前燕征服時に見られた前秦崩壊の兆し

郝晷と梁琛
前燕からの使者として、郝晷と梁琛が相次いで前秦に行った。
郝晷は燕を見限ってその内情を詳しく話したが、梁琛は慕容評と慕容垂が偉いと当時の共通認識を述べただけで、自国のウィークポイントを決して洩らさなかった。
燕帰国後の梁琛は、苻堅と王猛が人傑であることを主張し、秦による侵攻の可能性を警告したが、朝廷から疎まれ、逆に投獄されてしまった。
燕滅亡後に梁琛と対面した苻堅は、「燕国の危機の兆しを見極めず、燕国の善良さを偽って主張し、忠誠心が身を守るどころか、かえって災いを招いたのは賢明なことだろうか」と問うた。
王猛は郝晷と梁琛の比較を問われ、「郝晷は機微をよく見抜くことができ、より優れている」と答えたところ、「ではあなたは丁公を賞して季布を殺すわけですね(※)」と返され、大笑いした。

※丁公は項籍(項羽、羽は字)の部下だったが、彭城の戦い後に逃げる劉邦を見逃した。季布は死んだ項籍に操を立てて劉邦から逃げ続けた。ちなみに、劉邦は項籍への不忠を働いた丁公を誅殺し、項籍に忠誠を尽くした季布を賞した。今回の評定が劉邦と真逆であることを指摘したわけである。

王猛による慕容垂・慕容令排撃
慕容垂は前燕指導部との対立から前秦に亡命した。苻堅は慕容垂とともに息子の慕容令の才も愛して礼遇した。
ある時、王猛は従軍していた慕容令に、慕容垂が再び燕に戻るという誤報を伝えた。慕容令は躊躇したものの燕に出奔した。王猛は慕容令の造反を公表したため、慕容垂は恐れて逃げたが、秦で捕まり苻堅の前に連行された。苻堅は、慕容令の望郷は当然だし、子供のことで親に累を及ぼすつもりはない、とその場を収めた。
ちなみに、出奔した慕容令は慕容垂が秦で重用され続けたことから疑われ、燕内で決起したものの内応した部下に殺された。

前秦の名将とされる鄧羌、その実態
燕征伐にあたり、王猛は徐成を偵察に出した。王猛は日中を刻限としたが、徐成の帰りは日没後だった。軍規に照らして王猛は徐成を処刑しようとしたが、徐成と同郷の鄧羌が反対した。旗下の軍に示しがつかないため王猛は強行を試みたが、鄧羌軍に王猛を攻撃する構えがあるのを見て、慌てて徐成への処断を撤回した。
前秦が前燕との決戦を迎えたときのこと。相手は石虎・冉閔・桓温と数多くの英雄達を退けた勢力である。メインプレーヤーだった慕容恪(病死)・慕容垂(前秦に亡命)は不在だが、やはり凄まじいプレッシャーを受けたようだ。王猛は前秦で最強の猛将である鄧羌に奮戦を求めたが、鄧羌は君主でないと決済できないほどの高官位(司隷校尉:概ね都知事あたりに相当)を要求した。王猛がそれを渋ったところ、鄧羌は一切動かなかった。王猛が空手形覚悟で約束を交わしたところ、ようやく鄧羌は動き出して前燕を討ったのだった。

私評
敵国からの裏切り者・売国行為を厚遇すべきか、反対に敵国の忠臣を厚遇すべきか。これは国家の価値観・倫理観の根本を問う問題であると同時に永遠の難問でもある。
自勢力に利する者を厚遇することで、後に続く者達が期待でき、短期的にはハッキリ得なのだが、逆に国家の持続性を危うくする行為でもある。忠という徳目が人事考課の対象でないと明示することになるからだ。結果的にその国では修身もままならない人種が中枢に跋扈しやすくなる。鄧羌はその代表といえよう。

王猛は両者の損得を勘案しつつ、統一後の西漢(前漢)と違って、当時の前秦だと短期重視の実利主義路線を選び取るしかないと自覚していたのだろう。
しかしながら、苻堅はどうだったか。前秦という国の本質がどのようなもので、その原因が王猛や自身の下したどの判断に由来したか、彼はこうした問題を正しく認識出来ていなかったのではあるまいか。
儒教を重んじた聖人君主と評される苻堅だが、梁琛の忠に冷笑を浴びせた態度を見るにつけ、彼の儒教に対する共感は、漢人に対するポーズ程度の浅いものでしかなかったと言わざるを得ない。
淝水の敗戦後、苻堅は慕容垂を始めとする多くの者から背かれたが、そういった者たちで周囲を固めていた前秦の国家体制そのものが問題だった。今回紹介した前燕討伐時のエピソードには、その遠因が端的に現れている。

そして、慕容垂との関わりにおいて、王猛の修身すら怪しかったことを暗示している。
慕容垂は前燕における無道な仕打ちから救いを求めて亡命してきたのだ。それをあのように扱っては続いて亡命しようと思う人が居なくなるだろう。先ほど議論した売国行為への厚遇と矛盾すらしている。
個人的事情を考慮すると仕方ない部分もある。慕容垂の将帥・宰相としての才は、王猛の地位を脅かすほどであった。また、王猛の栄達が一代限りと見込まれるのに対し、慕容垂は息子の慕容令も俊才であり、世代を超えての活躍が予期されていた。
しかしながら、五胡十六国を代表する名臣といわれる王猛さえ、国家より個人の都合を優先していた。これは先に示した前秦の根本的病理、その発露に他ならなかった。

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