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中華の流通を支えた貨幣と度量衡について
貨幣総論貨幣には3つの機能がある。 1.交換機能(決済機能)米を持っている人が魚を欲しくなったとする。物々交換では、魚が余っていて尚且つ米が欲しい人の中からマッチング先を探さなければならない。貨幣経済では、とりあえず米が欲しい人の中から広く交換先を探して貨幣を得た後、魚が余っている人の中から広く交換先を探し貨幣を渡して魚を得る。2段階のマッチングを要するものの、実はこちらの方がはるかに目的を達しやすい。 2.価値の尺度機能米と引き換えで魚を得る例のまま続ける。物々交換では、マッ... -
彭城太妃爾朱氏 数奇な生涯を辿った爾朱栄の長女
爾朱栄の記事を書くために色々調べていると、その長女の生涯にも興味を持った。そこで、簡単に紹介することとした。北史に従って彭城太妃爾朱氏としたが、大爾朱氏と呼ばれることが多い。爾朱栄の娘と爾朱兆の娘が、どちらも北魏皇后を経た後に高歓の側室となっており、後者は北史において小爾朱と記されているからである。 北史 巻14 列伝第2 后妃下彭城太妃爾朱氏は、栄の娘、魏の孝荘(元子攸)の皇后である。神武(高歓)は彼女を側室として迎えると、婁妃(正室の婁昭君)より重んじ、爾朱氏と会うときは... -
爾朱栄 北魏の秩序維持とその崩壊
五胡末から南北朝と長期に渡って存在感を示した北魏、爾朱栄がその転機になったことは間違いない。以前から魏書爾朱栄伝に興味はあったが、今回読んでみることにした。ただし、北斉期編纂の魏書は、正史でありながら多くの曲筆が指摘され「穢史」とも呼ばれるいわくつきの書である。魏書を読む際は、常に北斉政権・編者魏収によるフィルターを意識する必要がある。唐代成立の北史にも爾朱栄の列伝があるため、魏書に準拠して記載しながら、食い違う所は適宜追記する。 爾朱栄伝 (魏書 巻74列伝第62、北史 巻48... -
祖沖之 南朝に現れた算術の特異点
中華の度量衡について調べていると、南朝の祖沖之についての記載を認めた(丘光明、楊平 「中国古代度量衡史の概説」)。以前の暦に関する記事で見た名前ということもあり、彼の事績をまとめてみた。 円周率隋書律暦志によると、古代では円周率を3とみなしてきた。その状況が変わったのは王莽の新の頃。劉歆が「新莽嘉量」という度量衡の傑作を造り、その銘文中に円面積の算出法も記された。劉歆の円周率は3.1547であったと推算されている。曹魏の劉徽は割円術(円に接する正多角形を用いる)によって円周率の算... -
長沙厲王 司馬乂 兄弟愛とその結末
司馬乂は、八王の乱において唯一良識的な行動を取った諸侯王として、その戦績も含め肯定的な評価が多い。彼の事績を晋書ベースで追ってみた。 司馬一族の親疎を分かりやすくするよう、カテゴライズしてみた。カテゴリー1 Cat.1 司馬炎の子孫カテゴリー2 Cat.2 司馬昭の子孫(司馬炎系除く)カテゴリー3 Cat.3 司馬懿の子孫(司馬昭系除く)カテゴリー4 Cat.4 司馬防の子孫(司馬懿系除く) 長沙厲王 司馬乂(Cat.1) 字は士度。司馬炎の第6子(異説あり)。西暦289年、長沙王に封じられた。290年、司馬... -
劉宏と董卓 その虚像と実像
劉宏。東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)の霊帝として知られる。売官・汚職を横行させ、清廉な官人たちを党錮の禁で弾圧するなど、東漢が民衆・名士からの支持を失うきっかけとなった暗君とされる。董卓。皇帝を廃位したのちに殺し、雒陽(東漢期の洛陽はこう記した)を焼き、悪貨を流通させるなど、乱世の呼び水になった暴虐の支配者とされる。なぜ彼らの悪評は固定化されるに至ったか、共通点があると考え、ここに放論を行う。 東漢末期の頃はグローバルでの寒冷期にあたった。世界各地でそれまでの生... -
前回からの続きで崔猷についても調べてみた
前回の王思政に関する記事で、長社県(現在の河南省許昌市長葛市)に駐屯しようとした王思政の判断に否を突き付けた崔猷。彼に興味を持ったため、周書・北史からユルく引用しながら足跡を辿ってみた。 崔猷の生涯(北魏~隋、周書巻35列伝第27/北史巻32列伝第20)崔猷の字は宣猷、博陵郡安平県(現在の河北省衡水市安平県)の人、漢の尚書崔寔の十二世孫である。(父祖・肩書系は割愛)猷は年少時より学問を好み、物静かでエレガントな佇まいにあっても性格は剛直で、軍略の才もあった。北魏で任官されていたが、... -
慕容紹宗と王思政 東魏・西魏の激闘で失われた東西の名将
慕容紹宗慕容紹宗は前燕の名将かつ名宰相、慕容恪の末裔とされる。爾朱栄相手に洛陽での誅殺を諫止したり、爾朱兆相手に高歓への警戒を説いたり、各所で適切な助言をしているが、聞き入れられなかった。爾朱兆の敗北後は高歓に投降し、その後東魏の将として各地で戦勝を得てきた。547年、東魏の黄河以南を任されていた侯景が、高歓死後に息子の高澄に対し乱を起こした。侯景の言動からすると、高歓は主君でなく同僚であり、まして息子の高澄に従うつもりは全くなかったようだ。ただ、生前の高歓は侯景が高澄に従わ... -
宇文邕の廃仏 魏晋南北朝における法難 その2
三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は後編とし... -
拓跋燾の廃仏 魏晋南北朝における法難 その1
三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は前編とし...