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長沙厲王 司馬乂 兄弟愛とその結末
司馬乂は、八王の乱において唯一良識的な行動を取った諸侯王として、その戦績も含め肯定的な評価が多い。彼の事績を晋書ベースで追ってみた。 司馬一族の親疎を分かりやすくするよう、カテゴライズしてみた。カテゴリー1 Cat.1 司馬炎の子孫カテゴリー2 Cat.2 司馬昭の子孫(司馬炎系除く)カテゴリー3 Cat.3 司馬懿の子孫(司馬昭系除く)カテゴリー4 Cat.4 司馬防の子孫(司馬懿系除く) 長沙厲王 司馬乂(Cat.1) 字は士度。司馬炎の第6子(異説あり)。西暦289年、長沙王に封じられた。290年、司馬... -
羊献容への態度で、八王の乱における諸勢力を二分割できる
羊献容は賈南風に続く司馬衷の皇后として司馬倫・孫秀によって立てられた。母方の孫氏は孫秀の親戚にあたるが、三国呉の皇族とは無関係で、徐州琅邪郡をルーツとした寒族と考えられている。父方の泰山羊氏は、司馬師の妻や羊祜などを輩出した晋を代表する名家である。 その後、司馬倫が皇帝になると、羊献容は必然的に廃后させられた。司馬冏・司馬穎・司馬顒の三王が決起し、司馬倫が倒された。司馬衷が皇帝に復位したため、羊献容も皇后に戻った。しかし、羊献容の母方孫氏の一族は誅殺された。その後、朝廷の主... -
司馬衷を強引に再評価する
前回の投稿で、賈南風について強引に再評価を行った。続いて司馬衷を擁護してみたい。 賈南風は苛烈な性情を持つものの、最終的には司馬衷自身の判断を尊重する妻であった。帝位を得るに相応しいか司馬炎が課した試験を彼女のおかげでクリアできた(晋書の記載だが事実性に疑義あり)。そんな賈南風に対し、司馬衷は政権運営上の信頼と自由を一貫して与え続けた。 賈南風を失った後、司馬衷が味方した王は司馬乂と司馬越である。司馬乂は八王の乱において数少ない良識的な行動をとったプレーヤーで、朝政の第一人... -
賈南風を強引に再評価する
賈南風は西晋の2代皇帝、司馬衷の皇后である。権力闘争に多くの重臣・宗族を巻き込み、八王の乱の引き金となったド悪女として有名である。西晋滅亡の主因として挙げられることの多い人物であり、その事自体に異論を挟むのは難しいが、現在に至るまでの悪評は誇張されすぎのようにも思われる。 賈南風の立場は非常に脆いものであった。父の賈充に男子は居らず、親戚から養孫として賈謐を迎える異例の処置で辛うじて家を存続させていた。外戚として頼りになる親族は期待できず、遠戚らしき賈模を重用せざるを得ない... -
八王の乱と呼ばれているが、重要なのは八人の王じゃない
以下に概要を示す。いちおう八王とされる者たちに番号を付すが、重要でないプレーヤーが含まれる。一方で、乱の行方を左右した王でない者達が居る。 第一段階 賈南風政権 ・皇后の賈南風が皇太后一族の楊氏を排除した上で、汝南王司馬亮①・衛瓘を政権に参画させた ・楚王司馬瑋②は司馬亮・衛瓘を殺し、直後に賈南風が司馬瑋を殺した(権力闘争に明け暮れた賈南風だったが、賢臣の張華・裴頠などを任用し国政は安定していた) 第二段階 諸王による朝政の壟断(首都洛陽の求心力はある程度維持) ・続いて賈南風は...
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