五胡十六国ドリームマッチ その3 冉閔 VS 慕容恪

冉閔の紹介
冉閔の父は漢民族出身だったが、後趙でその武勇を買われ石虎の養子となった(羯族石氏は優れた能力を持つ者を同族に迎える風習があったようなのだ)。当初の冉閔の名は石閔であったが、父と同様武勇に優れ、石虎に愛された。
冉閔の必殺技として史書に記されているのが、馬に騎乗したまま右手に矛、左手に戟を持ち、風のように駆け抜けながら敵を斬り倒していくというもの。片手で敵を屠る膂力、下半身だけで騎乗し続ける脚力・平衡感覚・操馬スキル、全てが人間離れしている。漢族でありながら胡族顔負けの武勇を示した冉閔、石虎が可愛がるのも当然である。石虎が前燕討伐に失敗した際に冉閔は軍を保ち、その評価をさらに高めた。
石虎死亡後の後継者争いで、後趙皇族は冉閔を憚り、その排斥を試みたが、冉閔はその全ての試みを返り討ちにし、最終的に皇帝となった。国号は魏、父が魏郡出身であったこと・本拠地が鄴であったことが理由として考えられる。
後趙の残存勢力を掃討するとともに、胡人を虐殺する命を発した。冉魏は漢人至上主義を標榜したが、漢人にとっての拠り所は東晋以外にありえないし、東晋の北方支配を代行する大義名分なら位を王までに留めるべきだった。胡人からそっぽを向かれ、漢人からの支持も不十分だった冉魏は、鄴周囲の地方政権の域を出なかった。

慕容恪の紹介
別の記事で詳しくやったので省略。私が五胡十六国で一番好きな人物。

両者の激突 廉台の戦い
石虎死後の後趙混乱に乗じて、慕容儁率いる前燕は中原への進出を試みた。中原攻略軍の指揮官であった慕容恪は怒涛の勢いで支配域を広げ、ついに廉台(現在の河北省石家荘市)において冉閔と衝突した。
冉閔は緒戦にて10戦10勝した。相手は鮮卑の精鋭騎兵を率いる名将慕容恪である。前燕の兵達は冉閔を恐れるようになったが、慕容恪は軍を鼓舞して戦線を維持した。
次に、慕容恪は馬を鉄の鎖で繋いだ陣を作り、冉閔の突撃を受け止めつつ側方から包囲攻撃する作戦を練った。確認しておくと、慕容恪軍は騎兵主体で、冉閔軍は歩兵主体である。騎兵の突撃を歩兵が受け止めるというのが戦争の常道、やはり冉閔何かが違う。
慕容恪の連環馬は功を奏し、冉閔軍の敗北が決定的となったが、その中でも冉閔一人で鮮卑兵300人余りを打ち取ったという。冉閔は奔走したが、愛馬朱龍(1日に千里走るという赤兎馬の生まれ変わりみたいな馬)が力尽きたため、慕容恪軍に捕らえられた。

冉閔は前燕の慕容儁のもとまで連行され、その後処刑された。冉閔の武力に大きく依存していた冉魏は程なく滅びた。
結局のところ、冉閔の役割は後趙を混乱させ、前燕・前秦の飛躍をアシストするだけのものとなった。しかしながら、個としての武勇は中国史でも屈指の水準にあり、指揮官としての手腕も五胡十六国最高峰の慕容恪と遜色ないものであった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次