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前回からの続きで崔猷についても調べてみた
前回の王思政に関する記事で、長社県(現在の河南省許昌市長葛市)に駐屯しようとした王思政の判断に否を突き付けた崔猷。彼に興味を持ったため、周書・北史からユルく引用しながら足跡を辿ってみた。 崔猷の生涯(北魏~隋、周書巻35列伝第27/北史巻32列伝第20)崔猷の字は宣猷、博陵郡安平県(現在の河北省衡水市安平県)の人、漢の尚書崔寔の十二世孫である。(父祖・肩書系は割愛)猷は年少時より学問を好み、物静かでエレガントな佇まいにあっても性格は剛直で、軍略の才もあった。北魏で任官されていたが、... -
慕容紹宗と王思政 東魏・西魏の激闘で失われた東西の名将
慕容紹宗慕容紹宗は前燕の名将かつ名宰相、慕容恪の末裔とされる。爾朱栄相手に洛陽での誅殺を諫止したり、爾朱兆相手に高歓への警戒を説いたり、各所で適切な助言をしているが、聞き入れられなかった。爾朱兆の敗北後は高歓に投降し、その後東魏の将として各地で戦勝を得てきた。547年、東魏の黄河以南を任されていた侯景が、高歓死後に息子の高澄に対し乱を起こした。侯景の言動からすると、高歓は主君でなく同僚であり、まして息子の高澄に従うつもりは全くなかったようだ。ただ、生前の高歓は侯景が高澄に従わ... -
宇文泰 善手を積み重ね関中政権による統一を決定づけた南北朝最高の指導者
宇文泰の祖先は宇文部の族長家系である。宇文部はもともと匈奴だったが、その後鮮卑に所属し、中華東北部に割拠した。鮮卑慕容部と鎬を削ったが敗北し燕に編入。その後は北魏に属し、宇文泰の父である宇文肱は武川鎮に配せられていた。宇文肱は六鎮の乱で鎮圧側→反乱側(鮮于修礼)と立場を変え、その後鎮圧軍との闘いで戦死した。宇文泰は乱を鎮圧した爾朱栄傘下として、武川軍主の家系である賀抜岳に従った。爾朱栄は暗殺され、高歓が北魏の実権を握っていった。賀抜岳は関中(渭水盆地、現在の陝西省付近)で自...
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