慕容垂の紹介
前半生はその4でやった。前燕で居場所がなくなったので前秦に亡命した。苻堅に重用された慕容垂だが、前秦が淝水で敗北して崩壊すると苻堅を長安に護送したのちに関東(函谷関より東側)で自立した。
苻丕の占拠する鄴の攻略には手間取ったものの、やがて慕容垂の後燕は関東を代表する勢力としての地位を確立していった。
拓跋珪の紹介
拓跋珪は鮮卑拓跋部の国家である代の王族だったが、代は前秦・匈奴鉄弗部により滅ぼされた。しばらく匈奴独狐部の劉庫仁に庇護されていたが、部族長が息子の劉顕に代替わりした後は命を狙われるようになり、母方の実家である賀蘭部に逃れた。その後は、祖母の出身部族である慕容部の後燕と結びつくことで周辺勢力に対する優位を確立し、徐々にプレゼンスを増していった。
慕容垂に従属していた拓跋珪だが両者の関係は破綻
慕容垂に臣従しており、親戚でもあった拓跋珪だが、西暦390年を境に両者の関係は悪化し、北魏の使者が後燕に拘留される事件が起こった。懸隔の経緯は不明だが、華北を代表する勢力に成長した後燕と北魏の衝突は時間の問題であったろう。395年、周囲の主だった勢力を片付けた慕容垂はついに北魏征伐を決定した。
両勢力の激突 参合陂の戦い
北魏に対する征伐を決断した慕容垂だったが、自身は老いて病身ということもあり、皇太子の慕容宝を出撃させた。
これが下策であった。後継者問題に関わる人間にとって首都を離れるのはリスクであり、ちょっとした状況の変化で外征どころではなくなってしまうのだ。類例として真っ先に思い浮かべるのが、後世のモンゴル帝国におけるバトゥだ。西方を蹂躙したバトゥだが、トップのオゴデイ急死に伴い引き返さなければならなくなった。もしバトゥがそのまま征西を続けていたら、というのは割と興味深い歴史IFだと思う。
政略好きな北魏は、慕容垂の寿命問題と皇太子出馬という状況に付け込んだ。慕容垂死亡の虚報に動揺した慕容宝は軍を返したが、拓跋珪はここに追撃を仕掛けた。追撃にあたっては天然の要害たる黄河の凍結が両者の距離を縮める結果になったという。拓跋珪は参合陂で慕容宝の軍に追いつき、後燕の軍を壊滅させた。
名将のリベンジ 慕容垂最後の戦い
参合陂の大敗により、後燕は北魏に対する軍事的優位性を完全に失った。
ところが慕容垂は自ら北魏に向けて出征すると、一気に北魏の首都である平城を落した。
ただし、拓跋珪は外征ばかりで首都に腰を落ち着ける時間の方が少ない人物で、当時も不在だった。また、北方民族である拓跋部の場合、首都陥落が国家に与えるダメージは限定的だった。
慕容垂は平城を落した帰途に陣没した。皇太子の慕容宝が後を継いだものの、慕容垂の剛腕抜きで関東の大国後燕の統合を維持することはできなかったし、拓跋珪との力量差も明らかであった。
慕容垂は生涯にわたって五胡十六国の中盤のキープレーヤーとして、存在感を示し続けた。東晋や北魏相手の戦いぶりから将才は明らかであるし、首都を鄴ではなく中山に定めるなど政治的にも高度な判断を行っていた。
(鄴は東晋からの圧迫が十分予想される情勢だった。また、北魏・高句麗などがある中で騎兵戦力を確保する意味でも鄴では南過ぎる感がある。)
私自身、燕の全権が最初から慕容垂にあったならと思わずにはいられない。
ちなみに、拓跋珪が北魏の皇帝として至上の地位に就いたのは、慕容垂の死後であった。
シリーズの結び
以上、独断と偏見で選んだ五胡十六国を代表する英雄達が衝突したドリームマッチを5つ紹介した。
その1 石勒 VS 劉曜
その2 石勒 VS 祖逖
その3 冉閔 VS 慕容恪
その4 慕容垂 VS 桓温
その5 慕容垂 VS 拓跋珪(今回)
東晋の謝玄・劉牢之と前秦の苻堅とで行われた「淝水の戦い」、拓跋珪と後秦の姚興とで行われた「柴壁の戦い」が取り上げられていないというツッコミは容易に予想される。
しかしながら、王猛を抜いた苻堅単独での指揮官としての評価、尹緯・姚緒・姚碩徳を抜いた姚興単独での指揮官としての評価、いずれもドリームマッチに相応しくないと判断した。
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