司馬乂は、八王の乱において唯一良識的な行動を取った諸侯王として、その戦績も含め肯定的な評価が多い。
彼の事績を晋書ベースで追ってみた。
司馬一族の親疎を分かりやすくするよう、カテゴライズしてみた。
カテゴリー1 Cat.1 司馬炎の子孫
カテゴリー2 Cat.2 司馬昭の子孫(司馬炎系除く)
カテゴリー3 Cat.3 司馬懿の子孫(司馬昭系除く)
カテゴリー4 Cat.4 司馬防の子孫(司馬懿系除く)
長沙厲王 司馬乂(Cat.1) 字は士度。司馬炎の第6子(異説あり)。
西暦289年、長沙王に封じられた。290年、司馬炎が崩御すると、乂は15歳(※)だったが、幼児のように亡父を慕う有様は礼を過ぎていた。楚王司馬瑋(Cat.1、乂の同母兄)が葬儀に立ち会うため駆けつけて来た。諸王は皆彼を迎えに出たが、独り乂は陵墓で泣きながら瑋を待っていた。歩兵校尉となった。
瑋が2公(汝南王司馬亮=Cat.3と衛瓘)を誅殺した際、乂は瑋の下で東掖門の守備にあたった。恵帝司馬衷(Cat.1、乂の異母兄)から瑋への詔が偽りであることを示す騶虞幡(*)が現れたところ、乂は弓を投げ捨て涙を流しながら言った「楚王が詔を受けたということで、彼に従ったのだ。詔を受けていなかったとどうして知ろうか」
瑋は誅殺され、同母弟の乂は長沙王から常山王に降格となった。
乂は身長7尺5寸で、明るく広やかだが決断力があり、才能・力量は人並み優れ、心を虚しくして士人にへりくだり、名声は甚だ高かった。3王の挙義(斉王司馬冏=Cat.2・成都王司馬穎=Cat.1・河間王司馬顒=Cat.4が趙王司馬倫=Cat.3の帝位簒奪に反対する義兵を起こしたこと)が行われ、乂は常山国の兵を率いてこれに応じた。趙国を通過したところ、房子県令が進軍を阻んできたため彼を殺し、鄴を根拠地とする穎の後詰となった。常山内史の程恢が乂に叛こうとしたので、乂は鄴に着くと、程恢とその5子を斬った。洛陽に至り、撫軍大将軍、領左軍将軍となった。その後、驃騎将軍となり、開府(自身の政庁を持つこと)を許され、封国も常山から長沙に戻った。
乂は冏が次第に専権を振るうようになるのを見ると、穎(乂の異母弟)と陵墓まで同行した際に言った「天下は、先帝(炎)の業績だ。王はこれを守らねばならない」
その言葉を聞いた者は皆凍りついた。顒が冏の誅殺を図り、檄文で乂を洛陽におけるリーダーと伝えた。冏は董艾を派遣して乂を襲わせようとしたが、乂は側近百余人を率いて、覆いの無い車で宮中に向かうと緒門を閉鎖、衷を奉じて冏と攻め合い、冏の政庁を焼いた。連戦3日にして冏は敗れ、斬られた。冏の与党2千人余りも誅殺された。
顒の当初の計画は、弱い乂が強い冏に捕らわれるはずなので、乂の救援を理由に四方から冏を討つものであった。そののち衷を廃して穎を皇帝とし、顒自身は宰相として天下を専制する手筈である。乂が冏を殺したことでその計は不発となった。そのため、顒は侍中の馮蓀・河南尹の李含・中書令の卞粹らに乂を襲わせたが、乂は彼らを返り討ちにした。顒はついに穎と共同で、洛陽の乂を討つことにした。穎は乂に刺客を送ったが、長沙国左常侍の王矩が刺客の気配を見破り、これを殺した。衷は詔して乂を大都督とし、顒の軍勢を防がせた。8月から10月まで戦が続いた(衷は自ら車に乗って戦場に現れ、司馬乂の善戦に大いなる貢献をした)。朝議は乂と穎が兄弟であることから、言葉で和睦できるはずだとし、王衍・石陋を使者に立て、穎に説いた。乂と穎で天下を二分する提案を行ったが、穎は拒絶した。乂は穎に書状を送った
「先帝(炎)は天に応じてその運行に従い、四海を支配し、勤勉で苦労し、帝業を成し遂げた。天地四方は清寧となり、その余慶は子孫にまで及んだ。孫秀は大逆をなし、天道に逆らったが、卿が立ち上がったことで帝位は回復した。斉王(冏)は自身の功を恃み、非法をほしいままに行った。上は宰相の心なく、下に忠臣の行いなく、他人をそしる声が飛び交い、肉親の気持ちは離れていった。主上(衷)はこれを恨み、冏を排除した。吾と卿は友人10人分くらいの親しい付き合いで、父を同じくする皇室で、共に地方都市に封じられているが、どちらも王道の教化・経済の遠略を広めることが出来ていない。いま卿は太尉(顒)とまた大軍を起こしており、百万の兵が洛陽の宮城を重包囲している。群臣は皆怒り、私をかりそめの将に任命し、国威を示しているが、卿らを滅ぼすつもりはない。卿の兵は川に身を投げ、谷山を平らかにし、死者は1日1万を数え、兵自身に罪が無いにも関わらず酷い痛みを受けている。これは我が国の恵みに慈しみが欠けているせいであろうか、ただいつも通りの刑を執行しているだけなのだ。卿が派遣した陸機は卿から節鉞(刑罰権)を受けたことを喜んでおらず、所領を挙げて国家(衷・乂陣営)と私的に連絡を取っている。私が想うに叛逆者というものは、1尺前進しようとしても、1丈後退してしまうものなのだ。卿はよろしく鎮(鄴)へ還られたし、そうすれば四海は平らかとなり、宗族の恥はなくなり、子孫の福となろう。もし還らなければ、肉親が分裂する痛みを思い知ることになる。故にまた書を送った」
穎はこう返書した。
「文(昭)・景(師)は図讖(天意に基づく予言の類)を受け、武皇(炎)は天運に乗り、あたかも堯・舜のようであった。いずれも政道を安らかにし、その恵みは大業を隆興させ、百世に渡る繁栄を享受している。どうして骨肉の災禍が予測できただろうか。外戚が専権し、楊氏・賈氏が害毒をなし、斉(冏)・趙(倫)が同族内から簒奪を行おうとは。幸いにしておごりたかぶった彼らは誅殺されたが、安息には至っていない。王室を憂えるごとに脈が速くなり、心が乱れる。羊玄之・皇甫商らは寵愛を恃んで禍をなしている。これで慷慨せずにおれようものか。よって羽檄を飛ばして鄴から洛陽への征西を行い、四海はこれに応じた。乂兄も国を思う気持ちは同じだろうから、皇甫商らを捕えて、その首級を私の許まで送るべきだ。なぜ迷い戸惑って、自ら逆賊の首魁となったのか。上は天子の詔を矯め、下は愛する弟と訣別し、天子の車をむやみに動かし、みだりに兵威を動かし、豺狼の輩を再任し、親しむべき善人を殺している。悪を行いながら、福を求めている、なぜこのようなことに自ら勉めるのか。前に陸機を派遣して節鉞を監督させ、黄橋では敗退したが、温南では勝利を収めている。そちらの一勝、こちらの一勝で、慶ぶには早かろう。こちらには百万の兵が居り、当陣営の良将達は意気鋭く猛々しく、兄とともに海内を整えようと思っている。もし兄が太尉の命に従って皇甫商らの首を斬り、武器を捨てて謙譲し、自ら多福を求めるなら、穎もまた兄と同じように鄴へ帰るだろう。そちらからの書状を見て、更に憤ってしまった。慎ましやかなる大兄よ、深く進退を思われよ」
乂は度々穎の軍を破り、その死者・捕虜あわせて6,7万になった。ところが、戦の長期化で食糧が乏しくなり、洛陽城中は大いに餓えた。乂陣営は疲弊していたが、将と兵が心を一つにし、皆で死を賭して尽くそうとした。乂は衷を奉じる礼に失するところがなく、顒陣営の張方はまだ勝てないと考え、長安に戻りたくなっていた。ところが洛陽側に居た東海王司馬越(Cat.4)は自陣営に先がないと考え、密かに殿中の将と連絡して乂を捕え、金墉城に送った。
乂はこのように上表した「陛下は私を親愛し、朝事を委ねた。私は心を小さくし、忠孝に勤めた様子は神が見るところである。諸王は誤った噂を鵜呑みにし、軍を率いて私を責めた。朝臣に正義はなく、各々が自分の苦境だけを考えた。私は別省で捕らわれ、金墉城に移送された。私は身命を惜しまない。ただ心残りは、大晋が衰微しつつあり、残党がほしいままに振る舞い、陛下が独り危うくなっていることだ。もし私が死んで国が安寧になるのなら、司馬家の利益にもなろう。ただ、おそらく凶悪な志を持つ者が喜び、陛下には無益なのではないだろうか」
殿中の左右には、乂が成功目前で敗れたことを恨み、乂を強引に金墉城から救出して、更に穎への抗戦を続ける謀があった。越は変難が起こることを懼れ、ついに乂の誅殺を欲するようになった。黄門郎の潘滔は、越に張方への密告を勧めた。張方は部将の郅輔に兵3千を与えて派遣し、金墉城に着いて乂を収容した。乂が張方の軍営に至ると、乂は炙り殺された。乂が苦痛の中で冤罪を訴える声は左右まで届き、三軍に乂のため泣かない者は居なかった。時に28歳(※)であった。
※司馬乂の年齢について
司馬炎の死んだ290年に数え15歳で、司馬乂の死んだ304年に数え28歳というのは矛盾している。
少なくともどちらかは誤っている。
*騶虞幡について
停戦を示す旗で、これが掲げられると兵は即刻戦闘を止めて、ひれ伏したという(廿二史礼記 巻8)。
ただし、皇帝自身の意向であることを証明する白虎幡と同一視する説もある(晋陽秋伝 晋朝の騶虞幡、白虎幡)。
唐成立の晋書では、李世民の曽祖父である李虎の諱を避ける必要があった。虎牢関→成皋関 or 武牢関、石虎→石季龍という類例がある。
ちなみに、騶虞は白虎のような白い聖獣とされるが、ジャイアントパンダだったと考えている人たちがいる。
司馬乂の諡号・厲について
やはり周の厲王姫胡(または姫㝬)は持ち出さねばなるまい。
西周の10代王で、賢臣であった召公(召公奭の末裔)らの諫言を退け、佞臣を重用し、親征を繰り返した。
王を殺そうとする政変(国人の乱)が起こり、姫胡は鎬京を脱して彘に逃れた。その後、召公・周公(周公旦の末裔)が朝政を代行した。姫胡が鎬京に戻れないまま彘で死ぬと、姫胡の息子姫静(宣王:召公の家で養育されていた)が即位した。
ただし、姫胡はただの悪政でなく、中央集権の失敗として評価されることもある。
故事を踏まえると、厲は悪諡である。
諡号は死後に選定される。当時の有力者であった司馬穎・司馬顒・司馬越の意向を大きく反映せざるを得ず、結果的に後世からすると首肯しかねる悪諡となった。ちなみに、司馬倫・司馬穎・司馬顒には、諡号そのものが割り当てられなかった。
放論
西晋において、司馬炎の直系か傍系かは相当意識されていたようだ。司馬冏の専横に対して司馬乂が司馬穎に漏らした発言は、それを端的に表している。司馬炎による中華統一の業績と25年に及ぶ長期政権は、西晋において大きい影響力を持ったのだ。
次第に西晋が乱れていく中で、最高権力者や皇帝の座に挑む司馬炎傍系とそれに抵抗する司馬炎直系、というのは八王の乱における割と重要な側面であると思われる。
司馬乂は司馬炎直系による西晋支配を強く意識し、兄弟の連帯を重んじる行動を取った。それに対して、司馬穎は兄である司馬衷・司馬乂と対立する道を選んだ。皇帝の位を餌として司馬顒に唆されたのだろう。ここで司馬炎直系が二分されたことは、直系を乱の勝利から遠ざけ、西晋全体の命運にも暗い影を落とした。
そもそも、西晋は名門・儒家に配慮して諸侯王を各国に封じる体制を取ったばかりに脆弱性を抱えていた。比較的早い段階で皇帝から漏れた人たちを国に封じ、死後はその嫡男が引き継いでいく。時代を経るごとに封国と皇室は疎遠になっていくのだ。例えば、八王のうちで戦国七雄に由来する楚王、趙王、斉王は格上と考えるべきだが、3人中2人は司馬炎傍系である。
また、西晋は曹魏の失敗を意識したのか、親族のうちで藩屏となるべき優秀な者達に大きな権力を与えた。司馬顒・司馬越は司馬懿直系ですらなく、本来公爵あたりが妥当なはずのところを王にしたのだ。結果的に司馬炎から最も縁遠い彼らが八王の乱決勝に残ったのは皮肉なことである。司馬熾(Cat.1、豫章王→懐帝)による司馬越への反抗は、西晋滅亡に至る愚行だったとこれまで思っていたが、司馬炎直系に実権を取り戻すのが彼ら兄弟の悲願だったと考えると、また別の見え方になってくる。
異母兄弟の司馬衷・司馬穎に比べ、同母兄の司馬瑋に対する司馬乂の態度は少々冷淡に見えるが、資料の読み込みが足りないのかもしれない。
司馬乂死後の司馬衷は面白い。司馬越は、司馬衷と運命共同体だった司馬乂を間接的に殺している。にもかかわらず、司馬衷は引退希望の司馬越を引き止め、朝政に参与させ続けた。その後、司馬衷は司馬越を伴い、鄴に居る司馬穎への親征を試み、敗れた。
遠戚の司馬越が殺したのは、忠・悌を存分に発揮して自分を奉じてくれた実弟司馬乂。そんな司馬越とあえて手を結んだ司馬衷は一体何を思っていたのか。
実弟でありながら自身に弓引いて戦禍を拡大させた司馬穎への憎しみか、あるいは司馬乂捕縛に戦い疲れた司馬衷自身の意向があったのか。
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