西暦450年は、北魏および南朝劉宋の両者にとって極めて重大な局面だったと思うのだが、あまり注目されていない印象がある。
今回、資治通鑑で何が起きたかを実際に確認することとした。長文である。
年は西暦だが、月は旧暦とする。
448年
8月、平城(北魏の首都、山西省大同市)から1万里以上離れた西域の般悦国(中央アジアのテュルク系遊牧国家、北匈奴の末裔で後世のエフタルとされる)が北魏に遣使し、柔然を東西から挟撃することを請うた。拓跋燾(北魏の世祖・太武帝)はこれを許可し、国内外に戒厳令を発した。
9月、拓跋燾は陰山山脈に行った。
北魏は焉耆(カラシャール、新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州焉耆回族自治県にあったオアシス都市国家)を大いに破り、焉耆王は亀茲(クチャ、新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ市にあったオアシス都市国家)に逃げた。
12月、北魏軍は焉耆から亀茲に西討し、西域の諸族は北魏に服した。
北魏の太子・拓跋晃が陰山の行宮(皇帝の行幸に伴って設けられる仮の宮室)に参朝し、拓跋燾の柔然討伐に従った。受降城(西漢武帝の頃、内モンゴル自治区包頭市に築かれた)まで至ったが、柔然は見つからなかった。受降城内に兵糧を積んで、戌(犬ではなく、戌主という武官職に率いられた守兵と解釈すべきか)を置いて帰った。
449年
1月、漠南(ゴビ砂漠以南)で正月の宴を行った後、北魏は再び柔然を討伐した。高涼王・拓跋那は東道を出て、略陽王・拓跋羯兒は西道を出た。拓跋燾と拓跋晃は涿邪山(モンゴル国マンダルゴビ市にある山)を出て、数千里行軍した。柔然の可汗(リーダー)である處羅は恐れて遠くへ遁れた。
2月、拓跋燾は平城に戻った。
5月、拓跋燾は陰山へ行った。
南朝劉宋の劉義隆(太祖・文帝)は中原(黄河中下流域南岸の平野部)の経略を望み、群臣は献策を争った。彭城(江蘇省徐州市)の太守である王玄謨は、劉義隆に対し、封禅(帝王が政治上の成功を天地に報告する国家的祭典、天を祀る「封」と地を祀る「禅」の組み合わせ)を勧めた。その際に、西漢の霍去病が匈奴征伐後、狼居胥山(モンゴルのヘンティ山脈)で封、姑衍山(モンゴル国ウランバートル東の山)で禅を行った、いわゆる武将封禅の前例を持ち出した。それに対し、御史中丞の袁淑は、古国の趙・魏(いずれも北魏支配)を席巻してから泰山で封禅を行うよう提言した。
7月、劉宋は広陵王・劉誕を雍州刺史とした。襄陽(湖北省襄陽市)が関中(長安を擁する渭水盆地周囲)・黄河流域に外接していることから、そこに資力を収集するため、江州軍府を廃して文武を悉く雍州に配した。湘州の台(行台=尚書省の出先機関か?)から得られた租税は、悉く襄陽に支給された。
9月、拓跋燾が柔然を討伐した。拓跋那は東道を出て、拓跋羯兒は中道を出た。柔然の處羅可汗は国内の精兵を総動員し、拓跋那を数十重に包囲したが。拓跋那は塹壕を掘って堅守した。處羅は数度挑んだものの敗れた。拓跋那が少数の兵であるにもかかわらず堅守を続けているため、柔然は大軍の到着を待っていると考え、夜に囲みを解いて去った。拓跋那がここに追撃をかけること9日9晩。處羅はますます恐れ、輜重を捨てて、遠く穹隆嶺(現在地を同定できず)を越えて逃げた。拓跋那は柔然軍の輜重を収めて軍を返し、拓跋燾と広澤(現在地を同定できず)で合流した。拓跋羯兒は柔然の民と牧畜を百万あまり収めた。これより柔然は衰弱し、魏の国境をあえて侵さなくなった。
12月、拓跋燾は平城に戻った。
沔北(長江の重要な支流である沔水=漢水の北側)諸山の蛮(南方系異民族か)が劉宋の雍州を侵した。建威将軍の沈慶之は、柳元景・宗慤ら2万人を率いてこの討伐を試みた。蛮は山に籠って矢石を放ち官軍不利だったが、沈慶之は木を斬って鼓を大きく鳴らしながら進軍し、蛮軍の恐れに乗じて撃破した。
450年
1月、拓跋燾が洛陽(河南省洛陽市)に行った。
沈慶之は冬から春にかけて雍州の蛮をしばしば破った。斬首3千級、捕虜2万8千余口、降伏した者は2万5千余戸だった。蛮軍は要害に籠って抵抗したが、食糧が尽きたため劉宋に降伏した。彼らは建康(江蘇省南京市)に移住させられた。
2月、劉宋への侵攻を企図した拓跋燾は、梁川(梁城郡=内モンゴル自治区涼城県付近か)で大規模な猟を行った。劉義隆はこの報告を受け、穎水・泗水流域の諸郡に対し詔勅を下した「もし魏軍が少数なら各々堅守せよ、大軍なら民を寿陽(安徽省六安市寿県)に移住させよ」
拓跋燾は自ら歩兵騎兵10万を率いてやってきた。南頓太守の鄭琨・潁川太守の鄭道隠はともに城を棄てて逃げた。この時、豫州刺史である南平王・劉鑠が寿陽を鎮守しており、彼は左軍行参軍・陳憲を派遣し懸瓠(河南省駐馬店市汝南県)の守備に当てていた。懸瓠城の兵士は千人に満たず、拓跋燾はこれを包囲した。
3月、劉宋は戦時体制に移行したため、百官の俸給を3分の1減らした。
北魏は懸瓠を昼夜攻め、高楼や臨時の城を多数造り懸瓠城に射かけた。矢は雨のごとく降り、水を汲むにも戸を背負わねばならなかった。魏軍は鉤を付けた衝車(車両型の攻城兵器)で城壁を牽引し、南城を壊した。陳憲は内に女牆(低い垣)を、外に立木柵を設け、魏軍を拒んだ。魏軍は塹壕を埋め、城に登って肉薄した。陳憲は苦戦する将士らを督戦し、屍を積んでバリケードとした。魏軍も屍の上に乗って城に上がろうとした。陳憲の鋭気はますます奮い、戦士は皆1人で敵兵100人に当たった。魏軍の死者は1万に上ったが、守兵も過半数が死んだ。
拓跋燾は永昌王・拓跋仁に歩兵騎兵1万余りを率いさせ、6郡から掠奪した上で汝陽(河南省洛陽市汝陽県)に駐屯させた。時に徐州刺史である武陵王・劉駿が彭城を鎮守しており、劉義隆からの命を受け、馬1500を徴発すると、参軍の劉泰之ら諸将に汝陽を攻撃させた。魏軍は寿陽の動向を注視しており、彭城の宋軍に備えていなかった。
劉泰之らは密かに進軍して汝陽を攻撃し、3千余人を斬って、輜重を焼いた。魏軍は東に逃げたが、劉泰之らに後詰めがないことを察知すると反撃を開始した。垣謙之による退却がきっかけで宋軍は壊乱し、劉泰之は殺され、臧肇之は溺死、程天祚は捕らえられた。
拓跋燾は懸瓠を42日間攻め、劉義隆は南平内史の臧質を寿陽に派遣し、安蛮司馬の劉康祖と共に懸瓠を救援させた。拓跋燾は殿中尚書の任城公・乞地真に兵を与えて、臧質らへの迎撃を試みた。臧質らは乞地真を攻撃し斬った。
4月、拓跋燾は兵を退き平城に戻った。
安北将軍の武陵王・劉駿は鎮軍将軍に降格となり、垣謙之は誅殺された。それに対し、陳憲は龍驤将軍となり、汝南・新蔡2郡の太守となった。
拓跋燾は劉義隆に書を送った「以前に蓋呉が反逆し(445-446年 盧水胡=北涼残党の蓋呉が北魏に反乱を起こした、拓跋燾廃仏の契機になったとされる)、関中・隴(甘粛省南東部)を扇動した。お前は蓋呉を唆し、彼を軍事的に支援し、贈り物で彼らを動かそうとした。自ら攻めてこず、金品で我が辺境の民を誘惑するのは卑怯ではないか。お前が劉氏の血を絶やしたくないなら、長江以北を我に割譲し、守兵を収めて南に渡らせるがよい。江南は安堵してやろう。そうでなければ来秋に揚州を攻め取る。わが大軍の前にどうすることも出来まい。お前はかつて北の柔然と通じ、西の夏・北涼・吐谷渾と結び、東の北燕・高句麗と連なった。このうち数国はみな私が滅ぼした。孤立したお前だけで私に対抗できようか。柔然の呉提・吐賀真はみな既に死んだので、私はこれより北征を行い、まず有足の寇(柔然のこと、馬が多いことから)を除く。お前がもし我が命に従わなければ、軍を往復してお前の国を取る。お前は無足(馬がない)だから、後回しにするのだ。お前は塹壕を掘り、城垣を築いて守ることしかできまい。私はこれから堂々と揚州に向かってこれを取る、お前はこっそり逃げるのがよいだろう。お前が寄越したスパイを私は捕らえたが還してやろう、彼が何を見たか詳しく問うがよい。お前は仇池を得たが、その勇猛さを使いこなせず、殺してしまった(443年の出来事)。やはりお前は私に及ばない。お前は常に私と戦いたがっているが、私はそれほど愚かでない、苻堅とは違うのだ、いつお前と交戦しようか。昼は騎兵で囲むが、夜はお前から百里離れて宿営する。呉の人(劉宋軍)は軍営を襲うのに長けているが、夜襲をかけようと思っても50里を過ぎないうちに夜が明けるだろう。お前が募兵した者達の首は、私が所有することになるだろう。お前が公爵だったころの旧臣(謝晦・檀道済ら)は、老いたといえどなお智策があった。今彼らが悉く殺されたことを知った。これは天が私を助けたのだ。お前を捕えても殺さずにおいてやる。我が国にまじないの上手いインド僧がいるけれども、鬼を捕えて我が方に来ると言っていた」
侍中・左衛将軍の江湛が吏部尚書に遷った。江湛は公平・清廉な性格で、尚書僕射の徐湛之と並んで劉義隆の寵信を得ていた。そのため、江・徐と並び称された。
北魏の司徒である崔浩は、自身の才略を恃み、拓跋燾からの寵任もあり、朝権を専制した。崔浩の推薦した冀・定・相・幽・并の5州の人士数十人がみな郡守まで昇進した。太子の拓跋晃が言った「先徴の人(游雅・李霊・高允らを指す)が州郡の人選でも優先されている。在職して久しいが成果を得られていない。郡県の補欠に際しては、新徴の人を代わりに郎吏とし、守令・治民の経験を積ませるのがよい」
崔浩は人を派遣して拓跋晃の主張と強く争った。中書侍郎・領著作郎の高允はこれを聞き、東宮博士の管恬に言った「崔公を免じないのか、いやしくも彼の非を挙げて、彼の恩恵と比べて上としようとは、このような考えに耐えられようか」
拓跋燾は崔浩を監秘書事とし、高允らと国記を共撰させた。拓跋燾は言った「実録に従って務めよ」
著作令史の閔湛・郗標は性格が巧佞(ことば巧みに人にへつらう)で、崔浩の寵信を得ていた。かつて崔浩が易経・論語・詩経・書経の註を施した時、閔湛・郗標はこのように上疎(事情や意見を述べた書状を上の者に差し出すこと、今回の相手は拓跋燾)した「馬融・鄭玄・王粛・賈逵といえども崔浩の精微には及ばない、境内に諸書を収めて、崔浩の註釈書を分配し、天下に彼の業績を習わせたい。併せて勅令にて礼伝(礼記か)の註を崔浩に行わせてほしい」
崔浩もまた閔湛・郗標に著述の才があると推薦した。閔湛・郗標は崔浩の国史を石に刻んで直筆を明らかにするよう薦めた。高允はこれを聞き、著作郎の宗欽に言った「閔湛・郗標の所業は寸分の間だが、崔門に万世の禍いとなるのを恐れる、我々も殺されるのではないか」
崔浩はついに閔湛・郗標の案を採用し、平城西にあった祭天行事用の壇より東側に国史の刻まれた石を立てた。1辺が百歩で、功(工夫?)三百万を用いた。崔浩は北魏の過去を詳細かつ事実に基づいて書き、道路上に並べ、往来して見た者は皆これを読み上げた。北人たちに憤怒しない者は無く、崔浩が国家の悪事を暴いていると相次いで拓跋燾へ讒言した。拓跋燾は大いに怒り、役人に崔浩や秘書郎吏らの罪状を按分させた。
遼東公の翟黒子は帝の寵があり、并州(北魏の首都平城が属する)に奉じた使者が布千匹を受けるほどであった。事件が発覚し、翟黒子は高允と謀って言った「主上(拓跋燾)が我に問う、まさに事実を告げるべきか、それを避けるべきか」
高允は言った「あなたは帷幄(参謀)の寵臣で、罪は有れども首実(事実に基づいて自首)すれば、許されるかもしれない、重ねて欺罔(あざむく、だます)してはいけない」
中書侍郎の崔覧・公孫質は言った「もし首実したら、罪は計り知れない、これを避けるにしかず」
翟黒子は高允を怨んで言った「君は人を死地に誘おうとした」
翟黒子は拓跋燾と謁見し、事実を答えなかった。拓跋燾は怒り、彼を殺した。
拓跋燾は高允を太子・拓跋晃の教育係に据え、経書の授業を行わせていた。崔浩が収監された際に、拓跋晃は高允を東宮に召し寄せ、そこに留めて泊まらせた。明朝、共に入朝し、宮門に至ると、高允に言った「入って至尊(拓跋燾)にまみえれば、私は自らあなたを導く。至尊からの追及を逃れられるかは、ただ私の言葉だけに依る」
高允は言った「どういうことか」
拓跋晃は言った「入ればおのずと分かる」
拓跋晃は拓跋燾に謁見し言った「高允は小心で慎密(つつしみ深く注意深い)かつ微賤(身分・地位が低い)である。責任は崔浩にあり、高允の死は許されたい」
拓跋燾は高允を召して問うた「国書はみな崔浩によるものか」
高允は答えて言った「太祖記(拓跋珪)は前著作郎の鄧淵による。先帝記(拓跋嗣)と今記(拓跋燾)は私と崔浩の共著である。崔浩は公務で多忙につき、国史は総裁に止まりがちで、著述した部分は私の方が崔浩より多い」
拓跋燾は怒って言った「高允の罪は崔浩より重い、生かしておけようか」
拓跋晃は恐れて言った「天子の威光は厳重にして、高允は小臣、迷乱しては次を失うのみ。私がかつて問うた時は、みな崔浩の所業であると言っていた」
拓跋燾は高允に問うた「東宮の言うことを信じるべきか」
高允は答えて言った「私の罪は族滅に相当するが、あえて虚盲をなさない。殿下は私から受講すること久しく、私を哀れんで、私の生存を願ったのみ。事実を私に問うたことはなく、私もこのことについて言っていない、あえて迷乱せず」
拓跋燾は拓跋晃を顧みて言った「直なるかな。これ人情の難しいところだが、高允はこれをなすことが出来る。死に望んで言辞を変えないのは、信である。臣として君を欺かないのは貞である。特別にその罪を除き、これを褒めよう」
高允はついに許された。
崔浩が拓跋燾の前に召し出され、対面の上で詰問された。崔浩は恐れ惑い答えられなかった。高允が色々なことについて十分に説き明かし、みな条理があった。拓跋燾は高允に命じ詔勅を作らせた。内容は、崔浩および僚属の宗欽・段承根ら、下はしもべの役人まで、およそ128人の誅殺であり、みな広く親族まで処刑するものであった。
高允は疑いを持って詔勅を作らなかった。拓跋燾がしきりに催促したところ、高允は詔勅作成前にいま一度謁見を望んだ。拓跋燾が引見したところ、高允は言った「崔浩の坐するところ、もし更に余罪があるのなら、私はそれを知らない。もし直にして国家の悪事に触れる罪を犯したのであれば、死ぬほどの罪ではない」
拓跋燾は怒り、武士に命じて高允を捕えさせた。拓跋晃は高允のために拝して請い、拓跋燾は怒りの意を解いて言った「この人(高允か拓跋晃か)がいなければ、数千人死んでいただろう」
6月、下記の者達を誅殺する詔勅が下された。清河崔氏および崔浩と同姓の者は遠近問わず対象となった。崔浩の姻戚であった范陽盧氏・太原郭氏・河東柳氏、彼らは親族も対象となった。他の者達は本人のみの誅殺に止まった。
崔浩を縛って檻車に置き、平城城南(北魏の処刑は城南で行われた)に送った。衛士数十人が崔浩の上に小便をかけ、口やかましく罵声を浴びせ、道中に聞こえた。宗欽は刑に臨んで嘆じて言った「高允はほとんど聖なのか」
他日、拓跋晃は高允をなじって言った「人はまたまさに機を知るべし。私はあなたのために死を免れさせようと思って、端緒を開いたのに、あなたは従わず、皇帝をあのように激怒させた。これを思いだすたびに動悸がする」
高允は言った「史者は、人主の善悪を記し、将来の勤戒とするのである。故に人主は後世の評価を恐れ忌むところから、彼自身の挙動措置も慎ましいものとなる。崔浩は聖恩を一身に受けながら、私欲で彼の廉潔は没し、愛憎で彼の公直は蔽われた。これは崔浩の責任である。ただ、朝廷の起居を記し、国家の得失を言う点で、崔浩は史家としての在り方に、大きな過ちが無かった。私は崔浩と同じことをしており、死と生・栄誉と汚辱に異なる部分は無いはずである。殿下(拓跋晃)のおかげで罪を免れたが、これは私の願うところではなかった」
拓跋晃は感動しながらため息をついた。高允は退出して、他人に言った「私は東宮の指導者を止める。翟黒子のようになるのが怖いから」
冀州刺史の崔賾、武城の崔模は、崔浩と同姓だが別の一族だった。崔浩は彼らを侮り、不仲だった。崔浩の誅殺にあたって、この2家は免れた。
拓跋燾は陰山に北巡した。拓跋燾は既に崔浩の誅殺を悔やんでいた。北部尚書の李孝伯が重病から死んだという報せがあった。拓跋燾は李孝伯を悼んでいった「李孝伯は惜しむべきかな」
その後言った「朕は失言した。崔司徒(崔浩)こそ惜しむべきで、李孝伯は哀しむべきだ」
李孝伯は李順の従弟で、崔浩の誅殺より軍事的な謀はみな李孝伯から出ていた、拓跋燾の待遇は崔浩に次いだ。
かつて、車帥の大帥である車伊洛が北魏に服した。魏は車伊洛を平西将軍・前部王とした。車伊洛は入朝しようとしたが、沮渠無諱がその道を阻んだため、車伊洛は沮渠無諱としばしば戦い、これを撃破した。沮渠無諱が死ぬと、弟の沮渠安周が沮渠無諱の子・沮渠乾寿から兵を奪った。車伊洛は沮渠乾寿に人を遣わせて説得し、乾寿は500余家を率いて魏に奔った。車伊洛はまた、李宝の弟である李欽ら50余人を説得して魏に送った。車伊洛は西の焉耆(カラシャール、前出)に攻撃し、城の留守は息子の車歇に任せた。沮渠安周は柔然兵を率いて間道から車歇を襲い、その城を抜いた。車歇は車伊洛の許に走り、残兵を収めると、焉耆の鎮を保った。拓跋燾に上書した「沮渠氏の攻めるところとなってから、8年になる。百姓は餓えて困窮し、自力では存続できない。私はいま国を棄てて出奔しており、免れた者は僅かに3分の1、既に焉耆の東に到着し、救援を乞う」
拓跋燾は詔して焉耆の倉を開放し、車伊洛に物資を提供した。
吐谷渾王の慕利延が魏に迫られ、宋の劉義隆への上表で越巂(四川省西南部と雲南省東北部にまたがって置かれた郡)に入ることを求めた。劉義隆は許可したが、慕利延は来なかった。
劉義隆は魏の征伐を欲し、丹楊尹の徐湛之、吏部尚書の江湛、彭城太守の王玄謨らがこれに勤めた。左軍将軍の劉康祖は言った「年の暮れが近いので、明年を待つよう請う(南方の兵が寒候期に北伐することは、それだけで不利)」
劉義隆は言った「北方は虐政に苦慮しており、正義の人々が一緒に立ち上がっている。軍隊を1年止めて、正義の心を頓挫させてはいけない」
太子歩兵校尉の沈慶之が劉義隆を諫めて言った「我が軍は歩兵、かの軍は騎兵で、兵の勢いで敵わない。檀道成が度々行ったものの功は無かった。到彦之は利を失い帰った。いま測るに、王玄謨らでは両将に及ばない。六軍の勢いも往時を越えていない。王師(官軍)がひどく辱められるのを恐れる」
す劉義隆は言った「王師が度々屈したのは、別に理由があった。檀道成は自身の資財で賊軍を養っていた。到彦之は眼疾を抱えながら大軍を動かした。賊軍が恃みにするのは馬だけだ。今夏水浩汗(「この夏は水量が多く」だと思うが、「いま夏水=漢水の水量が多く」とも読める)、河は通りやすい。船を北に下れば、碻磝(山東省聊城市茌平区)まで必ずたどり着く。また、滑台(河南省安陽市滑県)の守勢は少なく、容易に抜くことができる。また、碻磝・滑台の2城は、敵の食糧が集積しており、虎牢・洛陽の堅固さも自然と失われる。初冬になったとしても、城で密に連携して守れば、魏の騎兵が黄河を渡って来ても、すぐに捕えることができる」
沈慶之は再び北伐の不可を固く述べたが、劉義隆は徐湛之・江湛にこれを論難させた。沈慶之は言った「国を治めることは家を治めることに例えられる。農耕については奴に問い、紡織については婢を訪ねる。陛下はいま国の征伐を欲しながら、白い顔の書生とこれを謀っている、なんということだ」
劉義隆は大笑いした。太子の劉劭および護軍将軍の蕭思話もまた諫めたが、劉義隆はこれらの諫言全てに従わなかった。
拓跋燾は劉義隆がまさに北伐しようとしていると聞き、劉義隆に書を送った「長い和解の日々だったが、お前は満足せず、我が辺境の民を誘引した。私はこの春に南巡し、混乱を収拾して帰った(同年春の懸瓠攻撃)。今お前が中山(河北省保定市定州市)・桑乾川(桑乾河、山西省北部と河北省西北部を流れる河川)に向かってくると聞いた。お前が勝手に行くのなら、こっちも送迎はしない。お前が今いるところに飽きたのなら、平城に来るがよい、こちらは揚州(建康の属する州)に行き、領地を入れ替えよう。お前は既に50歳だが家から出られず、自力でこちらに来られない、これは3歳の嬰児にも劣る、馬上で成長した我々鮮卑と比べられようか。与えるべき物は残っていないが、今狩猟馬12匹と氈(獣毛を用いたフェルト)・薬などを送ろう。お前がこちらに来るまでの道のりは遠く、馬が足りないだろうから乗るがよい、北地の風土が合わなければ薬で治療できよう」
7月、劉義隆は詔して言った「慮(北魏)は近頃、摧挫(さくざ:くじく、懸瓠攻撃の失敗を指す)したが、獣のような領土的野心は改まっていない。このごろ河朔(河北)・秦・雍の漢族・異民族から上奏文が届いている。それによると、困棘(困窮)を訴え、綏拯(綏=やすらか、拯=たすける:困棘との対置)を望み、密かに結託して王師(官軍、劉宋が正統政府という立場なので)を待っている。柔然も使者を寄越して、忠実に遠路を越え、掎角(掎=鹿の後ろ脚を取る、角=鹿の角を取る:劉宋と柔然で北魏を挟撃することを指す)を誓っている。天下経略の機会は、まさにこのタイミングである。王玄謨(寧朔将軍)は沈慶之(太子步兵校尉)・申坦(鎮軍諮議参軍)をひきいて水軍で黄河に入り、蕭斌(青・冀二州刺史)の指揮を受けよ。臧質(太子左衞率)と王方回(驍騎将軍)は許昌・洛陽まで真っすぐ至れ。劉駿(徐・兗二州刺史、武陵王、のちの孝武帝)と劉鑠(豫州刺史、南平王)は、おのおの諸部門を制御し東西から一斉に挙兵せよ。劉秀之(梁・南北秦三州刺史)は汧(汧水は陝西省にある渭水支流)・隴(隴山は甘粛省にある山)を動揺させろ。劉義恭(太尉、江夏王)は彭城より出て、衆軍(多くの軍、全軍と訳してもよいだろう)の節度(軍を指揮する皇帝の使い)とする」
この時の大軍起挙に、王・公・妃・公主および朝士・牧守(州牧と郡太守)から、下は富裕民に至るまで、おのおの金・帛(絹)・雑物を国に献上した。兵力不足につき、青・冀・徐・豫・南兗・北兗の6州からことごとく徴発し、三五民丁(胡三省注では男性3人につき1人、5人に2人を徴発する方式とあるが、実際には15人に1人であったという、渡辺信一郎 「三五発卒攷実」)、雇ってしばらく行かせ、符(召集令状)が届いてから10日の準備期間が設けられた。長江付近の5郡は広陵(江蘇省淮安市および揚州市一帯)に集め、淮水付近の3郡は盱眙(江蘇省淮安市盱眙県)に集めた。また馬と兵を広く募り、応じた者には厚く賞した。役人は軍資が不十分なことを奏上し、揚・南徐・南兗・江の4州では、富豪で財産が50万(銭か?)以上の家、僧尼で20万以上の者から、財産の4分の1を借り、戦争が終息したら還すとした(ここの訳は自信がない 原文:富民家貲滿五十萬,僧尼滿二十萬,並四分借一,事息卽還)。
建武司馬の申元吉は兵を率いて碻磝に赴いた。魏の済州刺史である王買徳(赫連勃勃の頃に活躍した夏の名将、時代がかけ離れており誤字・別人の可能性あり)は城を棄てて逃げた。蕭斌は将軍の崔猛を派遣して楽安(山東省の淄博市・浜州市・東営市にまたがる地域)を攻め、魏の青州刺史である張淮之もまた城を棄てて逃げた。
蕭斌は沈慶之と碻磝の留守を担当し、王玄謨を滑台に進めた上で包囲させた。雍州刺史・隨王である劉誕は中兵参軍の柳元景、振威将軍の尹顕祖、奮武将軍の曾方平を派遣し、建武将軍の薛安都と略陽太守の龐法起は兵を率いて弘農(河南省三門峡市霊宝市)から出た。後軍外兵参軍の龐季明は、70余歳だったが、関中の豪族だったため、自ら長安に入って異民族・漢族を招集することを請い、劉誕はこれを許可した。龐季明は貲谷(後述の盧氏県にある南山の南)から盧氏(河南省三門峡市盧氏県)に入り、盧氏の民である趙難が彼を受け入れた。龐季明は士民を誘說(言葉巧みにそそのかすこと)し、応じる者は甚だ多かった。薛安都らはこれに乗じて、熊耳山(盧氏県の東にある山)を出て、柳元景の兵がそれに続いた。豫州刺史・南平王の劉鑠は、中兵参軍の胡盛之を汝南から出兵させると、梁坦を上蔡(河南省駐馬店市上蔡県)から出兵させ長社(河南省許昌市長葛市)へ向かわせた。魏の荊州刺史である魯爽が長社を鎮守していたが、城を棄てて逃げた。幢主(劉宋末に設けられた武官の官名)の王陽兒が魏の豫州刺史である僕蘭を攻撃し、撃破した。僕蘭は虎牢(河南省鄭州市滎陽市の要衝)へ逃げた。劉鑠は安蛮司馬の劉康祖を派遣し、梁坦を助けさせ、進軍の上で虎牢に迫った。
魏の群臣は宋の侵攻があるのを聞くと、派兵して黄河周囲の穀物・帛を救うよう拓跋燾に進言した。拓跋燾は言った「馬は今まだ肥えておらず、天候もまだ暑く、急いで出撃しても決して功は得られない。もし宋兵の襲来が止まらなければ、陰山まで退いてこれを避けるまで。国人(北の荒れ地から来た人種、鮮卑を指す)は元々羊皮の袴を着ていた、綿絹が何の役に立とうか。戦争が延びて10月になったら、我に憂いは無い」
9月、拓跋燾は自ら兵を率いて滑台を救援するために南下した。太子・拓跋晃に命じて漠南に駐屯させ、柔然に備えた。呉王・拓跋余に平城を守らせた。魏は州郡から兵5万を徴発し、諸軍に分け与えた。
王玄謨の軍は勢いが甚だ盛んで、軍の有する器械も精密かつ厳格だったが、王玄謨本人は貪欲で無用な殺しを好んだ。滑台を包囲した当初、城中には茅屋が多かったため、兵達は火矢でこれを焼くことを要請した。王玄謨は言った「あれは私の財産だ、どうして急にこれを焼くのか」
城中は屋根を撤去して、穴に対処した。
当時、黄河・洛水の民は競って宋へ租穀を拠出し、武器を持って参加するものが1日に千人を数えるほどだった。王玄謨は彼らを軍に編入せず、私用に配した。これにより人々は失望した。滑台への攻城戦が数か月になったが降すことができず、魏の救援がまさに到着するという報告を受け、皆は車を徴発して軍営とすることを請うたが、王玄謨は従わなかった。
10月、拓跋燾が枋頭(河南省安陽市、桓温と慕容垂が衝突した古戦場)に到着し、関内侯で代人の陸真ら数人に包囲を突破させ、滑台に潜入させると城中を慰撫した。また、陸真は滑台城に登って王玄謨の軍営を偵察すると、戻って拓跋燾に報告した。拓跋燾は黄河を渡り、兵百万を号し、攻め太鼓の音は天地を震わせた。王玄謨は恐れて退走した。魏軍はこれを追撃し、死者は一万を超え、部下達は散り散りになり、放棄された軍の装備が山積みとなった。
これより先に、王玄謨は鍾離太守の垣護之に船百隻を与え、前鋒として、滑台より120里南西の石済に籠らせていた。垣護之は魏兵がまさに来着しようとしていると聞くと、早馬を出して王玄謨に急攻を勧め言った「昔、武皇(劉裕)が広固(南燕の首都)を攻めた時、戦没者は甚だ多かった。まして今は刻限が迫っており、兵士の負傷や疲労などに構っていられようか。急いで滑台城を落とされたい」
王玄謨は従わなかった。
王玄謨の敗退に及んで、垣護之に報告する暇さえなかった。魏軍は王玄謨の戦艦を得ると、鉄の鎖で3重に連結して黄河を封鎖し、垣護之の帰路を断った。黄河の流れは急で、垣護之は中流より下り、鉄鎖に至る度に長柯斧(斧の一種)でこれを斬った。魏軍は垣護之を止めることが出来ず、垣護之は1隻失ったが、残りは保全して戻った。
蕭斌は沈慶之に兵5千を与え王玄謨の救援に向かわせようとした。沈慶之は言った「王玄謨の兵は疲労し、賊軍が既に迫っている。1万の兵がいれば進むこともできようが、小軍の派遣は無益だ」
蕭斌はかたくなに沈慶之を派遣した。
逃げ帰ってきた王玄謨に会うと、蕭斌は彼を斬ろうとし、沈慶之が固く諫めて言った「仏狸(拓跋燾の字)の威は天下を震わせ、百万の兵が控えている、王玄謨に何が出来たろうか。戦将を殺して自軍を弱くするのは良計といえない」
蕭斌は王玄謨の処刑を取りやめた。
蕭斌は碻磝の固守を欲し、沈慶之は言った「いま青州・冀州は虚弱で、窮城(碻磝)で坐守しようとも、もし賊軍が碻磝を通過して東に向かえば、清東(胡三省注によると清水の東:清水は温楡河の支流で北京を流れる清河と異なり、鍾野沢より黄河に北流する清水もしくは泗水の別名のようだ、佐久間吉也 「北魏時代の漕運について」)は国家の領有でなくなる。碻磝は孤立し、朱修之が滑台で魏に捕らわれた出来事(431年)を再現するだけだろう」
ちょうどその時、詔勅を携えた使者が到着し、蕭斌らの撤退を許さなかった。蕭斌は諸将を召集しこれについて議した。皆は留まるべしと言ったが、沈慶之は言った「敷居の外のことは、将軍の専権事項である。詔は遠くから来たものであり、事勢を知らない。節下(節の旗の下で事を執り行う者のこと、蕭斌)は1人范増が居るのに用いることができない(劉邦の言葉『項羽有一范增而不能用,此其所以為我擒也』を引用し、蕭斌を項羽、沈慶之自身を范増に例えた)、空虚な会議をどうして行うのか」
蕭斌や坐に居る者達は笑って言った「沈公は学問がよくおできになる」
沈慶之は声を荒げて言った「古今は多くの人が知っているはずだが、下官(自分をへりくだって指す)の耳学問に及ばないのか」
蕭斌は王玄謨を碻磝の守備に充て、申坦・垣護之を清口(清水は淮水と黄河を南北に連結する川で、清口は黄河と合流する河口部)に籠らせて、自身は諸軍を率いて歴城(山東省済南市歴城区)に帰った。
閏10月、龐法起らの諸軍が盧氏県に入り、県令の李封を斬って趙難を新たな盧氏県令とし、指導者として盧氏の人々を率いさせた。柳元景は百丈崖(現在地を同定できず、安徽省の景勝地とは違いそうだ)より諸軍を従えて盧氏に入った。龐法起らは弘農に進攻し、これを抜いて、魏の弘農太守である李初古抜を捕えた。薛安都は弘農に留屯し、龐法起らは進軍し、潼関に向かった。
拓跋燾は諸将に命じて道を分けて並進させた。永昌王の拓跋仁は洛陽より寿陽におもむき、尚書の長孫真は馬頭(安徽省蚌埠市)におもむき、楚王の拓跋建は鍾離(安徽省滁州市鳳陽県、のちに北魏と南朝梁による大会戦が行われた)におもむき、高涼王の拓跋那は青州(山東省付近)より下邳(江蘇省北部)におもむき、拓跋燾自身は東平(山東省泰安市東平県)より鄒山(山東省済寧市鄒城市にある山、峄山・東山とも呼ばれる)におもむいた。
11月、拓跋燾が鄒山に到着し、宋の魯郡太守である崔邪利は魏に捕えられた。拓跋燾は秦始皇帝の石刻を見ると、人にこれを廃し倒させ、太牢(供え物として牛・羊・豚を揃える最高の格式)で孔子を祀った。
魏の楚王である拓跋建は清西(清水の西か)より進んで蕭城(安徽省宿州市蕭県)に駐屯し、步尼公は清東より進んで留城(江蘇省徐州市沛県南東部)に駐屯した。
それに対し、宋の武陵王・劉駿は参軍の馬文恭を蕭城に派遣し、江夏王・劉義恭は軍主の嵇玄敬を留城に派遣した。
馬文恭は魏に敗れた。步尼公は嵇玄敬に遭遇し、兵を転じて苞橋(沛県にあった橋)へおもむき、川を渡って清西に向かおうとした。沛県の民は苞橋を焼き、夜間に林の中から鼓を鳴らした。魏は宋の大軍が到着したと考え、苞水を争って渡り、およそ半分が溺死した。
詔により柳元景が弘農太守となった。柳元景は薛安都と尹顕祖を派遣して、陝(河南省三門峡市陝州区)の攻略にあたっている龐法起らの援軍とし、柳元景は後方で租税の監督を行った。陝城は堅固で、諸軍による攻撃でも抜けなかった。魏の洛州刺史である張是連提は、兵2万を率いて崤(河南省洛陽市洛寧県の西北にある崤山)を越えて陝の救援に向かい、薛安都らと陝城の南で戦った。魏の騎兵突撃に、宋の諸軍は敵わなかった。薛安都は怒って鎧兜を脱ぎ、馬具も外して、目を見開いて矛のみを携え単騎突撃した。薛安都の向かうところ敵なく、魏の弓矢も当たらなかった。このような突撃を4回行い、殺傷した者は数えきれなかった。日暮れとなり、別将である魯元保が函谷関より到着したため、魏軍は退いた。
柳元景は軍副の柳元怙に歩兵騎兵2千を与え、薛安都らの救援に向かわせた。援軍は夜に到着したが、魏軍はこれを知らなかった。明くる日、薛安都らは陝城の南西に兵を並べた。曾方平は薛安都に言った「いま強敵が前に在り、堅城が後ろにあり、これは私が死ぬ日である。卿がもし進まなければ、私は卿を斬る。私がもし進まなければ、卿は私を斬れ」
薛安都は言った「善い、卿の言う通りである」
ついに合戦が始まった。柳元怙は兵を率いて南門から太鼓を鳴らしながら出てきた。軍旗も物々しく、魏の兵達は驚き恐れた。薛安都は身を挺して奮戦し、流血が肘で凝固し、矛が折れながらも持ち替えて更に突入した。宋の諸軍も一丸となって奮戦した。夜明けから昼過ぎまでの戦闘で魏軍は大潰し、張是連提と将兵3千余人が斬られ、川や堀に落ちて死んだ者も多く、2千余人が捕虜となった。
明くる日、柳元景が到着し、投降した者達をなじって言った「お前らは元々中国の民でありながら、いま賊のために力を尽くし、力及ばずして降った、何故だ」
皆言った「賊は民を戦に駆り立て、退いた者は族滅される。歩兵は騎兵にプレッシャーを与えられ、戦う前に死んだ。この様子は将軍が実際見たろう」
諸将は捕虜達の皆殺しを望んだが、柳元景は言った「いま王旗(正規軍たる宋の旗)が北を指し、仁の名声を先立てるべきだ」
捕虜達をことごとく許して帰した、捕虜達が去るにあたって皆万歳と言った。その後、ついに陝城を落とした。
龐法起らは潼関に侵攻した。魏の戍主(守将)である婁須は城を棄てて逃げ、龐法起らが潼関に入った。関中の豪族たちは現地で蜂起し、四山の羌・胡はみな宋の来着を歓迎した(関中は四方を山に囲まれた地で、異民族は山に依って暮らしていた、羌族との対置から、胡は異民族全般ではなく匈奴系異民族を指すと思われる)。
劉義隆は王玄謨の敗退で魏兵が宋領内に深く侵入してきたことを受け、柳元景らの突出を良しとせず召還命令を下した。柳元景は薛安都を後詰めとし、襄陽まで撤退した。詔により柳元景は襄陽太守となった。
魏の永昌王である拓跋仁が懸瓠・項城(河南省周口市項城市)を攻め、これを抜いた。劉義隆は魏兵が寿陽に到達することを恐れ、劉康祖(9月に虎牢攻略を行っている)を召還した。拓跋仁は騎兵8万で劉康祖の追撃を図り、尉武(河南省開封市尉氏県か)で追いついた。劉康祖には兵8千がおり、軍副の胡盛之は険しい山間ルートを通るよう要請した。劉康祖は怒って言った「かつて黄河に臨んで敵を求めたが、ついに見つからなかった。いま幸いにも敵が自ら送られてきた、どうしてこれを避けようか」
車の軍営を連結して進み、軍中に令を下して言った「後ろを振り返った者は首を斬り、進行方向を変えた者は足を斬る」
魏兵は4面から劉康祖軍を攻め、宋の将兵はみな死戦した。明け方から晡(申の刻、16時頃)まで、魏兵1万余人を殺し、流血で踝まで浸かった。劉康祖は身に十の創を受けたが、意気はますます激しくなった。魏は兵を3分割し、交代で休みながら戦った。日暮れ時に風が強まったので、魏は馬に草を載せて軍営を焼き、劉康祖はその補充にあたった。流れ矢が劉康祖の頸を貫き、劉康祖は馬から落ちて死んだ。他の兵達も戦うことが出来ず、ついに潰え、魏軍はその殆ど全てを掩殺(相手の油断に乗じて殺すこと、もしくは暗殺)した。
宋の南平王である劉鑠は、左軍行参軍の王羅漢に3百人を与えて尉武の守備に向かわせた。魏兵が到着し、人々は卑林(現在地を同定できず)に拠って防備を固めることを求めたが、王羅漢は命令を受けてここに居るのだから、と尉武から去らなかった。魏は王羅漢を攻めて彼を捕えると、頸に鎖を巻いて、三郎将(衛士)に鎖を握らせた。王羅漢は夜に三郎将の頸を断ち、鎖を付けたまま盱眙に逃亡した。
魏の永昌王である拓跋仁は進軍して寿陽に迫り、馬頭と鍾離で放火・掠奪を行った。宋の南平王である劉鑠は、籠城固守した。
魏兵は蕭城にあり、彭城からの距離は十余里だった。彭城は兵が多いものの、食糧が少なく、太尉・江夏王の劉義恭は彭城を放棄して南へ帰りたがった。
安北中兵参軍の沈慶之は、歴城に兵が少なく食糧は多いことから、箱車を並べて精兵で外部を守りつつ、2王(劉義恭・劉駿)と妃女を歴城に移送することを提案した。兵を分け、護軍の蕭思話が彭城の留守を担当する手はずとした。
対して、太尉長史の何勗は鬱洲(江蘇省連雲港市贛楡区にある)を席巻し、海路で建康に帰還することを要請した。劉義恭は判決の機会を設けたが、この2案のどちらを取るかなかなか決まらなかった。
安北長史・沛郡(安徽省・河南省・江蘇省・山東省にまたがるエリア)太守の張暢は言った「歴城か鬱洲に向かう理屈だが、下官(自分をへりくだって指す)はどちらにもあえて賛成しない。いま城中に食糧が乏しく、百姓はみな逃亡したがっている。ただ門が固く閉ざされているから逃げたくてもできないだけだ。もし一旦足が動けば、すぐに彼らは自ら逃散し、目的地に行こうとしても達成しようがない。いま軍の食糧は少ないといえども、朝夕の食事はなお尽きていない。どうして万安の術を捨てて危亡の道に就こうというのか。かの計画を必ず実行するというなら、下官の頸を切った血で公(劉義恭)の馬蹄は汚れるだろう」
武陵王の劉駿は劉義恭に言った「阿父(おじを親しんで呼ぶ)は既に総統となっており、去留について私が口を出すのは差し出がましいが、道民(劉駿の字)はかたじけなくも城主となりながら、鎮を捨てて逃げ走っては、朝廷に再び顔向けできない。必ずこの城と存亡を共にする。張長史の言葉を違えるべきではない」
劉義恭は彭城脱出を止めた。
拓跋燾が彭城に到着し、戯馬台(彭城の南にある戸部山に項羽が築いた)にフェルトの天幕を立てて城中を望んだ。
馬文恭の敗北に際し、隊主の蒯応が魏に降った。拓跋燾は蒯応を小市門に派遣し酒と甘蔗(さとうきび)を求めた。武陵王の劉駿はこれらを与え、ラクダを求めた。明くる日、拓跋燾は尚書の李孝伯を使者として南門に向かわせ、劉義恭に貂裘(テンの毛皮で作った高級服)を贈り、劉駿にラクダとラバ(雄ロバと雌ウマの交雑種)を贈った。そして言った「魏主(拓跋燾)より安北(安北将軍の劉駿)に挨拶する。城から出て我(拓跋燾)と会うべきだ。我は北の城(彭城)を攻めないのに、なぜ将兵に労苦させ、このように守備しているのか」
劉駿は張暢を使者とし、門を開けて李孝伯に会わせて言った「安北より魏主に挨拶する。常々そちらと面会したかったが、人臣たる私に外交の権限が無いので、残念ながらできない。守備は辺境の鎮が常に行うべきことであって、兵達は喜んで従っており、労働に対する怨み言を耳にすることはない」
拓跋燾がミカンを求め、博具(六博などボードゲームの用具、もしくは賭博用具)の借用を欲したところ、それら全てを与えた。返礼にフェルト・9種類の塩・胡鼓(北方の民族楽器、手で叩く)が贈られた。
拓跋燾が楽器の借用を求めたところ、劉義恭はこれに応じて言った「任を受けて行軍しているので、楽具は持っていない」
李孝伯は張暢に問うた「急に閉門して橋を断ったのは何故か」
張暢は言った「2王は魏主が営塁をまだ立てておらず、将兵が疲労していることから、この精兵10万が軽々しく虐げあうのを恐れて閉城しただけだ。兵馬の休息を待って、その後で戦場を整え、期日を定めて交戦しよう」
李孝伯は言った「賓客に礼があれば、主はこれを選ぶ」
張暢は言った「さきごろ、多くの賓客が門の前に来ているのを見た、まだ礼があるとはみなせない」
拓跋燾は人を派遣して言わせた「太尉(劉義恭)・安北に挨拶したのに、私のところに誰も寄越さないのは何故か。互いの情を尽くすべきではないといえども、私が大きいか小さいか見て、私が老いているか若いか知り、私の人となりを観る必要があるはずだ。諸佐(佐吏、属官)を派遣できなければ、僮幹(雑多な労働に従事する下級官吏)に来させればよかろう」
張暢は2王の命を受けて答えた「往来が久しいため魏主の形状・才力はつぶさに知られている。李尚書が命令を含んだことにより親しんできたが、互いに尽くすことを強いて望まなかったので、使節を送らなかった」
李孝伯はまた言った「王玄謨は凡才でしかないのに、南国は何故彼を使って敗走させたのか。私は国境に入って700余里、国の主は私を拒めなかった。鄒山(前出、山東省の山で先日拓跋燾が攻略済)の険しさは君らの恃むところだったが、我が前峰の到着で、崔邪利は穴に隠れ(鄒山は石穴を多く備える)、諸将が彼を引きずり出した。魏主は彼に余生を賜り、今ここに従軍している」
張暢は言った「王玄謨は南土の偏将(副将)で、才があると見做したわけではなく、ただ前駆としただけだ。大軍が到着しないうちに、河の氷を見たせいで、王玄謨は夜に軍を還し、結果的に軍馬が少し乱れただけだ。崔邪利が捕えられたことで、国に何の損があったろう。魏主は1人の崔邪利を制するために数十万を動員した、どちらが損をしたか言うまでもない。700里侵入しても拒む者が無かったのは、太尉(劉義恭)の神算と鎮軍(劉駿、同年4月に安北将軍から鎮軍将軍に降格している)の聖略によるものである。兵を用いるには機密事項があり、語りあうことができない」
李孝伯は言った「魏主はこの城(彭城)を囲まず、自ら大軍を率いて瓜歩山(江蘇省南京市六合区にある山)に直行しようとしている。南での戦事が行われれば、彭城で包囲を待つ必要はないし、もし敗れれば彭城を用いる必要もなくなる。我は今まさに南下して江湖(長江と洞庭湖を指すか)を飲んで渇きを癒すのみ」
張暢は言った「去留のことは、彼(拓跋燾)の心中に任せる。もし慮馬(北魏の馬)が長江の水を飲むなら、拓跋燾は天命を失うだろう」
これより先、童謡にあった「虜馬飲江水、仏狸(拓跋燾の字)死卯年(翌451年が卯年)」
張暢の発言はこれを受けてのものだった。
張暢の声・容姿は雅麗で、李孝伯とその左右(側近)は皆ため息をついた。李孝伯は反論した後、去るにあたって張暢に言った「長史は深く自愛されよ、ここで決裂すれば兵が押し寄せる、この手を取らなかったことを恨むことになろう」
張暢は言った「君も善く自愛されよ、蕩定(蕩=揺れ動く、魏から動いて宋に身を定めるという意味か)の時期があることをこいねがう、君がもし宋朝に還ることができれば、今が知り合いの端緒となる」
劉義隆は楊文徳(仇池氐の首長、後仇池は既に滅びた後だが、彼らは当地での影響力を持っていた)を起用して輔国将軍とし、西の漢中に出兵し、汧・隴(ともに前出)を動揺させた。
楊文徳の宗族である楊高は、陰平(甘粛省隴南市文県)・平武(四川省綿陽市平武県)の群氐を率いて楊文徳に抵抗した。楊文徳は楊高を攻撃し、楊高を斬り、陰平・平武をことごとく平定した。
梁・南秦二州刺史の劉秀之は楊文徳を派遣して啖提氐の征伐を行ったが、勝てなかったため、楊文徳は捕らえられて荊州に送られた。楊文徳の従祖兄(どういう間柄か信頼できるソースが見つからなかった)である楊頭が葭蘆(甘粛省隴南市武都区、蜀漢の姜維が城を築いたとされる)に駐屯した。
宋で大赦が行われた。
拓跋燾は彭城を攻撃したが勝てなかった。
12月、拓跋燾は兵を転じて南下し、中書郎の魯秀を広陵(江蘇省揚州市邗江区)へ、高涼王の拓跋那を山陽(江蘇省淮安市淮安区の旧称か?)へ、永昌王の拓跋仁を横江(中国東部を流れる新安江の支流か)へ、それぞれ進出させた。彼らが通過したところは残らず滅せられ、城邑も全て潰された。
建康が戒厳態勢となった。
魏兵は淮上(淮水の上もしくは安徽省蚌埠市淮上区)に到達した。
劉義隆は輔国将軍の臧質に兵1万を与え彭城を救援させたが、援軍が盱眙に到達した時点で、拓跋燾は既に淮水を越えていた。臧質は宂從僕射の胡崇之と積弩將軍の臧澄之を東山(盱眙城の南東にある山)に、建威將軍の毛熙祚を前浦(盱眙城の近隣にある)にそれぞれ配置すると、臧質自身は城の南に軍営した。
魏の燕王である拓跋譚が胡崇之らを攻め、3営(胡崇之・臧澄之・毛熙祚か)はみな敗没したが、臧質は手持ちの兵を鑑みてあえて救援しなかった。同日夕、臧質軍もまた潰え、臧質は輜重・器械を捨てて、700人を率いて盱眙城に赴いた。
盱眙太守の沈璞が着任した当初、王玄謨がまだ滑台に居て、江淮(長江と淮水の間のエリア)は警戒していなかった。沈璞は盱眙が要衝であることから、城を修繕し堀を修築し、財産・穀物を積み、矢や石を蓄え、城の守りに備えた。部下達はこれを非難し、朝廷もまた過剰と判断した。魏兵が南に向かってきたとき、守宰(役人頭)の多くが城を棄てて逃げた。ある者が沈璞に建康に帰るよう勧めたところ、沈璞は言った「賊がもしこの小城を相手にしなければ、何の恐れることもない。もし肉薄・来攻すれば、これは私にとって報国の秋(季節の秋ではなく大事な時を指すはず)であり、諸君らにとって封侯の日(諸侯に出世できるチャンス)である、どうして去ろうか。諸君らはかつて数十万が小城の下に集まりながら敗れなかった者達を知っているか。昆陽(河南省平頂山市葉県;王尋・王邑が100万の兵を率いながら劉秀に敗れた昆陽の戦い)・合肥(安徽省合肥市;諸葛恪が20万の兵を率いながら張特に敗れた合肥の戦い)が前例だ」
人心はやや安定した。沈璞は精兵2千を収集して言った「これで足りる」
臧質が盱眙城に向かってきたとき、人々は沈璞に言った「賊が城を攻めなければ、兵が多くても意味がない。賊が城に攻めれば、勢力を収容するために市街地が渋滞し、土地が狭く人が多いため、患いは少なくない。そして敵が多く味方は少ないことは誰もが知っている。もし城を全うして敵軍を退けても、功は我々だけのものとならない。もし罪を避けて都に帰るなら、それぞれが船のかじを取ろうとして結局両方蹂躙されるだろう(船頭多くして船山に登るというニュアンスか)。閉門して彼らを拒まなければ、必ず災いとなる」
沈璞は嘆いて言った「賊が城に登ることは決してかなわず、諸君らはこの城を保つことができる。船のかじについての心配はなくなって既に久しいが、賊の残虐・害悪ぶりはこれまで前例がなく、虐殺略奪の苦しみは我らが皆見ており、運がよくても北国に奴隷として連行される。臧質達は烏合の衆だが、どうして彼らをはばかろうか。いわゆる『同じ船で渡りながら、胡と越が団結している(王弼の周易略例・明爻通變から引用;呉越同舟の語源である孫子・九地篇の変格)』である。こちらの兵が多ければ賊はすぐに諦め、少なければ粘る。我らは功を独占しようとして、賊を留めようというのか」
開門して臧質を納めた。臧質は城中の充実ぶりを見て、皆で万歳と称した。そして、臧質は沈璞と共同で守備にあたった。
魏軍の南征にあたって、物資は持ってきておらず、掠奪して調達していた。淮水を過ぎると、民の多くは物資を隠したため、掠奪しても得るところがなく、人馬は飢えて窮した。盱眙に穀物が集積していると聞き、北に帰るための資源としてこれを欲しがった。既に胡崇之らを撃破し、城を攻めたが抜けなかった。そこで魏は韓元興に数千人を与えて盱眙の守備に留め置くと、大軍を率いて南に向かった。よって盱眙は城を全うすることができた。
拓跋燾は瓜歩に到着すると、民の家を壊し、葦を切っていかだとし、長江を渡りたいと宣言した。建康は恐れおののき、人々はみな荷物を背負って立ち上がり(脱出を試みる様子か)、内外で戒厳令が敷かれた。丹楊(江蘇省鎮江市丹陽市周囲、南方における精兵輩出の地として知られる)の管内では悉く徴兵され、王公以下の子弟もみな軍役に従った。領軍将軍の劉遵考らに兵を率いて要所を分守するよう命じ、上流は於湖(安徽省馬鞍山市当塗県の南方)から下流は蔡洲(現在地を同定できず)まで見回り、采石室(安徽省馬鞍山市当塗県の北に採石場があったようだ)から曁陽(江蘇省蘇州市張家港市)まで600-700里に及ぶ範囲で長江沿岸に艦隊と軍営を整列させた。皇太子の劉劭は石頭(江蘇省南京市鼓楼区にある防御施設、建康防衛の要)に出鎮して水軍を総統し、丹楊尹の徐湛之が石頭倉城を守備し、吏部尚書の江湛が領軍を兼ね、軍事処置をことごとく委ねられた。
劉義隆は石頭城に登ると、憂いを帯びて江湛に言った「北伐の計画に同議するものは少なかった。こんにち士民は怨み、恥じ入るしかなく、大夫の憂いが残った、予の過ちであった」
また言った「もし檀道済さえ居れば、胡の馬がここまで来ることはなかったのに」
劉義隆は幕府山(建康城の西25里、元帝司馬睿が長江を渡った時に王導が幕府を建てたことに由来)に登って形勢を観望し、拓跋燾や魏の王公を賞金首として封爵・金・帛の対象とした。また人を募って野葛(有毒)の酒を空き地に置き、魏兵を毒殺しようとしたが、ついに傷つけることはできなかった。
拓跋燾は瓜歩山を掘ってうねり道を造り、その上にフェルトの天幕を設けた。拓跋燾は黄河以南の水を飲まず、ラクダに河北の水を背負わせ、自身はそのラクダに随伴していた。ラクダ・名馬を劉義隆に授けて和を求め、婚を請うた。劉義隆は奉朝請の田奇を派遣し、珍味を贈った。拓跋燾は黄甘(柑橘の一種)を得るとすぐにこれを食らい、酃酒(長沙郡酃県=湖南省株洲市炎陵県にあった酃湖の水から作った名酒)を大いに飲み進めた。左右に、食中に毒があるのではと耳打ちする者が居た。拓跋燾は応じず、手を挙げて天を示すと、自分の孫を田奇に示して言った「私が遠方からここまで来たのは、功名を欲したからではなく、実は修好を続けて民をやすめ、婚姻関係を永く結ぶためだ。宋がこの孫の妻として娘をあてがうなら、私も娘を武陵王(劉駿)の妻とし、これより馬が南を顧みることはないだろう」
田奇は帰還し、劉義隆は皇太子の劉劭や群臣を召集してこれについて議論した。多くは許可するのが良いと言ったが、江湛は言った「戎狄に親(親を想う気持ちか、親しみの情か、判別できず)は無く、これを許しても無益だ」
劉劭は怒って江湛に言った「いま2王が狭く険しいところに居る(江夏王・劉義恭と武陵王・劉駿が彭城に、南平王・劉鑠が寿陽に居ることを指すようだ)、それなのに異議を採るというのか」
声色ははなはだ激しかった。坐が解散してから、一同が退出するにあたり、劉劭は班剣(重臣に授けられる紋付きの剣、もしくはそれを持った武士)と左右を使って江湛を排そうとし、江湛はほぼ僵仆(倒れる、死ぬ)した。
劉劭はまた劉義隆に言った「北伐は敗辱し、数州が没落した。江湛・徐湛之を斬って天下に謝すべし」
劉義隆は言った「北伐は私の意向より出たもので、江湛・徐湛之は異を唱えなかっただけだ」
これ以降、劉劭と江湛・徐湛之は不和となり、また魏との婚姻もついに成らなかった。
451年
1月、拓跋燾は瓜歩山の上で群臣と大会し、爵位の分配や賞の授与には各人で差があった。魏軍は長江にそって篝火を焚いた。太子左衞率の尹弘が劉義隆に言った「六夷(東夷、西南夷、西羌、西域、南匈奴、烏桓鮮卑等各族)がこのようにしたら、必ず逃げる」
魏は現地民を連行し、住居を焼いて去った。
胡誕世が謀反した時(447年)、江夏王の劉義恭らは次のように奏上した、彭城王の劉義康が恨み言を言って民を扇動し、不逞の輩を生み出していると。そして、劉義康を広州(広東省広州市か)に遷すことを請うた。劉義隆が劉義康を左遷するにあたり、まず使者を送って劉義康とコンタクトしたところ、劉義康は言った「人は生まれたら死ぬ、私はどうして生に執着しようか。乱をなす段階で遠くに居たからといって何の益があろう。ここで死にたい、また何度も遷されるのは嫌だ」
結局、左遷の話はうやむやになっていた。魏軍が瓜歩に至り、人情は恐懼した。劉義隆は、不逞の輩が劉義康を奉じて乱となることを憂慮した。皇太子の劉劭、武陵王の劉駿、尚書左僕射の何尚之は、早期の処断を何度も勧めた。
劉義隆はついに中書舍人の嚴龍を毒薬と共に派遣して、劉義康に死を賜った。劉義康はこれに承服せず言った「仏教で自殺は許されていない、適切な処分を願う」
使者は布を被せて劉義康を殺した。
江夏王の劉義恭は碻磝の守備が出来ないと考え、王玄謨を歴城に召還した。魏軍は王玄謨に追撃をかけてこれを破り、ついに碻磝を取った。
当初、劉義隆は魏の侵入を聞くと、広陵太守の劉懷之に命じて城府や船・車を焼き、民を率いて長江を渡らせていた。山陽太守の蕭僧珍はその民を悉く集めて入城し、食糧や武器を盱眙や滑台に送っていた。経路が不通となったため、皆は山陽に留まった。陂水(河川と思うが詳細不明)を貯めて満たし、魏軍が来たら決壊させる手はずとした。魏軍は山陽を通過する際、あえて留まらず、盱眙を攻めた。
拓跋燾が臧質に酒を求めたところ、臧質は糞尿を封じて送った。拓跋燾は怒り、長い包囲線を築いて、一晩で完成させた。東山の土石で堀を埋め、君山(盱眙県の北にある山)に浮橋を作って、水陸の道を絶った。拓跋燾は臧質に書を送って言った「いま私が各所に送っている闘士は、皆わが国の人ではない。城の東北は丁零と胡で、南は氐と羌である。もし丁零が死ねば常山(河北省石家荘市付近)・趙郡(河北省邯鄲市付近)の賊を減らせる。胡が死ねば并州(山西)の賊を減らせる。氐・羌が死ねば関中(陝西)の賊を減らせる。卿がもし彼らを殺しても、こちらは不利にならない」
臧質は返書で言った「来書の示すところを見ると、邪悪な心がつまびらかになっていた。お前は四足(馬)を恃んで、しばしば国境を犯した。王玄謨が東で退き、申坦が西で散じたが、お前は彼らがそうした理由を知っているか。お前だけは童謡の言葉(前出:「虜馬飲江水、仏狸死卯年」)を聞いていないのか。卯年はまだ来ていないので、2軍(王玄謨・申坦)は長江の水をのめるように路を開けただけだ。死期は天が決めることで、人事ではない。寡人(諸侯の1人称、臧質本人)は命を受けて相討ちするつもりで白登山(平城の東北にある山)を目指しているが、まだ遠くまで行軍できていない。お前は自ら死にに来た、どうして生を全うして桑乾川(山西省北部と河北省西北部を流れる河川、平城の近くを流れる)で食事をする機会を設けられようか。お前は幸運なら乱兵に殺され、不運なら生きたまま鎖で縛られてロバで都市に直送されるのみ。私はもとより無事で済むとは思っていない。もし天地に霊がなく、力でお前に屈せば、己を細切れにし、粉にし、斬って、裂き、それでもなお本朝(わが国)に謝するには足りない。お前の知識と兵力は苻堅(淝水で東晋に惨敗した)に勝るというのか。今春は雨が既に降って、宋兵が四方から集まってくる、お前は安心して城を攻めてこい、逃げるな。私が見聞きしたところによると、お前らは食糧が乏しく、扶持米(給料として与えられた米)をおくりあっているとか。そちらから送られた剣刃だが、これは私がお前の身にこの刃を振るうことを欲しているのか」
拓跋燾は大いに怒り、鉄の寝台の上に鉄の針を施して言った「城を破って臧質の身柄を得たら、彼をこの上に座らせよう」
臧質はまた魏の人と書を交わして言った「お前は魏陣営内の士民に次のように語れ。仏狸からの書にこのように書いてあった(魏の闘士が死んだら国家の賊が減る、のくだり)。お前らは正朔の民(正統王朝たる漢・晋に属した民)でありながら、自滅しようというのか、どうして禍を転じて福と為す(魏から宋に付く)を知らずにいられようか」
あわせて台格(宋の役所に立てられた懸賞)を書写して彼に与えて言った「仏狸の首を斬った者を万戸侯に封じ、布(麻)・絹それぞれ1万匹を賜る」
魏軍は鉤付きの車で城楼にフックをかけた。城内では彄(ゆはず、弓の両端で弦をかける箇所)絚(太い縄)で繋いで、数百人が叫びながらこれを引っ張った。車は動けず、夜になったところで、決死隊が桶で降下して城外に出て、鉤を斬って、これを獲った。明朝、衝車(車両型の攻城兵器)で城を攻めたが、城土は堅密で、衝車を使用するたびに崩落した城壁は数升(1升の容積は200ml~1800ml程度まで時代・地域と共に変遷)を超えなかった。魏軍は城に肉薄して登ろうとし、交代しながら落ちてもまた昇り、退く者はいなかった。死傷者は1万を数え、死体で城壁が平らになるほどだった。およそ30日攻めたが抜けなかった。魏軍中で疫病が多発し、ある者は報告してきた、建康からの水軍が海から淮水に入り、また彭城に魏の退路を断つよう勅令したと。
2月、拓跋燾は攻城兵器を焼いて退走した。盱眙の兵は追撃を欲したが、沈璞は言った「いま兵が多からず、固守は可能といえども、出戦できない。ただ舟を整え、北に渡る意図を示そう。敵が退却を急げば、不具合も出てくるだろう」
臧質は沈璞を城主とし、書状で天下に広めようとしたが、沈璞は固辞し、功を臧質に帰した。劉義隆はこれを聞くと、ますます沈璞を嘉した。
魏軍が彭城を過ぎたが、江夏王の劉義恭は震え恐れてあえて追撃しなかった。ある者が告げた「賊は1万余りで南口(現在地を同定できず)を駆り、夕は城から数十里の安王陂(江蘇省徐州市銅山区の西)に宿ろうとしている。今これを追えば、悉く得ることができる」
諸将は皆行くことを望んだが、劉義恭は決して許さなかった。
翌日、伝令が来て、劉義隆から劉義恭に全力で急追するよう勅命が下った。魏軍は既に遠く、劉義恭は鎮軍司馬の檀和之を蕭城に派遣した。魏兵はあらかじめこれを聞くと、馬に乗れる者達を皆殺しにして去った。程天祚(450年3月に魏に捕らえられていた)は逃げ帰った。
魏軍はおよそ南兗・徐・兗・豫・青・冀の6州を破り、死傷者は数えきれず、壮年男性は斬り刻み、嬰児を矛の上に貫き、旋舞しながら遊んだ。魏軍が過ぎた郡県は余すことなく赤地(土の露出した地といったところか)となり、春に燕が帰っても林木に巣を作った(燕の営巣できる家屋がない)。魏の兵馬も死傷者が過半数となり、国人(前出の鮮卑人を意味するか)はみなこれを非難した。
劉義隆が将に出撃を命じるたび、常に所定の音律に従って声を発し、交戦の日時になると、また詔を待つため将は待機し、将自身で決することはなかった。また江南の白丁(平民)は軽々しく進退を変え、これが宋の敗因となった。これより集落が寂れ、元嘉(劉義隆在位中の年号)の政は衰えた。
戦禍にあった郡県民を憐れみ、その税調を免除する詔を下した。
太尉の劉義恭を降格し、驃騎将軍・開府儀同三司とした。
拓跋燾が黄河を渡った。
鎮軍将軍・武陵王の劉駿を降格し、北中郎将とした。
劉義隆は瓜歩へ行き、同日、戒厳令が解除された。
3月、劉義隆は建康の宮殿に帰った。
拓跋燾は平城に帰り、酒を飲んで宗廟に報告し、魏に降伏した5万余家を近畿(平城から千里以内の地)に分置した。
放論
450年の拓跋燾南伐。100万を号する大軍を動員し、(寿陽・彭城・盱眙など幾つかの要衝を未攻略のまま残したものの)長江北岸にまで達したこの一連の戦役は、苻堅による淝水の戦い以上に切迫しており、南朝にとって未曾有の試練だった。
交戦中であるにも関わらず、北魏と劉宋で贈り物を交換しあう様子は異様に映る。南北朝間の交易については論文でも取り上げられている(堀内淳一「馬と柑橘」)。
使節同士の問答でも分かるが、この贈答は単なる慣れあい・小休止でなく、どちらが中華を統治する王朝としてより相応しいか度量・産出力を競う、ある種の戦争だったのだろう。
劉義隆の諡号は文、廟号は太祖、どちらも最高峰の美号である。劉裕の存在感が際立つものの、劉義隆も劉宋にとって重要な位置づけだったことになる。拓跋燾は華北を統一した英主だが、劉義隆だからこそ30年近く対抗できたということなのだろうか。
ところが今回、群臣の反対を押し切って北伐を進めた判断により大きく失点してしまった。この後、劉義隆は劉劭によるクーデターで殺されるのだが、ここで指導者としての資質に疑問を持たれた影響が極めて大きいと考える。
対して北魏だが、一度領内に侵攻させてから攻勢限界点を見極めて反攻し、敵に大打撃を与えた手腕は見事である。よく考えると、参合陂・柴壁・劉衛辰撃滅と、いずれも敵に侵入させたあと反撃したことによる戦果であり、北魏の得意とする戦型だった。策源地・営巣地などを敵遠方まで下げることで侵入によるダメージは限定的なものとなる、騎馬民族の機動力はこういうところでも効いてくる。
時間経過とともに寒くなる天の時も北魏に味方した。
かつてない程建康へ迫りながら451年早々に撤退したのは何故か。物資の欠乏・疫病の流行・柔然の脅威・皇太子拓跋晃(この後拓跋燾は彼に死を賜っている)の自立傾向などが考えられる。
記事では、北方から物資を持ち込まず現地調達に頼ったこと、一方で淮水や長江の水を警戒して飲用を躊躇ったことなど記されており、補給の限界と考えるのが最も自然である。彭城や盱眙といった重要拠点を落とせず、物資と時間を消費したことが結果的に効いたようだ。
北魏にとっても南伐の損害は少なくなかった。北魏ではこの後、皇太子・拓跋晃への賜死や拓跋燾自身の横死といった動揺を経験するが、北魏国内における厭戦感情の高まりを踏まえて解釈すべきであろう。
当時活躍した諸将の名前、檀道成・到彦之の北伐失敗など、知らないことだらけで自身の不勉強を思い知らされた。南北朝でも北魏と南朝で拮抗していた時代に関して、議論の前提となる知識は、多くのディテールが削ぎ落された、粗略なものに止まっているように思う。逆に言えば、今後スポットライトを当てるべき鉱脈が多数埋まっているともいえる。
拓跋燾の凄まじさは勿論だが、南朝にも陳憲・沈慶之・垣護之・薛安都・沈璞など印象的な働きをする人たちが居た。ただ、沈慶之は呉興沈氏なので、どうしても沈約(宋書の編者、後発の資治通鑑は宋書から多く引用している)による作為の可能性が頭をよぎる。
450年以前の記載は北魏の柔然征伐のみに焦点を当てるつもりだったが、霍去病の封禅という記載に驚き、史記の衛将軍驃騎列伝を確認したところ確かに書いてあった。
臣下でありながら封禅を行った霍去病による武将封禅の故事は、日本で注目されていないが、中国だと結構な熱量で議論されている。霍去病の夭折が無ければ、北方で王権を確立していたのだろうか。若くして病没という結末にも疑惑を持つようになっている。
張特による合肥新城防衛が、劉秀の伝説的戦勝である昆陽の戦いと同列視されたことに驚いた。張特の知名度は、三国志において守城の名手として知られる郝昭や羅憲より遥かに低い。諸葛亮の死以降、蜀漢・孫呉それぞれの滅亡以外の出来事をいかに軽視してきたか、改めて実感させられた。
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