孫権の皇帝即位には道理がある

孫権の皇帝即位になんの根拠も無いとする見解をしばしば見かけるため、記事を書くことにした。
陳寿はなぜ「魏志」や「魏蜀志」でなく「三国志」にしたのか、その意図を読み取れていないからだ。
田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」をまず読んでほしい。

221年、皇帝に即位したばかりの曹丕は、臣従していた孫権に対し、気前よく九錫(皇帝と同等の待遇を意味する9つの特典)を与えた。この時点で九錫を受けた前例は王莽と曹操しかない、この点が極めて重要である。
劉氏による両漢王朝は約400年の歴史を持つ。曹魏当初の人々にとって、春秋戦国は自身との連続性を感じにくい伝承の領域であったと思われる。劉氏以外で皇帝を輩出した国家として秦と新があるものの、いずれも長続きしなかった。皇帝になれるのは劉氏のみであり、曹魏の結末も秦・新と同じであろうと、多くの人々が考えていたはずである。
しかも、劉氏の政権が南方に起こり、劉邦創業の地である漢中を掌握していた(漢中争奪戦における曹操の敗北がいかに重大だったかということ)。
皇帝になったばかりの曹丕は、漢という怪物と対峙する凄まじいプレッシャーの中にあった。だからこそ、魏の藩国を称し、蜀漢と対立していた孫権に対し、九錫という破格の待遇を与えたのだ。
しかし反面、史上3例目の九錫授与は、曹丕から孫権へ、次の皇帝は貴方だというお墨付きを与えたのとほぼ同義であった。229年の孫権即位には、先帝曹丕(226年に曹丕は死に、曹叡へ代替わりしていた)の意向に従っただけという大義名分が立った。

ちなみに、孫権の臣従を受けていた曹丕だが、その証として嫡男である孫登の身柄を要求した。対して孫権は、孫登が人質となることを執拗に拒んだ。
222年、この状況を受けた曹丕は三方面から呉への侵攻を試み、自身は宛(河南省南陽市)に進出して陣頭指揮を執った。魏の陣容は、
洞口方面:曹休・張遼・臧覇ら
濡須口方面:曹仁・蒋済ら
江陵方面:曹真・夏侯尚・張郃・徐晃・満寵・文聘ら

当時の魏でこれ以上の編制は不可能と思えるほど豪華な面々である。曹丕は間違いなくこの一撃で呉に決定打を与えるつもりだったろう。ところが、孫権は同年夷陵での戦役を終えたばかりの劉備と早々に和睦を結ぶと、各所へ将を派遣(陸遜不在がちょっとした謎扱い)し、全ての戦線で勝利した。
夷陵から三方面侵攻まで、孫権と群臣が見せた軍事・外交における立ち回りの見事さは、まさに呉の全盛期であり、三国の一角に相応しい存在感を放っている。

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