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孫権の皇帝即位には道理がある
孫権の皇帝即位になんの根拠も無いとする見解をしばしば見かけるため、記事を書くことにした。陳寿はなぜ「魏志」や「魏蜀志」でなく「三国志」にしたのか、その意図を読み取れていないからだ。田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」をまず読んでほしい。 221年、皇帝に即位したばかりの曹丕は、臣従していた孫権に対し、気前よく九錫(皇帝と同等の待遇を意味する9つの特典)を与えた。この時点で九錫を受けた前例は王莽と曹操しかない、この点が極めて重要である。劉氏による両漢王朝は約400年の歴史を持つ。曹魏... -
詳述 二宮の変
二宮の変。中国では二宮之争もしくは南魯党争の名称が一般的なようだ。三国時代に孫呉で起こった宮廷闘争である。多くの人が三国志に無関心となる諸葛亮死後の出来事であり、更にドロドロの内紛なので興味を惹かれる人は少ないようだ。私自身も大まかなところしか知らなかったため、資治通鑑を紐解いてみた。長文である。魏や蜀漢の重大イベントにも興味はあったが、約10年の長丁場なので省略した。呉の戦役についても簡略にとどめた。年は西暦だが、月は旧歴とする。 241年5月、呉の太子である孫登が死んだ。 242... -
孫呉の首都に関する考察
西暦200年、孫策死亡後に勢力を引き継いだ孫権は、当初の本拠地を呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)とした。ここで注目すべきは呉の四姓である。顧氏・陸氏は呉県を本貫地とする氏族である。朱氏・張氏は候補が複数あるのだが、両方に呉県を本貫地とする氏族が居る。孫氏は呉郡富春県(浙江省杭州市富陽区)出身であるが、孫堅・孫策は北方を転戦しており、孫策は陸氏の長老である陸康と対立する有様であった。孫策までと違い、呉県に根を下ろした孫権の姿勢は注目しておくべきだろう。 208年、黄祖を討伐し、揚州南...
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