都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。
このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。
3回目は北魏の拓跋珪による柴壁の戦いを取り上げる。
北魏と後秦の盛衰を分けた戦いとして有名だが、合戦の詳細を調べると非常に面白い。
西暦402年5月、後秦の姚興は北魏の河東エリアに攻撃を仕掛けた。局地戦になることを想定したのか、姚緒・姚碩徳といった歴戦の叔父達や自身は出馬せず、弟の姚平に兵4万を率いさせた。姚平は柴壁(現在の山西省臨汾市襄汾県)を制圧し、更に北にある乾壁(現在の山西省臨汾市堯都区)を攻めた。
7月、拓跋珪が反攻開始。拓跋順と長孫肥が率いる兵6万を先鋒とし、自身も大軍を率いて永安(現在の山西省臨汾市霍州市)に到着した。
姚平は騎兵2百を偵察に出したが、全く戻ってこない。尋常ならざる事態を察知した姚平は撤退を始めたが、北魏による追撃を受けた。
姚平は柴壁で追いつかれ、北魏軍は柴壁に対し何重もの包囲線を建築した。
姚興は自ら兵4万7千を率いて姚平の救援に向かったが、後秦の拠点である蒲坂(現在の山西省運城市永済市)から汾水東岸を陸路北上した場合は蒙坑という窪地があった。この難所は突破が難しく、逆に拓跋珪は兵3万余りを率いて蒙坑の南に突出し、姚興の出鼻を挫いた。
姚興は、汾水西岸からの包囲突破・補給を試みたが、拓跋珪は汾水西岸にも兵を配置し、汾水東岸の本隊と浮橋で連結する万全の備えをとっていた。
姚興は上流から木材を流して浮橋を落とそうとしたが、北魏はその動きを読んで木材を採集し、薪として利用した。
後秦はその後も北魏陣地外郭の空堀に対する梯子、汾水に対する土塁など様々なアプローチを試みたが、北魏はその全てを防ぎ切った。
万策尽きた姚興軍は汾水西岸の遠方から音を出して姚平軍を励ますしかなかった。
402年10月、柴壁に籠る姚平軍は物資が尽き、最後の望みをかけて突撃したものの、突破叶わず全滅した。姚平らは汾水に身を投げて自殺した。
北魏は更に南下して蒲坂を狙ったが、蒲坂の姚緒は固守し一切打って出なかった。北方にいる柔然の脅威もあり、拓跋珪は兵を引いた。
淝水の戦いで前秦が崩壊したのち、慕容垂の後燕と姚萇・姚興の後秦が華北の2大国だった。北方の小勢力に過ぎなかった北魏は、この2大国相手のジャイアントキリングにより、華北制覇の階段を駆け上がっていった。
また、後燕との参合陂は追撃戦で、今回の柴壁は包囲戦である。
戦争の詳細を調べるたびに、拓跋珪の将才には驚かされる。各戦場に対応して適切な戦略を練る思考力、戦勝の機会をとらえて迅速に行動する決断力など、同時代の群雄達より明らかに抜きんでている。
五胡十六国の行方を決めた一人というのも納得である。
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