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魏晋南北朝の名包囲 その1 司馬昭 諸葛誕の乱
都市や城塞に対する包囲(siege)は歴史上何度も行われているが、外部からの救援勢力によって難易度が一変する。 このシリーズでは、魏晋南北朝でそういった高度な包囲戦を成功させた名将達の采配を振り返る。1回目は司馬昭による諸葛誕の乱を取り上げる。司馬氏に対する淮南三叛の3番目という政治的な意味合いから評価されることが多いけれども、内容的に非常に面白い戦いで、司馬昭は将帥として凄まじいと実感できる名包囲である。 都督として揚州の軍権を掌握していた諸葛誕は、司馬氏でなく曹氏への忠誠を明確... -
夏侯惇はなぜ重用されたか
三国志演義から正史に入ると、多くの人が両者に横たわる夏侯惇像の差に注目する。三国志演義では曹操陣営を代表する猛将であるのに対し、正史だととてもそうは思えないのだ。兗州を奪おうとした呂布に抵抗を試みたものの捕虜となる、呂布陣営から攻撃を受ける劉備を救援しようとして高順に敗北、劉表傘下時代の劉備に博望坡(現在の河南省南陽市)で敗北と、夏侯惇の軍功は今一つパッとしない。しかしながら、曹操は不動のNo.2というかほぼ同格の存在として夏侯惇を遇し、曹丕も武官の頂点である大将軍という地位... -
賈詡に失策はあったのか
結論から先に述べると、賈詡に失策は無かった。 賈詡は董卓・李傕・段煨・張繍に仕えた後、曹操・曹丕の2代にわたり魏の重臣として活躍した。 李傕による長安奪取、曹操が九死に一生を得た修羅場である宛城の戦い、張繍が袁紹でなく曹操に帰順したこと、官渡の戦いにおける烏巣襲撃、潼関の戦いにおける馬超と韓遂との離間、いずれも賈詡の献策に基づいており、その策謀スキルは群を抜いていた。また、嫡子の曹丕を太子に薦め、私党を作らず生涯を全うするなど、保身や処世の観点からも常に適切な動きをしていた。... -
曹操による徐州虐殺の影響と謎
徐州虐殺の影響①:徐州統治の難化 曹操が徐州で行った住民虐殺行為は、以後の徐州支配を難しくした。 昌豨は度々曹操に背いた人物として知られているが、根拠地は徐州東海郡である。徐州住民の曹操に対する嫌悪感は相当のものであったのだろう。また、昌豨の反乱については劉備に呼応したものがある。劉備は徐州で善政を敷いており、再来を待望する民意があったとしても不思議はない。曹操自身も、劉備の大器ぶりを誰よりも評価していた。曹操がなぜ昌豨に厳罰を下さなかったか、その心の内はある程度察せられる。... -
後漢から西晋まで、その根底にあるもの
後漢(*)から曹魏、曹魏から西晋に至る王朝交代には、歴史的必然性があった。その背景について概説する。 *五代十国の後漢と区別するため、このブログにおいて前漢・後漢ではなく、西漢・東漢と表記する 長期政権となった東漢だが、外戚の専断に対するカウンターとして皇帝権の強化を目指した、宦官の跋扈はその結果である。また、行財政改革目的もあったようだが、売官・汚職などが横行するようになっていた。そして、こうした風潮を正そうとした清流派官僚は党錮の禁により弾圧された。 そのため、東漢政府は...
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