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賈南風を強引に再評価する
賈南風は西晋の2代皇帝、司馬衷の皇后である。権力闘争に多くの重臣・宗族を巻き込み、八王の乱の引き金となったド悪女として有名である。西晋滅亡の主因として挙げられることの多い人物であり、その事自体に異論を挟むのは難しいが、現在に至るまでの悪評は誇張されすぎのようにも思われる。 賈南風の立場は非常に脆いものであった。父の賈充に男子は居らず、親戚から養孫として賈謐を迎える異例の処置で辛うじて家を存続させていた。外戚として頼りになる親族は期待できず、遠戚らしき賈模を重用せざるを得ない... -
河東の重要性 塩の産地であり交通の要衝
渭水合流前に南北に流れている黄河、現在は山西省と陝西省の境界になっている。そこに北東方向から合流するのが太原盆地を流れる黄河支流、汾水である。そして、汾水と黄河に囲まれたエリアが河東エリア(現在の山西省運城市)である。 伝説上の天子の舜は河東エリアの蒲阪に都をおいていたとされる。また、禹が王となり夏王朝を建てたとされる都市が安邑である。その後も安邑は戦国魏の都として栄えた。安邑は北魏による分割後に北部を夏県と改称されている。夏県は北宋の政治家にして資治通鑑の編纂で有名な司馬... -
劉備は袁紹の天下に半生を捧げている
それまで盧植門下の兄弟子公孫瓚の下で働いていた劉備だが、陶謙死後の徐州牧就任を機に、公孫瓚の宿敵、袁紹に臣従した。前回の投稿で師匠の盧植が袁紹の軍師であったことを理由として述べたが、陶謙と袁術の同盟決裂についても触れておきたい。 袁紹が周姓の誰か(史料によって記載が定まらない)を用いて袁術の軍事部門に相当する孫堅を攻撃してから、反董卓連盟(*)は瓦解し、群雄達の関心はポスト董卓の中華指導者となった。 *一般的には、反董卓連合と呼ばれているが、袁紹のポストが盟主である以上、連... -
盧植が劉備に与えたもの
盧植=劉備の師、というイメージで語られることが多く、注目されることは少ない。しかしながら、盧植に師事していたからこそ劉備は世に出られたといっても過言ではない。盧植を師に持ったことによる影響は計り知れないのだ。これから主要なものを挙げていきたい。 与えたものその1 教養 盧植は東漢(後漢:五代のものと区別するため)の大儒である馬融に学び、兄弟弟子である鄭玄に次ぐレベルの、当時最高峰の大儒であった。劉備は学問にことさら熱心とは言えなかったようだが、そんな中でも彼から受けた教えが、... -
公孫瓚はかつて、中華における最大勢力であった
公孫瓚は過小評価されている。世間一般の公孫瓚に対するイメージは、袁紹に一方的に押し込まれて、救援勢力の見込めない籠城策をとって、当たり前のように最期を迎えたというもの。だがこれは、袁紹と公孫瓚の戦役におけるごく一部分を切り取ったものに過ぎない。 序論:曹操「袁紹さえ倒せば、あとは何とかなる」 曹操にとっての官渡は、孫権にとっての赤壁同様、国力差の大きな非対称の戦争であった。袁紹は官渡で敗れても次の機会を幾らでも見込める一方、曹操が負ければ衰亡一直線だった。袁家の敗因は、官渡... -
八王の乱と呼ばれているが、重要なのは八人の王じゃない
以下に概要を示す。いちおう八王とされる者たちに番号を付すが、重要でないプレーヤーが含まれる。一方で、乱の行方を左右した王でない者達が居る。 第一段階 賈南風政権 ・皇后の賈南風が皇太后一族の楊氏を排除した上で、汝南王司馬亮①・衛瓘を政権に参画させた ・楚王司馬瑋②は司馬亮・衛瓘を殺し、直後に賈南風が司馬瑋を殺した(権力闘争に明け暮れた賈南風だったが、賢臣の張華・裴頠などを任用し国政は安定していた) 第二段階 諸王による朝政の壟断(首都洛陽の求心力はある程度維持) ・続いて賈南風は... -
江南の安全保障における荊州の役割
長江を跨いで江南の建業・建康を攻略するのは、大変な難事業である。歴史上でも、曹操・曹丕・曹休・司馬師・苻堅など攻略に失敗した英雄達を多数挙げられる。(唯一成功したのが宇宙大将軍こと侯景。何かとネタにされがちな人物だが、その突破力は本物。高歓ほどの英雄が危険視したのも納得である。)江南攻略の鉄板は、荊州方面から長江を攻め下るルートで、蜀の豊富な木材を造船に用いることができれば盤石となる。西晋も隋もこのルートからの攻略であった。 江南と荊州の関係を踏まえた上で注目しておきたい事... -
お人好し司馬昭が類を見ないほどの野心家扱いされている件
私が三国時代で最も好きな人物は司馬昭である。 後世では奸臣の代表格とされ、野心を秘めた謀略の気配があるたびに「司馬昭の心」とか持ち出されてしまう彼だが、史実を紐解けば時勢や周囲に振り回されたお人好しの姿が浮かび上がってくる。 父と兄が自分に無断でクーデターの計画を練っていた件 曹爽に対するクーデターである高平陵の変において、司馬懿と司馬師はかねてから計画を練っていたが、司馬昭は前夜まで知らされておらず、計画を知った司馬昭の落ち着かない様子を司馬懿が人を遣って観察した、と晋書で... -
西晋末以降の概要は長安と鄴の綱引きで説明できる
前回の投稿で、中華において最も豊かな中原(河南省付近)と最も軍事的に優れた北方について、そして両者の結節点である渭水盆地(関中、陝西省付近)と河北エリア(河北省付近)の優位性について説明した。渭水盆地を代表する都市が長安であり、河北エリアを代表する都市が鄴である。乱世において、この2都市は中原の象徴である洛陽を上回る存在感を示した。西晋末、五胡十六国、南北朝は混沌として敬遠されがちだが、長安と鄴をどの勢力が支配し、どちらが優勢かで概ね理解できる。 長安 鄴司馬... -
中国史のダイナミズムを理解する上で地理的背景は欠かせない
歴代中国王朝の首都として有名な洛陽と長安。併記されることも多いが、両者の有する機能は大きく異なった。端的に言えば、洛陽が商都であったのに対し、長安は軍都であったのだ。 中国史におけるダイナミズムの原点は、最も豊かな土地と最も軍事的に優れた土地が異なるということに尽きる。 最も豊かな土地とは、中原であった。中原とは、黄河中下流の南方に広がる平原で、現在の河南省付近を指す。中原は黄河文明の黎明地であった。黄河を利用した灌漑農業の余剰生産力により、生命維持に関わらない領域にリソー...