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朱齢石の征蜀
慕容白曜について調べていると関連キーワードとして朱齢石の名前が出てきた。なんでも譙蜀(後蜀:五代十国のそれと区別したいので)を攻め滅ぼした名将であるという。譙蜀の滅亡は劉裕の功績としか認識していなかったので、資治通鑑に当たってみた。年は西暦だが、月は旧歴に従う。 資治通鑑抄訳(412年11月~413年7月) 412年11月、東晋の太尉である劉裕は蜀の征伐を謀ったが、元帥の人選は難航していた。西陽太守の朱齢石は武の業前を備え、官吏としての職務にも熟練していることから、彼を用いようと思った。... -
同盟関係から読み解く五胡十六国後期
五胡十六国後期は国の興亡が一層複雑になり、なかなか理解しにくいが、国同士の同盟関係を把握することで幾分わかりやすくなる印象を持っている。 後秦・南燕・譙蜀(後蜀)アライアンス VS 劉裕楚を名乗って東晋から禅譲を受けた桓玄だったが、劉裕によって建康の主導権を失った。その後桓玄は西に向かって再起を図った。やがて桓玄は殺されたのだが、荊州における桓氏の抵抗は続いた。この背景として、桓氏が荊州の西府軍を代々掌握していたことは重要である。東晋から蜀に向けて荊州の桓氏討伐の命があったが... -
南朝創業紀 その1 劉裕の宋
劉裕の出自に関する記載は魏書(北朝の正史)と宋書(南朝の正史)で異なる。少なくとも名門の生まれではなかった。東晋を揺るがした孫恩の乱(五斗米道という道教勢力を中心に起こった乱)において、東晋の二大軍事組織の一方、北府軍を率いる劉牢之の部下として反乱軍に対して大暴れし、武名を轟かせた劉裕は将軍として名を連ね大いに出世した。 その後、二大軍事組織のもう一方、西府軍を統括する桓玄(桓温の息子)が政権を主導するようになった。上司の劉牢之は当初桓玄に付いたが、やがて後悔するようになり...
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