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西魏の軍制について 八柱国・十二大将軍は虚構だったのか
前島佳孝 「西魏の統治領域区分についての補論」で感得するところが多く、記事を書くことにした。 周書 巻16列伝第8によると西魏では、爾朱栄以後に最高指導者の称号となった柱国大将軍に至った者が8名居り、八柱国と呼ばれている。メンバーは、宇文泰(のちの北周太祖)・李虎(唐高祖李淵の祖父、のちの唐太祖)・元欣・李弼・独狐信・趙貴・于謹(於謹)・侯莫陳崇である。 柱国大将軍の下位に位置付けられた大将軍(かつて武官の頂点を意味した)には12人が任じられ、十二大将軍と呼ばれている。メンバーは... -
前回からの続きで崔猷についても調べてみた
前回の王思政に関する記事で、長社県(現在の河南省許昌市長葛市)に駐屯しようとした王思政の判断に否を突き付けた崔猷。彼に興味を持ったため、周書・北史からユルく引用しながら足跡を辿ってみた。 崔猷の生涯(北魏~隋、周書巻35列伝第27/北史巻32列伝第20)崔猷の字は宣猷、博陵郡安平県(現在の河北省衡水市安平県)の人、漢の尚書崔寔の十二世孫である。(父祖・肩書系は割愛)猷は年少時より学問を好み、物静かでエレガントな佇まいにあっても性格は剛直で、軍略の才もあった。北魏で任官されていたが、... -
宇文邕の廃仏 魏晋南北朝における法難 その2
三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は後編とし... -
宇文泰 善手を積み重ね関中政権による統一を決定づけた南北朝最高の指導者
宇文泰の祖先は宇文部の族長家系である。宇文部はもともと匈奴だったが、その後鮮卑に所属し、中華東北部に割拠した。鮮卑慕容部と鎬を削ったが敗北し燕に編入。その後は北魏に属し、宇文泰の父である宇文肱は武川鎮に配せられていた。宇文肱は六鎮の乱で鎮圧側→反乱側(鮮于修礼)と立場を変え、その後鎮圧軍との闘いで戦死した。宇文泰は乱を鎮圧した爾朱栄傘下として、武川軍主の家系である賀抜岳に従った。爾朱栄は暗殺され、高歓が北魏の実権を握っていった。賀抜岳は関中(渭水盆地、現在の陝西省付近)で自... -
鮮卑の通婚関係 その3 武川鎮軍閥編
鮮卑の通婚関係を掘るシリーズ、最後は武川鎮軍閥。 ・宇文泰(北周文帝) 正妻は元氏=拓跋氏、北魏の皇族で孝武帝の妹。宇文覚を産んでいる。妻に姚氏(おそらく後秦の皇族)がおり、宇文毓を産んでいる。妻に叱奴氏がおり、宇文邕を産んでいる。叱奴氏については、赫連夏の武将に叱奴侯提の名があり、北魏を裏切って庾岳に討伐された纥奚部(高車とされるが鮮卑とも)の長が叱奴根、西魏の将に叱奴興の名がある。北方異民族なのは間違いない。 西魏の文帝に嫁いだ娘が居る。匈奴系の竇氏に嫁いだ娘がおり、さら...
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