突厥 南北朝以後に中華の命運を大きく左右した遊牧民族

突厥はテュルク系民族で、遡ると五胡十六国で河南周囲に割拠(翟魏)した丁零に行き着くとされる。当初は柔然の支配下で鍛鉄に従事したが、柔然が北魏や高車(テュルク系遊牧民族)と対立するなかで、密かに力を蓄えていた。

突厥の有力者だった土門は柔然から妻を迎えようとしたが、柔然は身分の違いを主張して拒否した。そのため、土門は西魏から妻を迎えて後ろ盾とした上で柔然を攻撃した。柔然は突厥に敗れて北斉に逃げ込み、土門は可汗(北方でのリーダー)を襲名した。北方の主役交代を告げる革命的イベントだった。
突厥はサーサーン(ササン朝ペルシャ)と結んでエフタルを滅ぼすなど、西域でも強い影響力を示した。

北方・西域を支配し、絶大な騎兵戦力を保有するようになった突厥に対し、北斉・北周の両国は和親を試みたが、当初は国としての成り立ちもあり、北周とより親密だった。
北斉・北周・南朝陳による三国鼎立はしばしば注目されているが、そのパワーバランスを左右するファクターとして突厥の存在は非常に重要と考えられる。
その後、仏教を介して北斉との繋がりも増していき、北斉が亡びた時、突厥はその皇族らを受け入れた。

華北の統一は突厥の命運を大きく変えた。北周から禅譲を受けた隋は、謀略により突厥国内を離間させ、結果として突厥は北方を支配する東突厥と西域を支配する西突厥に分裂した。

中華に近い東突厥は、隋との対立で消耗したものの、隋が高句麗遠征の失敗から崩壊したため再び存在感を増していった。中華各所に自立した群雄達は、東突厥の下風に立ちつつ軍事的支援を引き出そうとした。李淵の唐もその勢力の1つだったのである。
しかしながら、中華における強大な国家の誕生は突厥の本意と異なり、成長した唐と東突厥は対立するようになった。李世民(唐の太宗)は鉄勒(テュルク系遊牧民族、高車と同系とされる)等の諸民族を巻き込みつつ、東突厥に大規模な攻勢を仕掛けた。630年、これにより東突厥は一時滅びた(突厥第一可汗国の滅亡)。657年、唐は西突厥にも攻撃をかけ、その可汗を殺害、西突厥も事実上滅びた。

武則天が中華を支配した頃(682年)、東突厥が再興した(突厥第二可汗国の成立)。
当時は唐周・東突厥・吐蕃(チベット系王朝)の三国関係が中華と周辺の安全保障を規定した。
復興した東突厥は突厥文字を開発し、これは北アジアの遊牧民族が用いた最初の文字とされる。

その後の東突厥は、内紛・頻繁な可汗の交代・諸民族の台頭などにより次第に弱体化し、744年にウイグル(回紇:テュルク系遊牧民族、鉄勒の1部族だったが、やがて鉄勒全体も回紇と呼ばれるようになった)を中心とした部族連合が東突厥を滅ぼした。

こうして、突厥は北方・西域における主役の座から退場した一方、中華において更に歴史を紡いでいった。
755年から763年にかけて起こった安史の乱、この乱を主導した安禄山・史思明は共に突厥とソグド人(中央アジアのイラン系民族、シルクロード交易やそれを背景とした高い文明力で当時活躍していた)の混血である。彼らは李隆基(唐の玄宗)に反旗を翻して唐の首都である長安を掌握し、燕の皇帝を名乗った。
この時、突厥可汗の一族だった阿史那氏が燕の武将として活動している。それに対し、唐はウイグルの支援を受けることで、燕の勢力を一掃した。
安史の乱は、単なる内乱でなく、突厥・ソグド連合と鮮卑・ウイグル連合による中華の主導権争いと見做すこともできよう。

唐末に朱全忠(唐を滅ぼし後梁を建国)と天下を争った李克用、彼は西突厥の一部族であった沙陀部の出身である。五代のうちで後唐(李克用の後裔)・後晋・後漢は沙陀部を皇帝に戴く国家群であった。それに続く後周、そして統一国家の北宋、これらの皇帝は沙陀部でないように扱われている(趙匡胤が沙陀部の血をひく可能性は指摘されている)が、沙陀部の軍事力を背景としており、ある意味で突厥の系譜を継いだ王朝だった。
中華王朝を運営する突厥系軍閥、ウイグルに続いて北方の主役となった契丹(遼)、五代の歴史はこの両者の動きで大方説明できる。契丹と力比べを繰り返す展開は、北宋成立後も引き継がれた。

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