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爾朱栄 北魏の秩序維持とその崩壊
五胡末から南北朝と長期に渡って存在感を示した北魏、爾朱栄がその転機になったことは間違いない。以前から魏書爾朱栄伝に興味はあったが、今回読んでみることにした。ただし、北斉期編纂の魏書は、正史でありながら多くの曲筆が指摘され「穢史」とも呼ばれるいわくつきの書である。魏書を読む際は、常に北斉政権・編者魏収によるフィルターを意識する必要がある。唐代成立の北史にも爾朱栄の列伝があるため、魏書に準拠して記載しながら、食い違う所は適宜追記する。 爾朱栄伝 (魏書 巻74列伝第62、北史 巻48... -
祖沖之 南朝に現れた算術の特異点
中華の度量衡について調べていると、南朝の祖沖之についての記載を認めた(丘光明、楊平 「中国古代度量衡史の概説」)。以前の暦に関する記事で見た名前ということもあり、彼の事績をまとめてみた。 円周率隋書律暦志によると、古代では円周率を3とみなしてきた。その状況が変わったのは王莽の新の頃。劉歆が「新莽嘉量」という度量衡の傑作を造り、その銘文中に円面積の算出法も記された。劉歆の円周率は3.1547であったと推算されている。曹魏の劉徽は割円術(円に接する正多角形を用いる)によって円周率の算... -
長沙厲王 司馬乂 兄弟愛とその結末
司馬乂は、八王の乱において唯一良識的な行動を取った諸侯王として、その戦績も含め肯定的な評価が多い。彼の事績を晋書ベースで追ってみた。 司馬一族の親疎を分かりやすくするよう、カテゴライズしてみた。カテゴリー1 Cat.1 司馬炎の子孫カテゴリー2 Cat.2 司馬昭の子孫(司馬炎系除く)カテゴリー3 Cat.3 司馬懿の子孫(司馬昭系除く)カテゴリー4 Cat.4 司馬防の子孫(司馬懿系除く) 長沙厲王 司馬乂(Cat.1) 字は士度。司馬炎の第6子(異説あり)。西暦289年、長沙王に封じられた。290年、司馬... -
劉宏と董卓 その虚像と実像
劉宏。東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)の霊帝として知られる。売官・汚職を横行させ、清廉な官人たちを党錮の禁で弾圧するなど、東漢が民衆・名士からの支持を失うきっかけとなった暗君とされる。董卓。皇帝を廃位したのちに殺し、雒陽(東漢期の洛陽はこう記した)を焼き、悪貨を流通させるなど、乱世の呼び水になった暴虐の支配者とされる。なぜ彼らの悪評は固定化されるに至ったか、共通点があると考え、ここに放論を行う。 東漢末期の頃はグローバルでの寒冷期にあたった。世界各地でそれまでの生... -
前回からの続きで崔猷についても調べてみた
前回の王思政に関する記事で、長社県(現在の河南省許昌市長葛市)に駐屯しようとした王思政の判断に否を突き付けた崔猷。彼に興味を持ったため、周書・北史からユルく引用しながら足跡を辿ってみた。 崔猷の生涯(北魏~隋、周書巻35列伝第27/北史巻32列伝第20)崔猷の字は宣猷、博陵郡安平県(現在の河北省衡水市安平県)の人、漢の尚書崔寔の十二世孫である。(父祖・肩書系は割愛)猷は年少時より学問を好み、物静かでエレガントな佇まいにあっても性格は剛直で、軍略の才もあった。北魏で任官されていたが、... -
慕容紹宗と王思政 東魏・西魏の激闘で失われた東西の名将
慕容紹宗慕容紹宗は前燕の名将かつ名宰相、慕容恪の末裔とされる。爾朱栄相手に洛陽での誅殺を諫止したり、爾朱兆相手に高歓への警戒を説いたり、各所で適切な助言をしているが、聞き入れられなかった。爾朱兆の敗北後は高歓に投降し、その後東魏の将として各地で戦勝を得てきた。547年、東魏の黄河以南を任されていた侯景が、高歓死後に息子の高澄に対し乱を起こした。侯景の言動からすると、高歓は主君でなく同僚であり、まして息子の高澄に従うつもりは全くなかったようだ。ただ、生前の高歓は侯景が高澄に従わ... -
宇文邕の廃仏 魏晋南北朝における法難 その2
三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は後編とし... -
拓跋燾の廃仏 魏晋南北朝における法難 その1
三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は前編とし... -
辺境と呼ばれる地で宙を注視した人たち 北涼
中華においては、伝統的に太陰太陽暦が用いられてきた。月の満ち欠けを基準にしながら、季節の廻りにも配慮しつつ暦を設定するものである。そして、戦国秦の顓頊暦から魏晋の景初暦に至るまで、章法(メトン周期)という19年で閏月を7回挿入する暦法で統一されていた。 公転周期は時代と共に変わるが、国立天文台の暦Wiki・太陰太陽暦の数字は下のようになっている。1太陽年=365.2422日1朔望月=29.530589日 章法の計算値は次のようになる。19太陽年=6939.6018日235朔望月=6939.688415日このように、季節の廻り... -
孫呉の首都に関する考察
西暦200年、孫策死亡後に勢力を引き継いだ孫権は、当初の本拠地を呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)とした。ここで注目すべきは呉の四姓である。顧氏・陸氏は呉県を本貫地とする氏族である。朱氏・張氏は候補が複数あるのだが、両方に呉県を本貫地とする氏族が居る。孫氏は呉郡富春県(浙江省杭州市富陽区)出身であるが、孫堅・孫策は北方を転戦しており、孫策は陸氏の長老である陸康と対立する有様であった。孫策までと違い、呉県に根を下ろした孫権の姿勢は注目しておくべきだろう。 208年、黄祖を討伐し、揚州南...