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曹操にとって、劉備はどれほど重要な存在だったか
曹操から見た劉備にフォーカスし、三国志を引用しながら適当に放論してみる。 ・布請曰「明公所患不過於布、今已服矣、天下不足憂。明公将步、令布将騎、則天下不足定也」太祖有疑色。劉備進曰「明公不見布之事丁建陽及董太師乎」太祖頷之(呂布伝)曹操が歩兵を率いて、呂布が騎兵を率いる。降伏した呂布による提案は、人材マニアの曹操から見て大変魅力的だった。曹操が得意とした兵科は歩兵だった。孫子は曹操の愛読書として知られるが、軍の運用については歩兵ベースで議論されている。并州五原郡九原県(内モ... -
夏侯惇はなぜ重用されたか
三国志演義から正史に入ると、多くの人が両者に横たわる夏侯惇像の差に注目する。三国志演義では曹操陣営を代表する猛将であるのに対し、正史だととてもそうは思えないのだ。兗州を奪おうとした呂布に抵抗を試みたものの捕虜となる、呂布陣営から攻撃を受ける劉備を救援しようとして高順に敗北、劉表傘下時代の劉備に博望坡(現在の河南省南陽市)で敗北と、夏侯惇の軍功は今一つパッとしない。しかしながら、曹操は不動のNo.2というかほぼ同格の存在として夏侯惇を遇し、曹丕も武官の頂点である大将軍という地位... -
曹操による徐州虐殺の影響と謎
徐州虐殺の影響①:徐州統治の難化 曹操が徐州で行った住民虐殺行為は、以後の徐州支配を難しくした。 昌豨は度々曹操に背いた人物として知られているが、根拠地は徐州東海郡である。徐州住民の曹操に対する嫌悪感は相当のものであったのだろう。また、昌豨の反乱については劉備に呼応したものがある。劉備は徐州で善政を敷いており、再来を待望する民意があったとしても不思議はない。曹操自身も、劉備の大器ぶりを誰よりも評価していた。曹操がなぜ昌豨に厳罰を下さなかったか、その心の内はある程度察せられる。...
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