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劉禅を強引に再評価する
劉禅は、三国志だけでなく中国史全体で見ても暗君を代表する存在として、一般に理解されている。しかしながら、史実を詳細に吟味すると、劉禅について別の可能性を感じるようになってくる。ここに劉禅の再評価を試みる。無理矢理感は否めないが、司馬衷といい逆張りが好きなので仕方ない。 諸葛亮は、蜀漢の臣下で最も皇位を脅かしかねない存在であった。実際に、劉備から国を取ってもよいと遺言されたり、李厳から九錫(皇帝と同格の待遇を意味する9つの特典、皇帝即位の前段階)を勧められたりしている。劉禅は... -
曹操による徐州虐殺の影響と謎
徐州虐殺の影響①:徐州統治の難化 曹操が徐州で行った住民虐殺行為は、以後の徐州支配を難しくした。 昌豨は度々曹操に背いた人物として知られているが、根拠地は徐州東海郡である。徐州住民の曹操に対する嫌悪感は相当のものであったのだろう。また、昌豨の反乱については劉備に呼応したものがある。劉備は徐州で善政を敷いており、再来を待望する民意があったとしても不思議はない。曹操自身も、劉備の大器ぶりを誰よりも評価していた。曹操がなぜ昌豨に厳罰を下さなかったか、その心の内はある程度察せられる。... -
劉備は袁紹の天下に半生を捧げている
それまで盧植門下の兄弟子公孫瓚の下で働いていた劉備だが、陶謙死後の徐州牧就任を機に、公孫瓚の宿敵、袁紹に臣従した。前回の投稿で師匠の盧植が袁紹の軍師であったことを理由として述べたが、陶謙と袁術の同盟決裂についても触れておきたい。 袁紹が周姓の誰か(史料によって記載が定まらない)を用いて袁術の軍事部門に相当する孫堅を攻撃してから、反董卓連盟(*)は瓦解し、群雄達の関心はポスト董卓の中華指導者となった。 *一般的には、反董卓連合と呼ばれているが、袁紹のポストが盟主である以上、連... -
盧植が劉備に与えたもの
盧植=劉備の師、というイメージで語られることが多く、注目されることは少ない。しかしながら、盧植に師事していたからこそ劉備は世に出られたといっても過言ではない。盧植を師に持ったことによる影響は計り知れないのだ。これから主要なものを挙げていきたい。 与えたものその1 教養 盧植は東漢(後漢:五代のものと区別するため)の大儒である馬融に学び、兄弟弟子である鄭玄に次ぐレベルの、当時最高峰の大儒であった。劉備は学問にことさら熱心とは言えなかったようだが、そんな中でも彼から受けた教えが、... -
公孫瓚はかつて、中華における最大勢力であった
公孫瓚は過小評価されている。世間一般の公孫瓚に対するイメージは、袁紹に一方的に押し込まれて、救援勢力の見込めない籠城策をとって、当たり前のように最期を迎えたというもの。だがこれは、袁紹と公孫瓚の戦役におけるごく一部分を切り取ったものに過ぎない。 序論:曹操「袁紹さえ倒せば、あとは何とかなる」 曹操にとっての官渡は、孫権にとっての赤壁同様、国力差の大きな非対称の戦争であった。袁紹は官渡で敗れても次の機会を幾らでも見込める一方、曹操が負ければ衰亡一直線だった。袁家の敗因は、官渡...
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