南朝劉宋– tag –
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拓跋燾南伐 西暦450年における南北朝の重大局面
西暦450年は、北魏および南朝劉宋の両者にとって極めて重大な局面だったと思うのだが、あまり注目されていない印象がある。今回、資治通鑑で何が起きたかを実際に確認することとした。長文である。年は西暦だが、月は旧暦とする。 448年8月、平城(北魏の首都、山西省大同市)から1万里以上離れた西域の般悦国(中央アジアのテュルク系遊牧国家、北匈奴の末裔で後世のエフタルとされる)が北魏に遣使し、柔然を東西から挟撃することを請うた。拓跋燾(北魏の世祖・太武帝)はこれを許可し、国内外に戒厳令を発した... -
南朝創業紀 その1 劉裕の宋
劉裕の出自に関する記載は魏書(北朝の正史)と宋書(南朝の正史)で異なる。少なくとも名門の生まれではなかった。東晋を揺るがした孫恩の乱(五斗米道という道教勢力を中心に起こった乱)において、東晋の二大軍事組織の一方、北府軍を率いる劉牢之の部下として反乱軍に対して大暴れし、武名を轟かせた劉裕は将軍として名を連ね大いに出世した。 その後、二大軍事組織のもう一方、西府軍を統括する桓玄(桓温の息子)が政権を主導するようになった。上司の劉牢之は当初桓玄に付いたが、やがて後悔するようになり...
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