飢饉・斉万年の乱により、中華西部で難民発生
東漢(後漢:五代十国のそれと区別するため)や曹魏は、少数民族を関西(函谷関より西側のエリア)に移住させる徙民政策を採っていた。彼らは差別的な対応を受け生活も貧しかった。
西晋は司馬衷の頃、関西で飢饉が発生しており、不満を抱いた異民族は氐族の斉万年を推戴し晋への反乱を起こした。これが斉万年の乱である。乱自体は299年に孟観の手で鎮圧されたものの、関西の困窮から、多くの者が食糧を求める難民となった。
四川に南下した難民が、現地での摩擦により自立(成漢の成立)
関西の難民達は南下し、四川の地に向かったが、そこで旧来の住民と衝突することになった。
蜀を治める羅尚(羅憲の甥)は彼らを追い返そうとし、難民の代表者である李特はそれを延期するよう要請した。ある程度の期間は滞在を受け入れられたものの、最終的に期限が設けられた(後出の杜弢は、期限延期を進言したが受け入れられず、官を辞している)。また、羅尚の部下である辛冉には、難民を捕らえてその財産を奪おうとする構えもあった。
羅尚と李特の間で緊張が高まり、301年の辛冉らによる李特襲撃を契機に、両者は交戦状態となった。羅尚は李特相手に劣勢を強いられ、四川の支配域を大きく損なった。長安の軍権を握る八王の一人、河間王司馬顒は、羅尚に援軍を派遣し事態を収拾しようとしたが、李特は司馬顒の援軍相手にも勝利を収めた。
羅尚はその後の反撃で李特を討ち取ったが、勢力は子の李雄に引き継がれた。李雄は羅尚から成都を奪い、成漢が成立した。蜀を失った羅尚は東側の巴に拠ったが、310年の羅尚病死に伴い、成漢が四川全体の支配権を確立した。
結果的として、晋は益州の版図を失ったのである。
四川からの難民による荊州動乱
四川における晋と成漢との兵乱により、同地から新たに難民が発生し、荊州に押し寄せることになった。
湖州刺史の荀眺が彼らを恐れて誅殺しようとしたため、難民たちは杜弢を頭領として兵を挙げた。杜弢の軍は官軍相手に連戦連勝し、破竹の勢いを示した。
東晋の重臣である王敦は、陶侃・周訪らを派遣し、自身も出馬した。陶侃は杜弢軍の進路を予想して軍を配置したところ、見事的中し戦勝を得ることができた。この功により、陶侃は荊州刺史に昇進した。
その後、杜弢の部将王真が陶侃に攻撃をかけた。陶侃は逃げたが、周訪が救援に駆けつけ、両者の協力で撃破した。
315年、陶侃は杜弢を数十回攻撃し、杜弢の兵たちは多くが討ち死にした。杜弢は司馬睿に降伏の意向を伝え、一度は拒否されたものの、応詹(杜弢の元上司)のとりなしもあり、最終的に受諾された。ところが、降伏受諾の詔を受けた後も功績に貪欲な東晋諸将による攻撃が止まらず、杜弢は怒って再び反旗を翻した。部下達が豫章(現在の江西省南昌市付近)を落とすなど勢いを見せたが、その部下達は周訪に敗北し、自身の軍勢は王真が陶侃に降伏したことにより崩壊した。杜弢の結末は、晋書杜弢伝だと逃走して行方不明になったとし、資治通鑑だと逃走の道中に死んだとする。
杜弢とは別に、荊州における反乱勢力として杜曾が居た。彼は荊州で独立していた胡亢を殺してその軍を奪い、賊の王沖を攻め滅ぼしてその勢力を吸収した。更に、長安にいる司馬鄴(西晋の愍帝)から荊州刺史として派遣された第五猗を収容した。
315年、杜弢を破った陶侃は、その勢いで杜曾への攻撃を試みたが、敵を侮ったこともあり敗北した。(陶侃は313年にも杜曾相手の大敗を喫している)
杜曾は宛城(現在の河南省南陽市)を包囲したが、周訪が息子に兵3千を与えて救援したため退いた。
その後、杜曾は流亡2千余を率いて襄陽を包囲したが、数日攻めあぐねて退いた。ここで参戦していたのは、あるいは四川からの難民だったかもしれない。
陶侃が王敦の不興を買ったため、荊州刺史は王廙(王敦の従弟)に交代となった。刺史交代後の杜曾は、東晋軍を次々と撃破していったため、東晋は周訪を投入した。(晋書周訪伝と資治通鑑では司馬睿による派遣、晋書杜曾伝では王敦による派遣)
317年、8千の兵を率いた周訪は杜曾と会戦した。周訪は両翼に軍を分けつつ、自身で中軍を率いた。味方の片翼が敗れれば太鼓を3回、両翼が敗れれば6回叩くよう伝え、精兵800を選抜し、自身は酒を飲みながら静かに鋭気を練っていた。両翼の敗北を伝える陣太鼓を合図に周訪の精兵は杜曾軍への突撃を敢行し、周訪の大勝となった。
この戦勝後も周訪は杜曾の勢力をなかなか滅ぼせずにいたが、319年奇襲の末ついに杜曾を捕らえた。杜曾は周訪軍中にて斬られ、第五猗は護送先の武昌(現在の湖北省武漢市)で王敦に斬られた。
私評
西晋滅亡に関して、中央の政争と匈奴漢の侵攻から議論されることが多い。
けれども、食糧政策・異民族政策・難民政策の観点から、西晋がより良い結末を迎えるにはどうすべきだったか地道に議論すべきであると、今回取り上げた一連の出来事を振り返りながら実感した。
ただし、専門的な分析が必要であり、素人が放論するには手に余るテーマであろう。
東晋の荊州確保について、陶侃の功績はしばしば注目されている。しかしながら、今回紹介した荊州動乱において、周訪は陶侃以上に失点の少ない動きをしている。
周訪が杜曾との会戦で用いた戦術は、孫子に言う「佚を以て労を待つ」「我は専まりて敵は分かる」に則っている。一方で、机上での理論と実戦での運用の間には天地の差が横たわる高難度の作戦だということも容易に分かる。見事に完遂した周訪の将器は、賞賛に値する。
もし、周訪に陶侃ほどの寿命があったなら(周訪 320年没 享年61、陶侃 334年没 享年76)、周訪は陶侃並みの情報量で語られる名将となっていただろうか。
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