五胡十六国、南北朝から隋唐に至るまで、キーワードは胡漢融合である。つまり、胡人の武力・習俗と漢人の生産力・統治機構をどう結び付けるか、そのトライアンドエラーの歴史であった。
前趙の石勒と張賓、前秦の苻堅と王猛、北魏の拓跋燾(太武帝)と崔浩など、華北の大国には胡人君主と漢人宰相の組み合わせがしばしば出現しており、胡漢のバランシングがいかに国家の命運を左右したかを窺い知ることができる。
そんな中、一人で胡漢融合を体現した英雄が居り、それが胡人の父と漢人の母を持つハーフ、前燕の慕容恪であった。
慕容恪は、前燕の初代王で鮮卑族の慕容皝と漢人高氏との間に生まれた。当初は父より目をかけられなかったが、体格の立派さや能力の高さから徐々に認められるようになった。
その後、将軍として様々な勢力を相手に勝利している。中でも特に、石虎への追撃戦と冉閔捕獲は注目される。彼ら2人は当時最高の武力と見込まれる存在だからだ。(仮に五胡十六国のシミュレーションゲームが出るなら、武力100の候補は彼らと祖逖・慕容垂・赫連勃勃・劉裕あたり)
その後も前燕の領土拡大に貢献しており、洛陽を攻め取ったのは特に重要なマイルストーンであった。当時の中華は、鄴の前燕・長安の前秦・建康の東晋と三国鼎立の様相を示していた。各勢力の中央に位置する洛陽の帰趨は最も優位な勢力を象徴した、それが慕容恪率いる前燕だったということである。
慕容恪は統治においてもその才を示し、官・民ともに敬愛したという。慕容恪のゆるやかな政治は必ずしも全肯定されるべきではないかもしれない。しかしながら、戦争屋だらけの慕容部において、徳治の心得を持った慕容恪はやはり特異点であった。
兄慕容儁の死後は、録尚書事(皇帝への上奏文を検閲する要職)・太宰(当時の三公は周に準じ、太師・太傅・太保 晋やその友好国では首席の太師が司馬師の名と被るため太宰と呼んだ)と主に宰相として前燕を主管した。洛陽を支配した慕容恪時代はまさに前燕の全盛期であり、前秦の苻堅・東晋の桓温といった大物も慕容恪には手を出せなかった。
洛陽占領から2年後の西暦367年に慕容恪は没した。死期を悟った慕容恪は、慕容垂を存分に活用するよう度々言葉を発した。けれども、慕容恪死後に慕容垂が重んぜられることはなく、身の危険を感じた慕容垂は前秦に亡命した。その後、前燕は前秦の王猛などにより追い詰められ、慕容恪の死からわずか3年後の370年に前燕は滅亡した。
慕容儁が死ぬ際に、慕容恪に帝位を譲ろうとして断られ「兄弟の間で、どうしてうわべを飾る必要があるのか!」と怒った。この背景については、補足しておきたい。胡人において、君主の座に正嫡など関係なく、一番強いものが取るのだ。劉聡・劉曜・石虎と前例は豊富にあるし、鮮卑慕容部でも慕容皝vs慕容翰など親族同士の争いはお家芸であった。
たとえ慕容恪が謙譲の姿勢を示したとしても、慕容垂は間違いなく胡人の論理で頂点を狙って来る。力量において、慕容儁の子供達が慕容恪・慕容垂に勝てるはずはない。慕容恪に皇位を譲ろうとしたのは、国の将来だけでなく、将来慕容垂に我が子達が一掃される懸念もあっての切実な懇願だったように思われる。にもかかわらず、慕容恪は兄の望みを退け、あくまで周公旦のように輔弼をさせてほしいと訴えたのだ。彼は漢人とのハーフであったが故に、トップを取るのではなく、輔弼を行うことで歴史に美名を残すという、異民族らしからぬ願望を持っていた。
このように文武に渡って前燕の全盛期を支え、中華好みの仁性も示した慕容恪。彼に対する評価を幾つか挙げてみる。
慕容皝が死んで、慕容儁に継ぐ際、父皝は子儁に「慕容恪は智勇ともに申し分ない。汝はこれに委ねるように」と遺言している。漢人の血ゆえに君主としては考えていなかったようだが、英傑揃いの慕容部においても抜きんでた資質を示したことが分かる。(ちなみに慕容皝は、慕容覇=後の慕容垂に王位を譲ろうとしたことがある。慕容垂はのちに東晋の桓温・北魏の拓跋珪と、五胡十六国屈指のドリームマッチを制しており、五胡十六国最高の将軍との呼び声も高い。息子達の実力を見極めていた慕容皝、彼もまた当代きっての名君であったといえる。)
桓温は慕容儁の死に沸き立つ東晋にあって「慕容恪がまだいる、気がかりはより大きくなった(私訳)」と発言した。(清の政治家李鴻章はこの故事を受けた言葉を残している)
王猛は前燕の旧領で行った簡潔な法と寛大な政を、慕容恪の再来に例えられたことを受け「慕容恪は誠に稀な逸材だったようだ、過去の統治を愛する者達がこれほど遺っているとは(私訳)」と讃えた。
後世でも、慕容恪が幼主を輔ける様子を霍光に例えた北魏の宰相崔浩、慕容恪の賢や正心を称え彼を題材にした詩を詠んだ南宋の知識人陳普、慕容恪の徳ゆえに一度滅びた慕容氏が再興できたと評価した明末の思想家王夫之など、慕容恪を高く評価する人々が居た。
不人気な五胡十六国時代にあって、華北の覇権を取りきれなかった前燕、そこで天子にならなかった慕容恪、彼は時代のメインストリームを記載する上で省略されがちである。しかしながら、智仁勇において、慕容恪こそが間違いなく五胡十六国時代で随一の存在であったし、中華全体の歴史で見ても燦然と輝く綺羅星である。五胡十六国の魅力・鮮卑慕容部の魅力と共に、慕容恪の魅力が更に注目されていくことを願っている。
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