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姚弋仲 その2 その子供たち
後趙で相次いだ皇太子の反逆に対して、姚弋仲が石虎に呈した厳しい直言をその1で取り上げた。では、姚弋仲自身の子育てはどうだったのか。子供たちの生き様を振り返ってみる。 姚襄姚弋仲の第5子。立派な体躯と文武両道により、誰もが姚弋仲の後継者として認める存在だったが、姚弋仲はなかなか承知しなかった。冉閔が後趙に反逆したとき、姚襄に石祇を救援させたが、その際「お前の才能は冉閔の十倍だ、首を取るか捕獲するまでは戻ってくるな」と言った。姚襄が冉閔に大勝して帰ってきたが、姚弋仲は身柄を確保で... -
姚弋仲 その1 石虎への直言
石虎への直言五胡十六国時代において後秦の基礎を築いた姚弋仲、彼に関して大好きなエピソードがある。梁犢が反乱を起こし、その勢いを恐れた後趙の石虎は、首都の鄴に姚弋仲を招集した。石虎は重病で面会できなかったので、飲食を与えて労おうとした。それに対して姚弋仲は怒り、「私は賊を討つために来たのであって、食事をねだりに来たのではない、主上の容態がわからない、一目でも会わせてもらえるなら死んでも恨まない」と言った。左右の者は姚弋仲を石虎に引見させた。そこで姚弋仲は石虎に言った、「子供... -
前燕征服時に見られた前秦崩壊の兆し
郝晷と梁琛前燕からの使者として、郝晷と梁琛が相次いで前秦に行った。郝晷は燕を見限ってその内情を詳しく話したが、梁琛は慕容評と慕容垂が偉いと当時の共通認識を述べただけで、自国のウィークポイントを決して洩らさなかった。燕帰国後の梁琛は、苻堅と王猛が人傑であることを主張し、秦による侵攻の可能性を警告したが、朝廷から疎まれ、逆に投獄されてしまった。燕滅亡後に梁琛と対面した苻堅は、「燕国の危機の兆しを見極めず、燕国の善良さを偽って主張し、忠誠心が身を守るどころか、かえって災いを招い... -
巴と蜀 重慶と成都
四川(*)の地のことをしばしば巴蜀という。春秋戦国の頃、四川の地に巴の国と蜀の国があったことに由来する。蜀が成都を中心とするエリアなのは三国志などで比較的理解しやすいが、では巴とは何なのかと言われると少し考え込むかもしれない。巴とは重慶を中心とするエリアを指す。現在でも重慶と成都は四川を代表する二大都市として知られる。成都は四川省の省都であるし、重慶は中央政府による直轄市(他に北京・上海・天津 人口は重慶が最多だが面積も圧倒的に広い)である。 *ちなみに四川とは長江支流の4... -
京兆韋氏 南北両朝で最高峰の武将を輩出した名家
京兆韋氏とは、京兆郡杜陵県(現在の陝西省西安市)を本貫地とする氏族である。西漢(前漢)の丞相(非常設の宰相職)を輩出するなど、名門として古くから知られていたが、南北朝時代ではそれ以上に存在感のある名将を2人輩出した。韋叡と韋考寛である。そして、韋叡が南朝所属であるのに対し、韋考寛は北朝と、南北両朝で存在感を示した点も興味深い。 韋叡京兆を本貫地とする韋叡が南朝に属した理由は、劉裕が北伐で長安(京兆郡に属する)を奪取したことにある。劉裕は建康に帰還した隙を突かれて赫連勃勃に長... -
魏晋南北朝の名包囲 その3 拓跋珪 柴壁の戦い
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。3回目は北魏の拓跋珪による柴壁の戦いを取り上げる。北魏と後秦の盛衰を分けた戦いとして有名だが、合戦の詳細を調べると非常に面白い。 西暦402年5月、後秦の姚興は北魏の河東エリアに攻撃を仕掛けた。局地戦になることを想定したのか、姚緒・姚碩徳といった歴戦の叔父達や自身は出馬せず、弟の姚平に兵4... -
魏晋南北朝の名包囲 その2 陸抗 西陵の戦い(歩闡の乱)
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。2回目は陸抗による西陵の戦いを取り上げる。三国志を代表する見事な包囲戦なのだが、三国時代の後期ということもあり、今一つマイナーな感は否めない。 呉の皇帝孫晧は、西陵(かつての夷陵を改名 現在の湖北省宜昌市)に駐屯する歩闡を都へ召還しようとした。残念ながら暴君とされた孫晧の為人・実績の... -
魏晋南北朝の名包囲 その1 司馬昭 諸葛誕の乱
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。1回目は司馬昭による諸葛誕の乱を取り上げる。司馬氏に対する淮南三叛の3番目という政治的な意味合いから評価されることが多いけれども、内容的に非常に面白い戦いで、司馬昭は将帥として凄まじいと実感できる名包囲である。 都督として揚州の軍権を掌握していた諸葛誕は、司馬氏でなく曹氏への忠誠を明確... -
南朝創業紀 その4 陳覇先の陳
陳覇先は、潁川陳氏(現在の河南省許昌市を本貫地とする名門、陳寔・陳紀・陳羣・陳泰などを輩出)の末裔を自称したが、劉裕・蕭道成・蕭衍と違って寒門(中下級官僚や将軍を輩出した家柄)ですらない、土豪の出身であった。 地方の小役人・建康の油倉庫番からキャリアをスタートした陳覇先だが、その能力を認められ、最終的に広州(現在の広東省付近)の軍権を掌握した。交州(現在のベトナム北部)土着の李賁が挙兵したが、陳覇先はこれを討ち、梁南部において威望を高めた。 侯景の乱が起こった時、陳覇先は周... -
南朝創業紀 その3 蕭衍の梁
蕭衍の父である蕭順之は、南朝斉を創建した高帝蕭道成の族弟(一族の年少者)であった。蕭道成・蕭順之をさかのぼると、共通の祖先として高祖父(祖父の祖父、4世代前)の蕭整で結びつくとのことである。 蕭道成の孫である蕭子良は、南朝斉を代表する文人であり、儒学・老荘・仏教の全てに通じていた。蕭衍は蕭子良サロンの著名人「竟陵八友」に名を連ね、文化的中心を担った。 時代は下って、その後暴君とされる皇帝蕭宝巻(東昏侯)が、蕭衍の兄である蕭懿を殺した。これにより決起した蕭衍は蕭宝巻を殺害し、代...