、語源はわからなかった)は定まったも同然である」
ついに垣苗・糜溝(いずれも現在地を同定できず)という2つの戍(守備兵の陣営)を取り、10日のうちに4つの城を立て続けに抜いた。白曜の威は斉の地を震撼させた。
房崇吉は升城(山東省済南市長清区付近か)を守り、戦える者は700人に満たなかった。慕容白曜は2月より長い包囲線を築いてこれを攻めた。
4月、慕容白曜は升城に勝った。白曜は升城が降らなかったことに怒り、ことごとく城中の人を穴埋めにしようとしたが、参軍事で昌黎(河北省秦皇島市昌黎県)の韓麒麟は諫めて言った「いま強敵が眼前に居るが、その民を穴埋めにすれば、それ以降東方の諸城は頑なに守備するようになり、勝てなくなる。軍は疲弊し食糧は尽き、外敵はこれに乗じてくる。これは危険な道だ」
こうして白曜は升城の民を慰撫し、各々を復職させた。房崇吉は脱出できたが、房崇吉の母である傅氏や申纂の妻である賈氏は捕えられた。ただし、魏の盧度世は従姉妹の彼女らを厚遇した。
崔道固(もともと劉子勛陣営)は閉門して魏を拒んだ。沈文秀(もともと劉子勛陣営)が遣使して魏に降伏する意思を示し、援軍を寄越すよう求めた。白曜は兵を派遣しようとしたが、酈範は言った「沈文秀の家や墳墓はすべて江南にあり、兵数万を擁し、城は堅固で装備も充実している。強ければ防戦し、屈するなら逃げ去る。わが軍がまだ城に迫っておらず、時間を争う緊急事態でないのに、どうして恐れて援軍を求めるのか。また彼の使者を見たところ、視線を下げて表情に恥じる様子があり、よく喋るが内心臆病そうだ。これは必ず詐術を設けて我々を誘っている。従ってはならない。先に歴城(山東省済南市歴城区、崔道固が駐屯)を取り、盤陽(山東省淄博市淄川区付近)に勝ち、梁鄒(山東省浜州市鄒平市)を下し、楽陵(山東省徳州市楽陵市)を平定するのがよい。その後で兵をむやみに動かさずおもむろに進めば、彼の不服は患いとならない」
白曜は言った「崔道固らは兵力が弱く、出戦できない。我々の通行を妨げるものはなく、すぐに東陽(候補複数だが山東省徳州市か、沈文秀が駐屯)へたどり着く。彼は敗亡が避けられないと自ずから知り、ゆえに望風(はるかに慕う)して服従を求めた。どうして疑うというのか」
酈範は言った「歴城は兵が多く兵糧も足りており、速やかに抜くことはできない。沈文秀は坐して東陽に籠り、諸城の根拠地となっている。いま兵を多く派遣すれば歴城を攻められなくなり、少なければ東陽を制するには不足である。もし進んだ後で沈文秀に拒まれれば、退却しながら諸城の迎撃するところとなる。前後に敵を受け、節理を全うすることは決してできない。さらに審らかに計画し、賊の罠に落ちないよう願いたい」
白曜はこうして派兵を止め、沈文秀は結局降らなかった。
8月、慕容白曜は進んで瑕丘(山東省済寧市兗州区)に駐屯した。崔道固はまだ降伏していなかった。綏辺将軍の房法寿は王玄邈(劉彧陣営として劉子勛陣営の崔道固と争った)の司馬となり、しばしば崔道固の軍を破り、歴城の人々は彼を恐れていた。房法寿は崔道固に降り、軍は解散となった。崔道固は房法寿が百姓を扇動することを恐れ、遣使して建康(江蘇省南京市、南朝の首都)に帰るよう迫った。ちょうど従弟の房崇吉が升城より来ており、母と妻が魏に捕らわれているため、房法寿のもとで相談していた。房法寿は南に行くことをもとより欲さず、脅迫してきた崔道固を怨んだ。当時、崔道固は兼治中房の霊賓を督清河・廣川二郡事として派遣し、営所は盤陽に置いていた。房法寿は房崇吉と謀って盤陽を襲って占拠すると、慕容白曜に降って代わりに房崇吉の母と妻を求めた。崔道固は派兵して房法寿らを攻めたが、白曜が瑕丘から将軍の長孫観を派遣して盤陽を救援したため、軍を引き返した。白曜は上表して、冠軍将軍の韓麒麟と房法寿の二人を冀州刺史とした。房法寿の従弟8人(霊民、思順、霊悅、伯憐、伯玉、叔玉、思安、幼安)はみな郡守となった。
白曜は瑕丘から出兵して歴城の崔道固を攻め、平東将軍の長孫陵らを派遣して東陽の沈文秀を攻めた。崔道固は堅守して降らず、白曜は長い包囲線を築いて対陣した。長孫陵らは東陽に到着し、沈文秀は降伏を請うた。長孫陵らが西郭に入ったところで、その士卒はほしいままに暴行・略奪を行った。沈文秀は悔やみ怒り、城を閉じて堅守し、長孫陵らを撃破した。長孫陵らは退いて清西(現在地を同定できず)に駐屯し、しばしば城攻めを行ったが勝てなかった。
12月、梁鄒を守る劉休賓の妻は崔邪利の娘で、息子の劉文曄とともに魏が身柄を押さえていた(450年の拓跋燾南伐で崔邪利ともども魏に捕らえられた)。慕容白曜は劉休賓の妻子を梁鄒の城下に連れてきて示した。劉休賓は密かに主簿の尹文達を派遣して歴城の白曜と会い、劉休賓の妻子を見た。劉休賓は降伏を欲したが、兄の子である劉聞慰が不可とした。白曜は城下に人を送って呼ばわった「劉休賓はしばしば人を寄越して僕射(慕容白曜は魏の尚書右僕射でもある)と会い、降伏を約束していたのに、どうして期日を違えて来ないのか」
こうして城中はみな劉休賓の状況を知り、劉休賓を禁制して降伏できないようにした。魏軍は梁鄒を包囲した。
468年
2月、慕容白曜は歴城の東郭を抜いた。崔道固は面縛(両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出す:降伏時の作法)して出て降伏した。白曜は崔道固の子である崔景業と劉文曄を梁鄒に送り、劉休賓もまた出て降伏した。白曜は崔道固・劉休賓およびその属官を平城(山西省大同市、北魏の首都)に送った。
3月、慕容白曜は進軍して東陽を包囲した。
劉彧は崔道固の兄の子である崔僧祐を輔国将軍とし、兵数千を授けて海路沿いに歴城を救援させた。不其(山東省青島市)に到着したところで歴城陥落の報告があり、ついに魏へ降った。
8月、劉彧は沈文秀の弟で征北中兵参軍の沈文静を輔国将軍・統高密等五郡諸軍事とし、海路沿いに東陽を救援させた。不其城に到着したところで魏軍に遮断され、城を保って固守した。魏軍はこれを攻めたが勝てなかった。
12月、魏軍は不其城を抜いて沈文静を殺し、東陽の西郭に入った。
469年
1月、沈文秀は東陽を守り、魏軍はこれを囲み3年になろうとしていた。外に救援なく、士卒は昼夜防戦し、甲冑にノミやシラミが湧いたが、離反する様子は無かった。
魏軍は東陽を抜いた。
沈文秀は軍服を解いて衣冠を正し、持節(刑罰権を象徴するアイテムとして君主より下賜される)を取って斎室に座った。魏の兵が来て言った「沈文秀はどこだ」
沈文秀は激しい声で言った「ここだ」
魏の人は沈文秀を運び去り、衣を奪い、縛り上げて慕容白曜のもとに送った。慕容白曜に拝礼するよう促され、沈文秀は言った「おのおのが両国(魏・宋)の大臣である、なぜ拝礼する必要があるのか」
白曜は沈文秀に服を返して飲食の機会を設け、鎖で平城に送った。
こうして青州・冀州の地はことごとく魏に編入した。
2月、魏は慕容白曜を都督三州(青・斉・東徐)諸軍事・征南大将軍・開府儀同三司・青州刺史とし、爵を済南王に進めた。白曜は優れた方法で国を治め、東方の人々は彼のもとで安堵していた。
魏では天安(魏の元号、466年-)以来、連年日照り・飢饉があり、重ねて青州・徐州での兵役があり、山東の民は疲弊していた。魏は貧富に応じて租税の軽減措置をとり、山東の民を慰撫した。
5月、魏は青州・斉州の民を平城に遷した。升城・歷城の民は桑乾(山西省北部から河北省に流れる川)に置くよう望み、平斉郡を(平城の北西に)立て、そこに住まわせた。残りはことごとく奴婢として百官に分け与えた。
470年
10月、かつて魏で乙渾(466年に殺されるまで丞相・録尚書事として魏の全権を掌握)が専政し、慕容白曜はすこぶる彼に付き従っていた。拓跋弘(北魏の顕粗・献文帝)はこれを思い出して恨み、ついに白曜の謀反と称して、慕容白曜と弟の慕容如意を誅殺した。
放論
斉の地を平らげたところで粛正、韓信になぞらえたくなるような名将の最期だった。
ただし、北魏としては仕方ない部分もある。周囲を海に囲まれた山東半島に北魏は攻めあぐね、劉裕すら攻略には苦労した。しかも、その天険の地は慕容部の旧領でもあるのだ。もし慕容白曜に野心があれば、魏と宋との間で巧みに外交しながら自立し、燕を再興する選択肢も十分とりえた。
慕容白曜によって故郷を失った三斉豪族は、南朝における地位向上のため新たな秩序を求め、郷里奪還のため強いリーダーを必要とした。彼らは蕭道成と結びつき、その革命軍団の主要構成員となった(榎本あゆち 「南斉の柔然遣使 王洪範について」)。
そして、蕭道成は蘭陵郡(山東省臨沂市)を本貫地とする氏族の出身であり、彼の新たな国は「斉」を国号とした。
慕容白曜と酈範。世が世なら胡人将軍と漢人軍師の名コンビとして、中華を縦横に駆け巡るポテンシャルがあったように思われる。彼らの活躍をもう少し見ていたかった。
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