西暦493年以後 その1 南朝斉で何が起こったのか

西暦493年(南朝斉の永明十一年・北魏の太和十七年)以後しばらく、南北両朝で重大な出来事が集中して起こっているにもかかわらず、あまり注目されていないようだ。南朝斉での動きを追ってみた。一部は割愛したものの資治通鑑をベースにした長文である。月は旧暦、年齢は数え年とした。

493年
1月、皇太子の蕭長懋(斉武帝蕭賾の長男で蕭道成の孫)が死んだ、享年36。蕭長懋は調和のとれた人柄で、遊興を好んだ晩年の蕭賾に代わって一部の決裁を代行していた。一方で、蕭長懋は贅沢好きであったため、太子死後に訪れた東宮の豪華な服や器財を目の当たりにして蕭賾は激怒し、これを壊させた。蕭子良(蕭賾の次男で蕭長懋の同母弟、当時34歳)は蕭長懋と仲が良く、蕭長懋の状況を報告しなかった咎で蕭賾に責められた。
蕭長懋は平素から蕭鸞(蕭賾のいとこで蕭道成の兄蕭道生の子、後の明帝、当時42歳)を憎み、かつて蕭子良に言った「私は彼が気に入らない、その理由は理解されてないが、まさに福が薄いからなのだ。」それに対し、蕭子良は蕭鸞のための弁護を行った。蕭鸞が政権を掌握するに及んで、太子の子孫を遺さなかった。

4月、蕭昭業(蕭長懋の長男、後の鬱林王、当時21歳)を立てて皇太孫とした。蕭長懋の妃、王氏(名門の琅邪王氏)を皇太孫の太妃とし、蕭昭業の妃の何氏を皇太孫妃とした。

7月、北魏と戦う名目で蕭子良は兵を募り、王融(蕭子良と密接な関係を持つ竟陵八友の一人、琅邪王氏)を将軍として数百人を招集した。蕭賾は病気になったため、蕭子良に詔して軍防を司らせ、自身は殿中で医療を受けた。蕭子良は蕭衍・范雲等(ともに竟陵八友、蕭衍は後の梁武帝、蕭道成の遠戚蕭順之の子)を軍主として手元に置いた。蕭賾は朝廷の動揺を考慮して、病をおして楽団を招集し演奏会を開いた。蕭子良は日夜参内しており、蕭昭業は一日おいて参内した。
蕭賾の病は重く、危篤になった。蕭昭業はまだ来ない。王融は詔を矯めて蕭子良を次の皇帝に立てようとし、詔書の草案は既に完成した。
蕭衍は王融の謀が失敗すると予想し、冷めた眼で見ていた。范雲は王融の謀が憂国者ゆえであると主張した。それに対し蕭衍は、憂国者なら召公奭(西周初期の政治家、周王室を支え続けた)と豎刁(春秋斉の桓公に仕えた宦官、太子昭とは別に公子無詭を擁立した)、どちらを目指すべきかと反論し、范雲は答えなかった。
蕭昭業が到着したものの、王融はこれを通さなかった。すると蕭賾が小康状態となり、蕭昭業の居場所を問うた。こうして蕭昭業は入ることができた。蕭賾は朝事を蕭鸞に委ねた後に死んだ、享年53。
王融は諸門の封鎖を試みたが、蕭鸞は勅命を背景に強行突破を行った。蕭昭業を奉じ、蕭子良を退出させて殿中を掌握した。王融は自身の目論見が潰えたことを知ると、蕭子良のせいで道を誤ったと嘆いた。
蕭賾の遺詔では、蕭昭業を皇帝とし、蕭子良を輔政とした。蕭子良は全ての事項を蕭鸞と共に決済するよう言い添えられていたのだが、これは政務を厭う蕭子良の意向を反映したとされる。
蕭鸞は蕭道成から愛され、倹約質素であったため蕭賾もこれを重んじた。
蕭昭業は幼少時に蕭子良の妻によって養われ、蕭昭業と蕭子良は親密な関係だった。王融の謀以降、蕭昭業は蕭子良を深く恨んだ。蕭昭業は太極殿に出ると、蕭子良の居る中書省と太極殿の間を兵で封鎖し、蕭子良を軟禁した。

8月、蕭鸞は政務の要である尚書令に任じられた。一方の蕭子良は太傅に任じられた。蕭鸞は減税などの緩和政策を行い、大衆に支持された。
蕭昭業は弁舌が巧みで、容姿は麗しく、応対は良く、哀楽を人並み以上に表したため、蕭賾に愛された。
しかしながら、その表の姿には偽りがあった。彼は密かに富豪から金をせびったり、赴任先の役所で身分の知れない取り巻きたちと怪しいパーティーに耽ったりした。
教育役2人は、行状の乱れが蕭賾・蕭長懋にバレた場合、累が自分以外にも及ぶことを恐れ、相次いで自殺した。
蕭長懋の病・蕭長懋の死・蕭賾の病にあたって、蕭昭業は各段階で皇位が近づくことを祝っていた。
そんな蕭昭業の本性を死ぬまで蕭賾は気づかず、蕭昭業こそ大業に相応しいと考えた。5年の間は宰相に委ね、その後は他人に委ねないよう遺言した。
蕭昭業が即位して十数日後、王融を捕らえた。王融は蕭子良に助けを求めたが、介入が無いまま獄死した、享年27。

9月、蕭長懋の諡号を文皇帝とし、廟号を世宗とした。
蕭賾の出棺。蕭昭業は門で待機していたが、棺がその門を出ないうちに病と称して帰り、パーティーを開いた。

10月、蕭昭業は母の王氏を皇太后とし、妃の何氏を皇后とした。

494年
1月、隆昌と改元し、大赦を行った。
雍州刺史の蕭子懋(蕭賾の七男)は、皇帝が幼弱で時代が険しいことから密かに自立の計画を立て、工房で武器を作らせていた。
蕭子懋が陳顕達(襄陽に駐屯する征南大将軍)から兵を奪おうとしたので、陳顕達は蕭鸞に報告した。蕭鸞は陳顕達を車騎大将軍に昇進させ、蕭子懋を江州刺史に左遷した。
蕭子懋は諸侯王である自身の扱いが軽すぎることを嘆き、2-3千の兵を寄越すよう陳顕達に言ったが、陳顕達は詔勅に反することを理由に拒否した。
蕭鸞は皇帝の廃立を考え、蕭衍を引き込んで共謀した。荊州刺史の蕭子隆(蕭賾の八男)は温和な性格で文才があった。蕭鸞は蕭子隆が自身に従わないことを恐れて蕭衍に相談したところ、蕭子隆は名声だけで実力がなく、配下の有力者も顕職で靡くと助言した。この助言に従った蕭鸞は蕭子隆の取り込みに成功した。
蕭鸞は豫州刺史の崔慧景も疑ったが、蕭衍を派遣することで屈服させた。
蕭昭業は側近たちを厚遇し、彼らは欲望のまま放埓に振る舞った。更に彼らの一人を着飾らせると、代わりに玉座へ座らせて詔勅を書かせる有様であった。
蕭昭業は蕭賾の墓に詣でた後、取り巻き達と平民の服に着替えて、街中を遊びまわった。
蕭長懋の墓では、泥を投げたり、高跳びを競った。
諸々のはしたない遊戯に興じ、感極まって取り巻き達に金銭を大盤振る舞いするのであった。
蕭昭業は銭を見るたびに言った、「昔は君を欲しいと思っても全く手に入らなかった、今は手に入ったけどまだ使い切れていない。」倹約質素な蕭賾は大いに蓄財していたが、蕭昭業が即位して一年足らずで底を尽きようとしていた。
蕭昭業は皇后や妃たちと諸々の宝器を投げ合って壊しながら遊び、蕭長懋の妻(霍氏、のち徐氏に改姓)と通じるなどした。
政治むきのことは全て蕭鸞が決めた。蕭鸞はしばしば諫めたが、蕭昭業は従わなかった。蕭鸞が鬱陶しくなってきた蕭昭業はこれを除こうと考えるようになった。重臣に相談してみたが、宗族の長老かつ先帝の信任も篤かったことを理由に反対された。
それに対し、蕭鸞は蕭昭業に近い立場の蕭諶・蕭坦之(ともに蕭道成の直系ではない)を懐柔しつつ、蕭昭業の側近を誅殺し始めた。これにより蕭昭業は孤立していった。

4月、皇族の蕭曄(蕭道成の五男、衛将軍・開府儀同三司という要職にあった)が死んだ、享年28。
蕭子良が憂いのために死んだ、享年35。蕭昭業は蕭子良による政変を常々心配していたので、その死を大層喜んだ。

閏4月(※)、蕭鸞は開府儀同三司(自身の政庁を持てるようになった)となり、蕭昭文(蕭長懋の次男、後の海陵王、当時15歳)は揚州刺史となった。

※当時の中華は、月の満ち欠けに合わせて1ヶ月としていた。数年すると暦の月と季節が合わなくなるので、そこで閏月を使って1年13ヶ月とする年を設けて調整していた。

7月、蕭昭業は蕭鸞を誅殺するため皇后の親戚である何胤を誘ったが、何胤が諫めたため実行できなかった。
蕭鸞は政権の中枢を占める蕭諶・蕭坦之・王晏(琅邪王氏)を廃帝の試みに抱き込んだ。蕭昭業は蕭坦之に、彼らが自分を廃しようとしている噂があると訊ねて探りを入れたが、蕭坦之は断固として否定した。
ついに、蕭鸞は群臣と兵を率いて皇宮に乗り込み、蕭昭業の側近を殺しながら進軍してきた。蕭昭業は霍氏(=徐氏、前出)と性事の最中だった。蕭諶に防戦を命じたが、応じなかった。
徐氏の房に行き、剣で自殺を試みたが死ねなかった。結局、蕭昭業は蕭鸞側の兵により殺された、享年22。
蕭昭業は王の待遇で葬られ、徐氏らは誅殺された。
蕭昭文が15歳で皇帝に即位した。
蕭鸞は驃騎大將軍、錄尚書事、揚州刺史、宣城郡公となった。大赦し、延興と改元した。

8月、蕭鸞は自身に与した重臣たちを昇進させると共に、近親者を政権に参与させた。

9月、宗族の有力者・蕭鏘(蕭道成の七男)は廃帝の謀を知らなかった。蕭鸞が蕭鏘に対し恭しい態度をとったため、これを信用していたのだ。
謝粲は蕭鏘と蕭子隆(蕭賾の八男、前出)に対し共に皇宮へ入って、兵を起こして輔政するよう要請した。蕭鏘は兵力が蕭鸞に劣るため躊躇していた。この謀の報告を受けた蕭鸞は、先手を打って兵2千を蕭鏘の家に派遣し、これを殺した。また、蕭子隆・謝粲も殺した。蕭子隆は宗族の中で最も才能があり、蕭鸞はこれを最も恐れていた。
蕭鏘・蕭子隆の死を知った蕭子懋(蕭賾の七男、前出)は兵を起こそうとしたが、蕭鸞は部下に攻め殺させた。蕭子敬(蕭賾の五男)も蕭鸞の部下に攻め殺された。
他に蕭銳(蕭道成の15男、当時19歳)・蕭鏗(蕭道成の16男、当時18歳)・蕭銶(蕭道成の18男、当時16歳)といった諸王が殺された。
蕭昭秀(蕭長懋の三男、当時12歳)も殺されるところだったが、何昌寓の訴えにより助命された。
蕭子卿(蕭賾の三男)が蕭鏘に代わる司徒(人臣の頂点である三公の一つ)となり、蕭鑠(蕭道成の八男)が中軍将軍・開府儀同三司となった。

10月、厳戒態勢を解除。
蕭鸞は太傅(三公以上の名誉職)・大将軍(武官の頂点)・揚州牧(首都圏における刺史より上の長官)・都督中外諸軍事(全軍の指揮権を有する)となり、位も公から王に進んだ。
蕭鸞は皇帝への野望を明らかにするようになり、朝廷の名士たちと共に話し合いを行った。これを苦々しく思った謝朏は、弟の謝瀹に対し、人事から逃げるよう手紙した。
蕭鸞は次の5人の王を殺した、蕭鑠(蕭道成の八男、前出、当時25歳)・蕭鈞(蕭道成の十一男、当時22歳)・蕭鋒(蕭道成の十二男、当時20歳)・蕭子真(蕭賾の九男、当時19歳)・蕭子倫(蕭賾の十三男、当時16歳)。
蕭鑠が蕭鸞に会った際、蕭鸞の顔に恥じ入る様子があったことから、自分を殺すつもりであろうと周囲に語り、その夜殺された。
蕭鸞は才能ある甥の蕭遙光を愛でていた。蕭鋒は蕭鸞に対し、「あなたにとっての蕭遙光は、蕭道成にとってのあなたに相当するものでした」と言い、蕭鸞は色を失った。蕭鸞が諸王を殺すときは、常に夜中自宅を兵に襲わせていた。蕭鋒の場合は、あえて彼を祖廟に行かせてから、夜にその廟を兵で襲わせた。蕭鋒は車に登り、持ち前の腕力で近づいた兵を何人か倒したが、力及ばず殺された。
蕭子真はベッドの下に逃げたが引き出され、奴隷になるので命は助けてほしいと言ったが、許されず死んだ。
蕭子倫に対しては兵を用いず、蕭道成以来の旧臣である茹法亮に毒を持たせ、詔勅を添えて送った。蕭子倫は、宋の劉氏を滅ぼした自分たちがこうなるもの仕方ない、旧臣として自分たちに仕えてきた茹法亮が自分を殺すための使者となるのは、やむを得ない事情があるのだろう、と自ら毒をあおって死んだ。茹法亮や周囲の者は皆涙した。
蕭鸞は与党を各方面に派遣した。
蕭昭文は、皇帝であるにもかかわらず、その一挙手一投足に蕭鸞への諮問が必要だった。蒸し魚を所望したが、蕭鸞の命が無いと与えられなかった。皇太后の王氏(前出、蕭昭文は彼女の実子でない)は、蕭昭文が幼く蒙昧かつ病弱であることを理由にその廃位を宣言し、海陵王とした。
蕭鸞が皇帝に即位した。大赦し、建武に改元した。旧臣の虞悰や謝瀹は蕭鸞への抵抗を示した。

11月、蕭宝巻(蕭鸞の次男だが正室の子、のちの東昏侯)を皇太子とし、息子達を諸王として封じた。ただし息子達は弱小だったため、江南の守備は甥の蕭遙光(前出)に担当させ、荊州の守備には蕭遙欣(蕭遙光の弟)を当てた。
蕭鸞は、蕭昭文を病ということにして医師を派遣し、逆にこれを殺させた、享年15。

494年12月から495年3月、北魏の拓跋宏(孝文帝、のちに元宏と改名)は、南朝斉における皇帝の廃立を好機として南進を図った。30万を号する大軍で親征して寿春(安徽省淮南市)に入城したが、鍾離(安徽省滁州市)の斉軍を突破できず退いた。

495年2月、拓跋宏は斉の使者である崔慶遠と問答を行っている。慶遠が戦いの理由を問うたところ、
宏「もちろん理由はある。卿は私の言い分に言い返すか、私の言い分を飲んで曖昧な態度をとるか」
慶遠「まだその言い分を聞いていない、曖昧な態度をとるつもりはない」
宏「蕭鸞は何を根拠に廃立したのだ」
慶遠「昏君を廃して名君を立てた前例は数え切れない、何の疑問があるのか」
宏「蕭賾の子孫は今どこにいるのか」
慶遠「七人の王は悪を同じくし、管叔鮮や蔡叔度(ともに西周への反逆者)のように誅殺された、残りの二十余王は中央の高官や地方の長官をやっている」
宏「蕭鸞が先帝への忠義を忘れていないなら、なぜ近親を立てて、周公が成王を輔けたようにせず、自ら皇位を取ったのだ」
慶遠「成王は聖王に準じる徳があった、だから周公は宰相となった。先帝の近親者はみな成王に及ぶべくもない、故に立てるわけにはいかない。また、霍光(西漢の名宰相)が武帝の近親者を捨てて賢明な宣帝を立てた前例もある」
宏「霍光は蕭鸞と違って自ら立たなかったではないか」
慶遠「今回のケースと異なるからだ。主上(蕭鸞)はまさに宣帝に比すべき存在で、霍光に比すのは適切でない。それなら、武王が紂を伐ち、微子(紂の兄)を立ててこれを輔けなかったのも、天下を貪る行為と見做すのか」
宏は大笑いして言った「朕は蕭鸞の罪を問うためにここまで来たのだが、卿の説明を聞いて合点がいった」
慶遠「出来るようなら進み、難しいと分かったら退くのが聖人の戦だ」
宏「卿は北魏と和親したいか、したくないか」
慶遠「和親すれば二国で交歓し、民は幸福になるだろう。和親しなければ二国は交悪し、民は塗炭の苦しみを味わうことになる。和親をするかしないかは、国主であるあなたが決めることだ」
拓跋宏は崔慶遠に酒食と衣服を賜った。

495年6月、蕭鸞は次の6人の王を殺した、蕭諶(前出、蕭道成の遠戚)・蕭誄(蕭諶の弟)・蕭誕(蕭諶の兄 蕭衍により殺された)・蕭子明(蕭賾の十男、当時17歳)・蕭子罕(蕭賾の十一男、当時17歳)・蕭子貞(蕭賾の十四男、当時15歳)。
中でも蕭諶は強い権勢を誇り、呉興の沈文猷は彼を蕭道成に匹敵すると評した。その沈文猷も殺された。

497年1月、尚書令の王晏(前出)は蕭昭業の廃立などで蕭鸞に貢献した重臣だったが、蕭鸞を脅かすほどの権勢を誇り、増長していた。蕭鸞は、王晏が蕭毅(蕭道成の直系ではない)・劉明達と共に蕭鉉(蕭道成の十九男、当時19歳)の擁立を試みている、と詔した。王晏・蕭毅・劉明達は殺され、蕭鉉は免官となった。王晏の子である王徳元・王徳和、王晏の弟である王詡も殺された。

498年1月、蕭鸞は病あり、近親が頼りないため、蕭道成・蕭賾の子孫を恐れた。その子孫はなお十王あった。蕭遙光(蕭鸞の甥、前出)は諸王を除くのに積極的で、彼と話終わった蕭鸞は香を焚いて、嗚咽流涙する毎に、翌日必ず誅殺が行われた。蕭鸞の病は重くなり、息絶えてまた蘇るような状況だったので、蕭遙光は遂に十王の誅殺を決行した。
蕭鉉(蕭道成の十九男、当時19歳、前出)・蕭子岳(蕭賾の十六男、当時14歳)・蕭子文(蕭賾の十七男、当時14歳)・蕭子峻(蕭賾の十八男、当時14歳)・蕭子琳(蕭賾の十九男、当時14歳)・蕭子珉(蕭賾の二十男、当時14歳)・蕭子建(蕭賾の二十一男、当時13歳)・蕭子夏(蕭賾の二十三男、当時7歳)・蕭昭粲(蕭長懋の四男、当時8歳)・蕭昭秀(蕭長懋の三男、当時16歳、前出)
これにより、蕭道成・蕭賾・蕭長懋の諸子は絶えた。

4月、大司馬・会稽太守の王敬則(南朝宋の最後の皇帝、劉準を捕らえた人)は、蕭道成・蕭賾の旧将であるため不安を覚えていた。蕭鸞も警戒し諸子を人質にとるなどしていたが、この時ついに挙兵した。子供たちは殺された。王敬則は蕭子恪(蕭賾の孫)を奉じようとしたが、蕭子恪は逃げて行方知れずだった。
蕭遙光は蕭道成・蕭賾の子孫を悉く誅殺すべしと蕭鸞に勧めた。蕭道成・蕭賾の孫たちは招集され、中には乳飲み子も居た。全員毒殺する手配を整えていたが、蕭子恪が自首してきたため未遂に終わった。

5月、王敬則の反乱軍は10万を超える大軍であったが、正規軍(台軍)の死戦により大敗した。王敬則は斬られた。

7月、蕭鸞が死んだ、享年47。

497年8月より、元宏(拓跋宏、北魏の孝文帝)は斉に対する親征を行っていた。最大で号100万と記載されている。今回は荊州方面から侵攻し、北魏優勢であったが、498年9月に蕭鸞の死を知った元宏は、喪中の斉を伐つのは非礼にあたるとして兵を退いた。前後の記載からすると、北方にある高車の脅威や自身の疾病が本当の理由であったかもしれない。

放論
蕭長懋・蕭賾は病死とされるが、彼らが体調を崩す様子は死の直前まで記載されていない。その原因は果たして普通の病気だったのか。蕭子良が不審死なのは言うまでもない。
一連の騒動に勝利した蕭鸞を疑いたくなるが、にしては当初の対応が後手に回っている印象を持つ。
残念ながらこれ以上議論する材料がないけれども、メインプレーヤーのほぼ全員に動機が思い当たるという異常さは注目しておきたい。

蕭賾が蕭子良を後継者に指名しなかった理由としては、皇帝集権を志向して寒人を重用した蕭賾に対し、蕭子良は竟陵八友のメンバーで象徴されるように門閥貴族を重んじていたことが指摘されている。また、蕭子良は文学を愛好して政治への関心に乏しく、実務能力も低い存在だと見做されていたようである。
しかしながら、資質の精査できていない年少者を立てた蕭賾の判断は、自身の血族が蕭鸞に悉く誅殺されるという最悪の結果を招いた。

蕭子良がどれほど皇位を望んでいたか、正直よくわからない。王融の「公誤我」という言葉から、首謀者を蕭子良とする論文もあるのだが、蕭鸞に政務を丸投げした行為や一連の政変でイマイチ煮え切らない主体性に欠く動きをしている点など、腑に落ちない部分もある。
一方で王融にとっては、蕭子良の擁立に彼なりのモチベーションがあった。皇帝集権・寒人重視の風潮により、琅邪王氏は過去の輝きを失いつつあったのだ。さらに、王融は人臣の頂点である三公に値すると自負していたので、栄達への最短距離である蕭子良即位に並々ならぬ入れ込みようだったのも納得できる。
蕭子良の文学サロンは有名だが、蕭長懋と違って政治・軍事向きの人材を収集できなかっただけという報告がある。蕭賾ならそれくらいの配慮はするだろう。そんな中、文弱になりがちな名門の家風にも反して武将としての覚悟を示した王融の試みは、失敗に終わったものの眩しいものとして映る。一方で、資治通鑑の編者司馬光は、慌てて富貴を求めた王融の態度こそが蕭子良の憂死に至る原因だったと批判している。

蕭昭業の所業には呆れるばかりだが、若者というのは得てしてこうなりがちだとも思う。統一王朝の皇帝なら許されたかもしれないが、北魏という大敵を抱えた南朝斉にはそれを許すだけの余裕がなかった。

騎兵戦力で勝る北魏の軍事的脅威に対抗するためには、蕭道成や蕭賾のような強いリーダーが必要だった。実務を知らない書生(蕭子良)や、行状の定まらない年少者(蕭昭業)が皇帝候補として名乗りを上げる現状に、危機感を抱く者も居ただろう。それに対し、蕭鸞は政変直後であるにもかかわらず、拓跋宏の親征を防ぎ止めてみせた。
ただし、蕭道成の血を引いていない蕭鸞にとって、蕭道成直系は自らの皇統を危うくする脅威に他ならなかった。蕭鸞による皇族一掃は、傍系による簒奪という事実を認識することで、その必要性が明確になる。
蕭鸞が皇族の誅殺を命じながら、香を焚いて涙を流したエピソード、暴君の情緒不安定として語られがちだが、果たしてそんな理由付けでよいのか。あるいは、斉の支配を確立するために、血統・大義名分・後世の歴史家による評価、これら全てをかなぐり捨てた蕭鸞こそが真の憂国者だったかもしれない。
また、蕭鸞が皇帝となった根拠は、彼自身の持つ国主たる資質でありその血統ではなかった。蕭鸞の死後、その資質を備えた次なる傍系・蕭衍に皇統が移ったのは必然と言える。

蕭道成から遠い血筋の蕭衍は、蕭鸞と協力関係だったこともあり、しばらく粛清の対象とならなかった。しかしながら、蕭鸞を継いだ蕭宝巻との衝突は避けられなかった。
蕭衍はあえて国号を梁とし、同族であるにも関わらず禅譲の体裁を整えた。その理由は、蕭鸞が傍系による簒奪という誹りを受けたことにあると報告されている。私自身もその説を支持している。

今回取り上げた蕭鸞即位にまつわる一連の事件。そこには、斉梁革命をはじめ後の歴史を大きく規定する様々なファクターが潜んでいた。
そして、南朝中期を蕭氏の三統(蕭道成系・蕭道生系・蕭順之系)による政権交代劇として捉えなおすことで、より正確な歴史理解が可能となるのである。

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