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南朝創業紀 その2 蕭道成の斉
蕭道成は西漢(前漢)の名臣である蕭何の末裔を自称していたが、寒門としてのキャリアを辿っている。 蕭道成に出世への道を開いた要素は2つある、一つは北魏相手の武勲である。竟陵(旧江夏郡 現在の湖北省中部)で北魏を攻撃して勝利、襄陽防衛と樊城攻撃で成果、関中(現在の陝西省)への侵攻など、蕭道成は北魏相手に見事な戦績を誇った。劉義隆(劉宋の文帝)による北伐への反攻として、西暦450年に拓跋燾(北魏の太武帝)が親征し、淮水周囲で簫道成と衝突した。蕭道成といえど流石に拓跋燾相手では不利な戦... -
南朝創業紀 その1 劉裕の宋
劉裕の出自に関する記載は魏書(北朝の正史)と宋書(南朝の正史)で異なる。少なくとも名門の生まれではなかった。東晋を揺るがした孫恩の乱(五斗米道という道教勢力を中心に起こった乱)において、東晋の二大軍事組織の一方、北府軍を率いる劉牢之の部下として反乱軍に対して大暴れし、武名を轟かせた劉裕は将軍として名を連ね大いに出世した。 その後、二大軍事組織のもう一方、西府軍を統括する桓玄(桓温の息子)が政権を主導するようになった。上司の劉牢之は当初桓玄に付いたが、やがて後悔するようになり... -
夏侯惇はなぜ重用されたか
三国志演義から正史に入ると、多くの人が両者に横たわる夏侯惇像の差に注目する。三国志演義では曹操陣営を代表する猛将であるのに対し、正史だととてもそうは思えないのだ。兗州を奪おうとした呂布に抵抗を試みたものの捕虜となる、呂布陣営から攻撃を受ける劉備を救援しようとして高順に敗北、劉表傘下時代の劉備に博望坡(現在の河南省南陽市)で敗北と、夏侯惇の軍功は今一つパッとしない。しかしながら、曹操は不動のNo.2というかほぼ同格の存在として夏侯惇を遇し、曹丕も武官の頂点である大将軍という地位... -
侯景 南北朝時代を彩ったトリックスター
侯景の出身は定かでない。北魏において爾朱栄の部下として頭角を現し、その後は高歓の下で重んじられた。しかしながら、高歓は自分の死後に侯景が息子らに従わないことを予想し、警戒していた。高歓死後、長男の高澄と対立した侯景は南朝梁と結ぼうとした。戦上手で知られる侯景の謀反は大変な脅威であったが、高歓が対侯景の切り札として用意していた名将慕容紹宗の参戦により、侯景は敗れた。 侯景は梁を頼ろうとしたが、おりしも梁の皇族が東魏の捕虜となっており、身柄交換の対象となる可能性があった。身の危... -
荀彧と周瑜は名士から見た行動規範の先駆けとなった
荀彧と周瑜、両者が三国志の行く末を大きく左右したキーマンであったことに議論の余地はない。そして実はこの2人、以後の名士にも引き継がれた、ある共通点がある。 荀彧の動き荀彧の出身氏族たる潁川荀氏は歴史的大儒である荀子の末裔とされ、東漢(後漢:五代十国のものと区別するため)においても叔父の荀爽が司空として三公(人臣の頂点とされる3つの公職、東漢では太尉・司徒・司空)に名を連ねるなど、清流派(当時の東漢における宦官の跋扈・汚職の横行を濁流であると批判した儒家勢力、党錮の禁での弾圧... -
羊献容への態度で、八王の乱における諸勢力を二分割できる
羊献容は賈南風に続く司馬衷の皇后として司馬倫・孫秀によって立てられた。母方の孫氏は孫秀の親戚にあたるが、三国呉の皇族とは無関係で、徐州琅邪郡をルーツとした寒族と考えられている。父方の泰山羊氏は、司馬師の妻や羊祜などを輩出した晋を代表する名家である。 その後、司馬倫が皇帝になると、羊献容は必然的に廃后させられた。司馬冏・司馬穎・司馬顒の三王が決起し、司馬倫が倒された。司馬衷が皇帝に復位したため、羊献容も皇后に戻った。しかし、羊献容の母方孫氏の一族は誅殺された。その後、朝廷の主... -
五胡十六国ドリームマッチ その5 慕容垂 VS 拓跋珪
慕容垂の紹介前半生はその4でやった。前燕で居場所がなくなったので前秦に亡命した。苻堅に重用された慕容垂だが、前秦が淝水で敗北して崩壊すると苻堅を長安に護送したのちに関東(函谷関より東側)で自立した。苻丕の占拠する鄴の攻略には手間取ったものの、やがて慕容垂の後燕は関東を代表する勢力としての地位を確立していった。 拓跋珪の紹介拓跋珪は鮮卑拓跋部の国家である代の王族だったが、代は前秦・匈奴鉄弗部により滅ぼされた。しばらく匈奴独狐部の劉庫仁に庇護されていたが、部族長が息子の劉顕に代... -
五胡十六国ドリームマッチ その4 慕容垂 VS 桓温
慕容垂の紹介慕容垂は前燕の初代王慕容皝の5男で、当初慕容覇と名乗っていたが、落馬して歯が折れたことから慕容缺、その後慕容垂に改名させられた(改名させたのは兄慕容儁、かつて慕容垂は前燕の太子候補であり、慕容儁との確執があった)。高句麗・宇文部・冉魏など各戦線に従軍したあと、前燕の洛陽奪取にも貢献した。五胡十六国を代表する名将・名宰相の慕容恪が軍務・政務ともに自分の10倍の才を持つと評価した慕容垂だったが、慕容儁とその子慕容暐からは冷遇され、慕容恪死後に前燕での居場所を失いつつあっ... -
五胡十六国ドリームマッチ その3 冉閔 VS 慕容恪
冉閔の紹介冉閔の父は漢民族出身だったが、後趙でその武勇を買われ石虎の養子となった(羯族石氏は優れた能力を持つ者を同族に迎える風習があったようなのだ)。当初の冉閔の名は石閔であったが、父と同様武勇に優れ、石虎に愛された。冉閔の必殺技として史書に記されているのが、馬に騎乗したまま右手に矛、左手に戟を持ち、風のように駆け抜けながら敵を斬り倒していくというもの。片手で敵を屠る膂力、下半身だけで騎乗し続ける脚力・平衡感覚・操馬スキル、全てが人間離れしている。漢族でありながら胡族顔負... -
五胡十六国ドリームマッチ その2 石勒 VS 祖逖
石勒の紹介はその1でやったので省略。奴隷から身を立てて、五胡十六国序盤に華北をほぼ掌握した大英雄。 祖逖の紹介祖逖は幽州范陽郡の名族出身で、最初は書物を軽視して武侠に勤しむなど将来を危惧されたが、その後は学問に精励し、中央政界でも期待の若手として将来を嘱望された。しかしながら、西晋は混乱期を迎え祖逖が活躍するための舞台を用意できなかった。祖逖は江南の可能性をいち早く見出し、司馬睿の下に属した。覇気盛んな祖逖は、晋としての本領を取り戻すべく北伐軍を起こすよう申請したが、東晋と...