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辺境と呼ばれる地で宙を注視した人たち 北涼
中華においては、伝統的に太陰太陽暦が用いられてきた。月の満ち欠けを基準にしながら、季節の廻りにも配慮しつつ暦を設定するものである。そして、戦国秦の顓頊暦から魏晋の景初暦に至るまで、章法(メトン周期)という19年で閏月を7回挿入する暦法で統一されていた。 公転周期は時代と共に変わるが、国立天文台の暦Wiki・太陰太陽暦の数字は下のようになっている。1太陽年=365.2422日1朔望月=29.530589日 章法の計算値は次のようになる。19太陽年=6939.6018日235朔望月=6939.688415日このように、季節の廻り... -
孫呉の首都に関する考察
西暦200年、孫策死亡後に勢力を引き継いだ孫権は、当初の本拠地を呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)とした。ここで注目すべきは呉の四姓である。顧氏・陸氏は呉県を本貫地とする氏族である。朱氏・張氏は候補が複数あるのだが、両方に呉県を本貫地とする氏族が居る。孫氏は呉郡富春県(浙江省杭州市富陽区)出身であるが、孫堅・孫策は北方を転戦しており、孫策は陸氏の長老である陸康と対立する有様であった。孫策までと違い、呉県に根を下ろした孫権の姿勢は注目しておくべきだろう。 208年、黄祖を討伐し、揚州南... -
同盟関係から読み解く五胡十六国後期
五胡十六国後期は国の興亡が一層複雑になり、なかなか理解しにくいが、国同士の同盟関係を把握することで幾分わかりやすくなる印象を持っている。 後秦・南燕・譙蜀(後蜀)アライアンス VS 劉裕楚を名乗って東晋から禅譲を受けた桓玄だったが、劉裕によって建康の主導権を失った。その後桓玄は西に向かって再起を図った。やがて桓玄は殺されたのだが、荊州における桓氏の抵抗は続いた。この背景として、桓氏が荊州の西府軍を代々掌握していたことは重要である。東晋から蜀に向けて荊州の桓氏討伐の命があったが... -
西暦493年以後 その2 北魏で何が起こったのか
西暦493年(南朝斉の永明十一年・北魏の太和十七年)以後しばらく、南北両朝で重大な出来事が集中して起こっているにもかかわらず、あまり注目されていないようだ。北魏での動きを追ってみた。ある程度割愛したものの資治通鑑をベースにした長文である。月は旧暦、年齢は数え年とした。 493年1月、南朝宋から亡命した劉昶は、泣きながら雪辱戦を乞うた。拓跋宏(孝文帝、高祖)は南伐について公卿と会議した。 2月、拓跋宏は平城の南で藉田を耕した。藉田とは中華において行われた皇帝による農耕儀式であるが、北... -
西暦493年以後 その1 南朝斉で何が起こったのか
西暦493年(南朝斉の永明十一年・北魏の太和十七年)以後しばらく、南北両朝で重大な出来事が集中して起こっているにもかかわらず、あまり注目されていないようだ。南朝斉での動きを追ってみた。一部は割愛したものの資治通鑑をベースにした長文である。月は旧暦、年齢は数え年とした。 493年1月、皇太子の蕭長懋(斉武帝蕭賾の長男で蕭道成の孫)が死んだ、享年36。蕭長懋は調和のとれた人柄で、遊興を好んだ晩年の蕭賾に代わって一部の決裁を代行していた。一方で、蕭長懋は贅沢好きであったため、太子死後に訪... -
魏晋南北朝史の文献を巡る現状
・正史全訳まずは正史全訳の通読が基本になる。中国正史の訳出状況について、国立国会図書館でまとめられている。https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/asia/post_73 史記、漢書、三国志については、価格や入手難易度などから筑摩のものが標準的なテキストになっている。後漢書について、岩波と汲古書院のものとどちらを優先すべきか悩ましい。最近出版されている早稲田文庫のシリーズで全訳が揃うかどうかに注目している。史記、漢書、後漢書、三国志以外の正史全訳は無い。つまり、魏晋南北朝に関わる正史は、ほと... -
魏晋南北朝では、封禅が行われていない
封禅(ほうぜん)とは、中国の帝王が政治上の成功を天地に報告する国家的な祭典である。泰山(山東省泰安市にある標高1,545mの山)の山上に祭壇を作り、天に対してまつりを行う「封」、泰山の麓にある小山を払い清め、地に対してまつりを行う「禅」、この二つの祭祀を組み合わせることで封禅が成立する。伝説上は三皇五帝以来とされるが、史実だと趙政(秦の始皇帝)によって行われたものが最初である。彼の事績からすると、封禅に不死を祈願する性質があったことにも注目すべきであろう。 趙政の創始した仕組みの... -
皇帝という称号が決まるまで
史記によると、秦王の趙政が中華を統一した際に、それまでの「王」や、かつて用いられた上位称号「帝」に飽き足らず、新たな称号を志望した。群臣は三皇(※)のうち「泰皇」が最上位であるとして薦めたが、趙政はそれを却下し、新たに「皇帝」の称号を作った。 ※三皇の内訳について史記の秦始皇本紀において、天皇・地皇・泰皇としている。泰皇の代わりに人皇を入れることもあるが、この両者を同一視していいか未確定である。別に女媧・伏羲・神農を三皇とする説が有名で、他にも諸説ある。 疑問点は泰皇を三皇の... -
西晋で見られた難民の連鎖
飢饉・斉万年の乱により、中華西部で難民発生東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)や曹魏は、少数民族を関西(函谷関より西側のエリア)に移住させる徙民政策を採っていた。彼らは差別的な対応を受け生活も貧しかった。西晋は司馬衷の頃、関西で飢饉が発生しており、不満を抱いた異民族は氐族の斉万年を推戴し晋への反乱を起こした。これが斉万年の乱である。乱自体は299年に孟観の手で鎮圧されたものの、関西の困窮から、多くの者が食糧を求める難民となった。 四川に南下した難民が、現地での摩擦により... -
二人の文鴦 文俶と段文鴦
魏晋南北朝には文鴦と呼ばれる武将が二人居る。曹魏・孫呉・西晋で活躍した文俶と、五胡十六国初期に鮮卑段部で活躍した段文鴦である。ともに当時では最高峰の勇将として知られていた。 文俶姓は文、名は俶、字は次騫。文鴦として有名だが、鴦は彼の幼名である。父の文欽が毋丘倹と共に司馬師に反旗を翻した時、数え18歳にして軍中随一の勇将として知られるほどであった。幼名が流布したのも年少時からの武名ゆえかもしれない。 鄧艾は自身で文欽を誘い出したのち、司馬師の本隊とぶつける作戦を実行した。司馬師...