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賈詡に失策はあったのか
結論から先に述べると、賈詡に失策は無かった。 賈詡は董卓・李傕・段煨・張繍に仕えた後、曹操・曹丕の2代にわたり魏の重臣として活躍した。 李傕による長安奪取、曹操が九死に一生を得た修羅場である宛城の戦い、張繍が袁紹でなく曹操に帰順したこと、官渡の戦いにおける烏巣襲撃、潼関の戦いにおける馬超と韓遂との離間、いずれも賈詡の献策に基づいており、その策謀スキルは群を抜いていた。また、嫡子の曹丕を太子に薦め、私党を作らず生涯を全うするなど、保身や処世の観点からも常に適切な動きをしていた。... -
劉禅を強引に再評価する
劉禅は、三国志だけでなく中国史全体で見ても暗君を代表する存在として、一般に理解されている。しかしながら、史実を詳細に吟味すると、劉禅について別の可能性を感じるようになってくる。ここに劉禅の再評価を試みる。無理矢理感は否めないが、司馬衷といい逆張りが好きなので仕方ない。 諸葛亮は、蜀漢の臣下で最も皇位を脅かしかねない存在であった。実際に、劉備から国を取ってもよいと遺言されたり、李厳から九錫(皇帝と同格の待遇を意味する9つの特典、皇帝即位の前段階)を勧められたりしている。劉禅は... -
クマーラジーヴァ 五胡十六国で中国仏教の基礎を築いた名僧
クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)、高校世界史で名前は知っていたが、具体的な事績を知ったのは五胡十六国を深掘りするようになってからである。 クマーラジーヴァの生年は確定していないが、4世紀中頃にクチャ(亀茲、シルクロードの一つ天山南路上のオアシス都市、タリム盆地北側にあり、現在は新疆ウイグル自治区)で生まれた。父はインド人高僧で、母は亀茲皇族だった。7歳で出家し、その後カシミール(現在はインド・パキスタン・中国の国境付近で係争地)など西域各地を遊学したが、基本的に当時のシルクロー... -
苻堅の民族融和は本当か
五胡十六国の中盤で華北を統一し、中華統一に最も近づいた苻堅。彼は民族融和を推進し、汎中華的な政権を目指した聖人君主とされる。しかしながら、実際には苻堅が他民族を必要以上に優遇した事実はなく、あくまで出身民族の氐に基盤を置いた政権だった。 苻堅の優遇は、慕容垂・姚萇など個人に対するものにとどまり、鮮卑慕容部や羌族全体に及ぶものではなかった。前燕皇族の慕容永は、前燕滅亡後に長安に移動させられたが、その生活は非常に貧しかった。姚襄の重臣であった羌族の斂岐は、前秦で官職を受けられず... -
曹操による徐州虐殺の影響と謎
徐州虐殺の影響①:徐州統治の難化 曹操が徐州で行った住民虐殺行為は、以後の徐州支配を難しくした。 昌豨は度々曹操に背いた人物として知られているが、根拠地は徐州東海郡である。徐州住民の曹操に対する嫌悪感は相当のものであったのだろう。また、昌豨の反乱については劉備に呼応したものがある。劉備は徐州で善政を敷いており、再来を待望する民意があったとしても不思議はない。曹操自身も、劉備の大器ぶりを誰よりも評価していた。曹操がなぜ昌豨に厳罰を下さなかったか、その心の内はある程度察せられる。... -
鮮卑の通婚関係 その3 武川鎮軍閥編
鮮卑の通婚関係を掘るシリーズ、最後は武川鎮軍閥。 ・宇文泰(北周文帝) 正妻は元氏=拓跋氏、北魏の皇族で孝武帝の妹。宇文覚を産んでいる。妻に姚氏(おそらく後秦の皇族)がおり、宇文毓を産んでいる。妻に叱奴氏がおり、宇文邕を産んでいる。叱奴氏については、赫連夏の武将に叱奴侯提の名があり、北魏を裏切って庾岳に討伐された纥奚部(高車とされるが鮮卑とも)の長が叱奴根、西魏の将に叱奴興の名がある。北方異民族なのは間違いない。 西魏の文帝に嫁いだ娘が居る。匈奴系の竇氏に嫁いだ娘がおり、さら... -
鮮卑の通婚関係 その2 拓跋部編
鮮卑の通婚関係を掘るシリーズ、慕容部に続いて拓跋部だが、あまりにも言及しなければならないことが多すぎてまとめられる気がしない。 ・そもそも拓跋部は鮮卑なのか これまで鮮卑として理解されていた拓跋部だが、近年では匈奴とみなす説も出ている。拓跋部との通婚関係で重要な賀蘭部、中華北東部で鮮卑慕容部と鎬を削った宇文部についても同様の議論がある。鮮卑はもともと匈奴から分枝しており、民族というより様々な起源を持つ部族の連合と解釈した方が良いのかもしれない。 ・拓跋珪(道武帝)をめぐる部族... -
鮮卑の通婚関係 その1 慕容部編
鮮卑の通婚関係を掘るとなかなか面白いので記事にしてみた。まずは慕容部について。 ・あまりにも深い段氏との繋がり 前燕の基礎を築き上げた慕容廆、前燕の初代王慕容皝、その正妻は段氏である。慕容部と死闘を繰り広げた鮮卑段部であったと思われる。前燕の初代皇帝慕容儁の正妻は可足渾氏であるが、段氏も妻として迎えている。その後も、慕容儁の弟で後燕の初代皇帝慕容垂、その息子で後燕の2代皇帝慕容宝、慕容垂の弟で南燕の初代皇帝慕容徳、と段氏の正妻を持つ者が多くみられる。慕容徳の甥で南燕の2代皇帝... -
慕容恪 胡漢融合を一人で体現した名将かつ名宰相
五胡十六国、南北朝から隋唐に至るまで、キーワードは胡漢融合である。つまり、胡人の武力・習俗と漢人の生産力・統治機構をどう結び付けるか、そのトライアンドエラーの歴史であった。前趙の石勒と張賓、前秦の苻堅と王猛、北魏の拓跋燾(太武帝)と崔浩など、華北の大国には胡人君主と漢人宰相の組み合わせがしばしば出現しており、胡漢のバランシングがいかに国家の命運を左右したかを窺い知ることができる。そんな中、一人で胡漢融合を体現した英雄が居り、それが胡人の父と漢人の母を持つハーフ、前燕の慕容... -
司馬衷を強引に再評価する
前回の投稿で、賈南風について強引に再評価を行った。続いて司馬衷を擁護してみたい。 賈南風は苛烈な性情を持つものの、最終的には司馬衷自身の判断を尊重する妻であった。帝位を得るに相応しいか司馬炎が課した試験を彼女のおかげでクリアできた(晋書の記載だが事実性に疑義あり)。そんな賈南風に対し、司馬衷は政権運営上の信頼と自由を一貫して与え続けた。 賈南風を失った後、司馬衷が味方した王は司馬乂と司馬越である。司馬乂は八王の乱において数少ない良識的な行動をとったプレーヤーで、朝政の第一人...