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鮮卑の通婚関係 その2 拓跋部編
鮮卑の通婚関係を掘るシリーズ、慕容部に続いて拓跋部だが、あまりにも言及しなければならないことが多すぎてまとめられる気がしない。 ・そもそも拓跋部は鮮卑なのか これまで鮮卑として理解されていた拓跋部だが、近年では匈奴とみなす説も出ている。拓跋部との通婚関係で重要な賀蘭部、中華北東部で鮮卑慕容部と鎬を削った宇文部についても同様の議論がある。鮮卑はもともと匈奴から分枝しており、民族というより様々な起源を持つ部族の連合と解釈した方が良いのかもしれない。 ・拓跋珪(道武帝)をめぐる部族... -
鮮卑の通婚関係 その1 慕容部編
鮮卑の通婚関係を掘るとなかなか面白いので記事にしてみた。まずは慕容部について。 ・あまりにも深い段氏との繋がり 前燕の基礎を築き上げた慕容廆、前燕の初代王慕容皝、その正妻は段氏である。慕容部と死闘を繰り広げた鮮卑段部であったと思われる。前燕の初代皇帝慕容儁の正妻は可足渾氏であるが、段氏も妻として迎えている。その後も、慕容儁の弟で後燕の初代皇帝慕容垂、その息子で後燕の2代皇帝慕容宝、慕容垂の弟で南燕の初代皇帝慕容徳、と段氏の正妻を持つ者が多くみられる。慕容徳の甥で南燕の2代皇帝... -
慕容恪 胡漢融合を一人で体現した名将かつ名宰相
五胡十六国、南北朝から隋唐に至るまで、キーワードは胡漢融合である。つまり、胡人の武力・習俗と漢人の生産力・統治機構をどう結び付けるか、そのトライアンドエラーの歴史であった。前趙の石勒と張賓、前秦の苻堅と王猛、北魏の拓跋燾(太武帝)と崔浩など、華北の大国には胡人君主と漢人宰相の組み合わせがしばしば出現しており、胡漢のバランシングがいかに国家の命運を左右したかを窺い知ることができる。そんな中、一人で胡漢融合を体現した英雄が居り、それが胡人の父と漢人の母を持つハーフ、前燕の慕容... -
司馬衷を強引に再評価する
前回の投稿で、賈南風について強引に再評価を行った。続いて司馬衷を擁護してみたい。 賈南風は苛烈な性情を持つものの、最終的には司馬衷自身の判断を尊重する妻であった。帝位を得るに相応しいか司馬炎が課した試験を彼女のおかげでクリアできた(晋書の記載だが事実性に疑義あり)。そんな賈南風に対し、司馬衷は政権運営上の信頼と自由を一貫して与え続けた。 賈南風を失った後、司馬衷が味方した王は司馬乂と司馬越である。司馬乂は八王の乱において数少ない良識的な行動をとったプレーヤーで、朝政の第一人... -
賈南風を強引に再評価する
賈南風は西晋の2代皇帝、司馬衷の皇后である。権力闘争に多くの重臣・宗族を巻き込み、八王の乱の引き金となったド悪女として有名である。西晋滅亡の主因として挙げられることの多い人物であり、その事自体に異論を挟むのは難しいが、現在に至るまでの悪評は誇張されすぎのようにも思われる。 賈南風の立場は非常に脆いものであった。父の賈充に男子は居らず、親戚から養孫として賈謐を迎える異例の処置で辛うじて家を存続させていた。外戚として頼りになる親族は期待できず、遠戚らしき賈模を重用せざるを得ない... -
河東の重要性 塩の産地であり交通の要衝
渭水合流前に南北に流れている黄河、現在は山西省と陝西省の境界になっている。そこに北東方向から合流するのが太原盆地を流れる黄河支流、汾水である。そして、汾水と黄河に囲まれたエリアが河東エリア(現在の山西省運城市)である。 伝説上の天子の舜は河東エリアの蒲阪に都をおいていたとされる。また、禹が王となり夏王朝を建てたとされる都市が安邑である。その後も安邑は戦国魏の都として栄えた。安邑は北魏による分割後に北部を夏県と改称されている。夏県は北宋の政治家にして資治通鑑の編纂で有名な司馬... -
劉備は袁紹の天下に半生を捧げている
それまで盧植門下の兄弟子公孫瓚の下で働いていた劉備だが、陶謙死後の徐州牧就任を機に、公孫瓚の宿敵、袁紹に臣従した。前回の投稿で師匠の盧植が袁紹の軍師であったことを理由として述べたが、陶謙と袁術の同盟決裂についても触れておきたい。 袁紹が周姓の誰か(史料によって記載が定まらない)を用いて袁術の軍事部門に相当する孫堅を攻撃してから、反董卓連盟(*)は瓦解し、群雄達の関心はポスト董卓の中華指導者となった。 *一般的には、反董卓連合と呼ばれているが、袁紹のポストが盟主である以上、連... -
盧植が劉備に与えたもの
盧植=劉備の師、というイメージで語られることが多く、注目されることは少ない。しかしながら、盧植に師事していたからこそ劉備は世に出られたといっても過言ではない。盧植を師に持ったことによる影響は計り知れないのだ。これから主要なものを挙げていきたい。 与えたものその1 教養 盧植は東漢(後漢:五代のものと区別するため)の大儒である馬融に学び、兄弟弟子である鄭玄に次ぐレベルの、当時最高峰の大儒であった。劉備は学問にことさら熱心とは言えなかったようだが、そんな中でも彼から受けた教えが、... -
公孫瓚はかつて、中華における最大勢力であった
公孫瓚は過小評価されている。世間一般の公孫瓚に対するイメージは、袁紹に一方的に押し込まれて、救援勢力の見込めない籠城策をとって、当たり前のように最期を迎えたというもの。だがこれは、袁紹と公孫瓚の戦役におけるごく一部分を切り取ったものに過ぎない。 序論:曹操「袁紹さえ倒せば、あとは何とかなる」 曹操にとっての官渡は、孫権にとっての赤壁同様、国力差の大きな非対称の戦争であった。袁紹は官渡で敗れても次の機会を幾らでも見込める一方、曹操が負ければ衰亡一直線だった。袁家の敗因は、官渡... -
八王の乱と呼ばれているが、重要なのは八人の王じゃない
以下に概要を示す。いちおう八王とされる者たちに番号を付すが、重要でないプレーヤーが含まれる。一方で、乱の行方を左右した王でない者達が居る。 第一段階 賈南風政権 ・皇后の賈南風が皇太后一族の楊氏を排除した上で、汝南王司馬亮①・衛瓘を政権に参画させた ・楚王司馬瑋②は司馬亮・衛瓘を殺し、直後に賈南風が司馬瑋を殺した(権力闘争に明け暮れた賈南風だったが、賢臣の張華・裴頠などを任用し国政は安定していた) 第二段階 諸王による朝政の壟断(首都洛陽の求心力はある程度維持) ・続いて賈南風は...