慕容紹宗
慕容紹宗は前燕の名将かつ名宰相、慕容恪の末裔とされる。
爾朱栄相手に洛陽での誅殺を諫止したり、爾朱兆相手に高歓への警戒を説いたり、各所で適切な助言をしているが、聞き入れられなかった。爾朱兆の敗北後は高歓に投降し、その後東魏の将として各地で戦勝を得てきた。
547年、東魏の黄河以南を任されていた侯景が、高歓死後に息子の高澄に対し乱を起こした。侯景の言動からすると、高歓は主君でなく同僚であり、まして息子の高澄に従うつもりは全くなかったようだ。
ただ、生前の高歓は侯景が高澄に従わないことを見抜いており、その際に慕容紹宗を当たらせるよう遺言していた。慕容紹宗の起用は割とサプライズな人事であり、彼が向かってきたことを知った侯景は、高歓の存命を疑っている。高澄の器量では任用できないと思われていたほど、当時の高氏と慕容紹宗の間には溝があったということだ。
東魏で唯一の脅威である慕容紹宗参戦に焦った侯景だが、直接戦闘では優勢を維持した。後の名将斛律光は、慕容紹宗の不甲斐なさを糾弾し、侯景と対峙してみたものの歯が立たなかった。慕容紹宗は持久戦に切り替え、兵糧不足により侯景は敗走した。
侯景と戦う前に南朝梁からの兵に対しても大勝しており、蕭淵明ら多くの捕虜を得た。
王思政
王思政は太原王氏とされるが、烏丸系だとする説もある。
元脩(北魏の考武帝)に関中の宇文泰を頼るよう助言したのは、王思政その人である。
独狐信の下で洛陽を攻略し、陥落させるとその地に駐屯した。その後の高歓の反攻(河橋・邙山の戦い)で洛陽を失ったが、王思政は重傷を負いながら奮戦した。
王思政は対東魏戦線における要地として玉壁(現在の山西省運城市稷山県)に注目し、その地に築城した。その後高歓本人が攻めてきたのだが、王思政は玉壁の防戦を全うする大殊勲を挙げた。
西魏は王思政を玉壁から弘農に転属させた。その際に、玉壁の後任として王思政に推挙されたのが韋孝寛である。韋孝寛は再び玉壁に攻め寄せた高歓を退けるなど、その後の西魏・北周に欠かせない名将となった。一方の王思政は、弘農や続く任地の荊州で城郭整備を行っている。
両者の対決 潁川水攻め
侯景が反旗を翻したことにより、黄河以南における東魏の支配は動揺した。王思政は侯景からの救援要請を機会に河南への領土拡大に成功した。侯景を自陣営に引き入れることなく、領地だけを得た西魏の采配は注目に値する。
王思政は襄城(※)から、新たに西魏領となった潁川郡の長社県城(河南省許昌市長葛市)へ駐屯地を移そうとした。崔猷は、後背地の長安・洛陽と連携可能な襄城に比べ、潁川は敵地に近いうえ山河の守りもないことから、王思政の潁川移転に反対した。宇文泰は崔猷に同調していたが、地理感覚に優れた防衛のスペシャリスト王思政からの強い要請ということもあり、潁川移転を最終的に許可した。王思政は、陸から攻められたら3年、水攻めでも1年は持ちこたえると約束した。
※襄城について
襄城は河南省許昌市襄城県とされるが、長社県と同じ潁川郡内なので潁川⇔襄城の対置はやや不自然に感じる。また、長社より長安・洛陽から遠い点も気になる。
潁川と一体化して統治という記載や長安・洛陽との位置関係から、湖北省襄陽市襄城区も考えにくい。
荊州北部を掌握していた西魏にとっては南西にある襄城県の方が補給線を維持しやすかったのだろうか。当時ならではの地理・行政区分も考慮する必要がありそうだ。
548年4月、東魏は慕容紹宗らに10万の兵を与えて、潁川を攻撃させたが、王思政は8千の兵で潁川を堅守した。
549年4月、劉豊の提案に従って東魏による水攻めが開始された。敵地に近い上、水攻めで周囲が水浸しとなった潁川は西魏からの救援が難しく、孤立した潁川は東魏の猛攻の前に窮地となった。
慕容紹宗と劉豊は堤防近くで長社城内の偵察を行っていたが、突風により船へ避難した。ところが、暴風によって船を係留していたロープが切れ、船は長社城近くまで漂流した。慕容紹宗は川へ飛び込んで溺死し、劉豊は泳いでいるところを射殺された。
慕容紹宗の死により東魏の士気は失われたが、高澄自身が兵11万を率いて出馬し、戦線と水攻めを引き継いだ。
同年6月、長期間の包囲で長社城内から塩が無くなり、戦闘継続は困難となっていた。ついに城壁が崩壊し、東魏軍は城内に入ったが、高澄は王思政を捕えるよう命じていた。王思政は自害を考慮していたものの、その場合部下達が斬殺されるため、東魏に降伏した。
高澄は王思政を礼遇したが、王思政に軍を率いる機会は与えられず、彼の下で固い結束を維持した長社の残兵3千も遠方に散らされた。翌550年、王思政は東魏に飼殺されたまま生涯を終えた。
西魏は、侯景の反逆に便乗して切り取った河南各所へ兵を配置していた。宇文泰が王思政の敗報を受けると、速やかにこれらを撤収した。西魏は東魏に対し圧倒的に劣勢で、領地に拘って諸軍を各個撃破されると、軍事的均衡を維持できなくなるリスクがあった。
放論
慕容紹宗は東魏を代表する名将で、王思政は西魏を代表する名将だったが、魏の東西対決は双方とも失われるほどの激闘だった。
慕容紹宗のミスは不用意な敵情視察という1つだけ、王思政のミスは駐屯地を長社にした1つだけである。
ただし、慕容紹宗の敵情視察については擁護しておきたい。敵の正確なスカウティングは戦争の行方を左右する極めて重要なプロセスである。そのため優れた将ほど偵察を重視する。観察する側に戦略的思考があれば偵察は一層効果的になるし、百聞は一見に如かずという言葉通り、伝聞と実際目にするのでは情報の精度が違う。
古来より指揮官はリスクを冒して敵地の視察に向かうことがあった。敵兵と遭遇し、あっけなく討ち取られることもあるが、成功すれば自軍が有利になる。配下の兵を損なうリスクが減り、自身は更なる栄達の機会を得るのだ。安全な本陣で待つのではなく、身の危険を冒して敵情視察に向かうのは、ある意味で良将の一条件といえた。
それに、自陣の堤防沿いなので、本来そこまでリスクの高い偵察任務ではなかった。慕容紹宗には、ただただ運がなかった。
高歓と宇文泰の対決は、魏晋南北朝において最もハイレベルな勝負だったと考えている。侯景に対する両者の対処・王思政敗戦後の処理など、今回の記事内でも彼らの判断力を窺い知ることができる。
高歓が爾朱氏を倒して関東を掌握していく手際は素晴らしく、もし宇文泰が居なければ高歓が華北を統一し、中華統一への挑戦権を得ていたであろう。
対して西魏の宇文泰は、文武において南北朝最高の英傑と評価すべきだが、高歓より世に出るのが遅すぎた。天の時に由来するディスアドバンテージは高歓死後も巻き返せず、逆転するまでには息子世代までの積み重ねを要した。
高歓・宇文泰の両雄を議論するにあたっては、傑出する者が居なくて統一できなかったのではなく、2人とも傑出していたため決着が付かなかったことを強調しておきたい。
慕容紹宗について、段韶と並置する構想(高歓の遺言から分かるように、東魏の指揮官としてこの2人が図抜けていた)や慕容白曜と並置する構想(慕容部の戦巧者ぶりは南北朝期でも健在)を持っていたが、よりマイナーかつ直接対峙した王思政にフォーカスを当てたくなったので今回の形式にした。
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