二宮の変。中国では二宮之争もしくは南魯党争の名称が一般的なようだ。
三国時代に孫呉で起こった宮廷闘争である。多くの人が三国志に無関心となる諸葛亮死後の出来事であり、更にドロドロの内紛なので興味を惹かれる人は少ないようだ。私自身も大まかなところしか知らなかったため、資治通鑑を紐解いてみた。長文である。
魏や蜀漢の重大イベントにも興味はあったが、約10年の長丁場なので省略した。呉の戦役についても簡略にとどめた。
年は西暦だが、月は旧歴とする。
241年
5月、呉の太子である孫登が死んだ。
242年
1月、孫権は息子の孫和を立てて太子とし、大赦した。
8月、孫権は息子の孫覇を魯王に封じた。孫覇は孫和の同母弟(後の記載と矛盾するので実際には異母弟か)で、孫権の寵愛ぶりは甚だしく、孫和と同等だった。尚書僕射の是儀は魯王の傳を領したが、上書して諫めた「私が思うに魯王は生まれつき大きな度量を持ち、文武を兼ね備えている。四方に出鎮させて、国の藩輔とするのがとても良いと思う。美徳を称揚し、広く霊威を輝かせることは、国家にとって良い規範であり、国内の待望するところでもある。二宮(孫和と孫覇)を漸減して、上下の序列を正し、教化の根本を明らかとすべきである」
上書は3,4度提出されたが、孫権は聴き入れなかった。
243年
11月、呉の丞相である顧雍が死んだ。
244年
1月、孫権は上大将軍の陸遜を丞相とした。荊州牧・右都護・領武昌事の前職は元のままであった。
245年
1月、呉の太子の孫和は魯王と同じ宮におり、待遇も同じだった。群臣は多く言葉を交わした。孫権の命で宮を分け、幕僚も分別した。二子の仲はこれより間隙を生じた。衛将軍の全琮(孫魯班の夫:孫魯班は孫権の長女で呉のキープレーヤーである、孫魯班の母が歩皇后であることも注目される)は息子の全寄を魯王に仕えさせた。丞相の陸遜に書面で報告すると、陸遜はこのように返報した「子弟には才能が有るので、重用されないことを憂える必要はない。家門から抜け駆けして栄利を求めるのは良くない。上手くいかなければ災いとなろう。二宮の勢いが拮抗すると、必ず衝突が起こる、これは古人が深く忌んだところである」
全寄は果たして魯王におもねり、軽々しく交流した。陸遜は全琮に書面を送った「卿が金日磾(漢の武帝に無礼を働く自身の息子を殺した)を師とせず、全寄をおもねったまま留め置けば、ついに一門の災いとなるだろう」
全琮は陸遜の言葉に答えず、両者は更に不仲となった。
魯王は意を曲げて(自分の意思に反してというより、序列を越えて皇帝になろうとしての意か)当時の名士と交流した。偏将軍の朱績(朱然の子)は胆力があると噂され、孫覇は朱績の役所に行って、座を設けて友誼を結ぼうとした。朱績は地に下りて立ち、辞して面談しなかった。
ここにおいて、侍官・賓客は両端に別れて敵同士として疑い合い、大臣まで波及し、国全体が二分された。この様子を聞いた孫権は、学問に精励させることを理由に、孫和と孫覇を客人の往来から隔離した。督軍使者の羊衜が孫権に上疎して言った「聞くところによると、陛下は詔で二宮から護衛を奪い、賓客を絶えさせ、四方から敬礼しに来た者達も通されないと。遠近の人々は恐れ、人物の大小に関わらず失望している。ある人は二宮が典式に則っていないと言う。遠近に異言を差し挟まれないよう慎重に検討する必要がある。疑いが積もって謗りとなり、久しく流布することを恐れる。西北の二隅(西の蜀漢と北の魏)は国から遠からず、これらの国では二宮に不順の過ちがあると噂になっている。陛下はどのようにこれを解決するつもりなのか」
孫権の長女である孫魯班は左護軍の全琮に嫁ぎ、年少の娘である小虎(孫魯育、孫魯班の同母妹)は驃騎将軍の朱據に嫁いだ。全公主(孫魯班)は太子(孫和)の母である王夫人と仲が悪く、孫権が王夫人を皇后に立てるよう望んだが、全公主はこれを阻んだ(皇后はあくまで自分の母たる歩氏であるべきという立場)。太子が皇帝に立てば自分を恨むことを恐れ、安心できず、しばしば太子をそしった。孫権は病で寝込み、太子を長沙桓王(孫策)の廟に派遣し祈祷させた。太子妃の叔父である張休の家は廟に近く、張休は太子を迎え家で一緒に過ごした。全公主は人を派遣してこれを密かに見て言った「太子は廟中に居らず、もっぱら后の家に行って議を計っている」
また言った「王夫人は上(孫権)が寝込むのを見て、喜んでいた」
孫権はこれにより怒りを発し、王夫人は憂死し、太子への寵愛はますます衰えた。
魯王党の楊竺、全寄、呉安、孫奇らは皆で太子を貶し、孫権は惑った。陸遜が上疎して諫めるところには「太子は正統で、盤石な立場を授けられたい。魯王は藩臣で、寵秩には差を設けられたい。お互いの場所と序列を定めることで平安がもたらされる」
上書は3,4度に及び、文章から読み取れる危機感は切実であった。また武昌にいる陸遜自身が建康に詣でて、嫡子・庶子の義を陳情することを望んだ。孫権は喜ばなかった。
太常の顧譚は陸遜の甥だったが、また上疎して言った「私が聞くところによると、国と家を保つ者は、必ず嫡庶の端を明らかにし、尊卑の礼を異にし、高下の差を有らしめ、等級間をはるか遠いものとする。こうすることで、骨肉の恩を全うし、こいねがう野望を絶つ。昔、賈誼(西漢=前漢の政治家・思想家・文学者)が治安の計を述べた。そこでは、諸侯の勢いを論じ、権力を与えて親近となっても逆節の累となり、権力を与えず疎遠となっても保全の幸いであるとした。故に淮南の親弟(西漢の淮南厲王・劉長:その遺児4人を封侯したことが賈誼の対諸侯王策開陳の契機となった 松島隆真「賈誼の対諸侯王策の再検討」)は、国を受けることができなかったが、これは権力を与え過ぎたことによる失敗である。呉芮は疎臣だったが、長沙王の位を永く伝えた、これは権力を制限したことによる得である。むかし漢の文帝(劉恒)が慎夫人を竇皇后と同席させたところ、袁盎に慎夫人の位置を下げられたので、文帝は怒った。袁盎が上下の義を弁じ、人彘(人豚、呂后が戚夫人に加えた酷刑)の戒を述べたので、文帝はたいそう喜び、慎夫人もまた悟った。いま私が述べるところに偏りはなく、太子の身分を安堵し魯王の便宜を図ることを心から望む」
これより魯王と顧譚は不仲になった。
芍陂の役(241年に魏と呉の間で行われた戦役)で、顧譚の弟である顧承および張休はみな功があり、全琮の子である全端・全緒は彼らと功を争い、孫権に対して顧承・張休の中傷を行った。孫権は顧承・張休を交州に左遷し、更に追って張休へ死を賜った。
太子太傅の吾粲(夏王朝の伯=筆頭諸侯で上古五覇に数えられる昆吾氏の末裔とされる)は、魯王の夏口(長江と夏水=漢水の合流部)への出鎮と楊竺らの建康からの退出を要請し、また陸遜としばしば連絡を取っていた。魯王と楊竺は共にこれを中傷し、孫権は怒って吾粲を獄に下し、誅殺した。陸遜にも問責の使者を何度も派遣し、陸遜は憤怒して死んだ。
陸遜の子である陸抗が建武校尉となり、代わりに陸遜の兵を率い、荊州から東に戻って葬送した。孫権は楊竺の申告に基づいて陸遜に関する20の事項を陸抗に問うた。陸抗は1つずつ答え、孫権の怒りはやや和らいだ。
246年
9月、孫権は驃騎将軍の步騭を丞相とし、車騎将軍の朱然を左大司馬とし、衛将軍の全琮を右大司馬とした。荊州を2部に分けた。鎮南将軍の呂岱を上大将軍とし、武昌から西へ蒲圻(湖北省咸寧市赤壁市)に至るまでの荊州右部を督させた。威北将軍諸葛恪を大将軍とし、荊州左部を督させ、陸遜に代わって武昌に鎮させた。
247年
1月、全琮が死んだ。
2月、孫権は武昌宮から材瓦を持ち込むことで建業宮の修繕を行うよう詔した。役人は奏上して言った「武昌宮は既に28歳で、おそらく用途に堪えられない。治下で新たに伐採して調達するのが良い」
孫権は言った「大禹(伝説上の聖王である禹)は卑しい宮を美とした。いま軍事が止まず、税の取り立てが厳しい。更に伐採を行えば、農業・養蚕を妨げる。武昌の材瓦を遷せば、自分の思いのまま用いることができる」
こうして南宮に移った。
3月、孫権は改めて太初宮を作り、諸将および州郡に命令して宮室の作成を手伝わせた。
5月、丞相の步騭が死んだ。
12月、孫権は建業で大集会を開き、魏への侵攻を宣言した。魏の揚州刺史である諸葛誕は、呉への対策を問うため安豊太守の王基に使いを出した。王基は言った「いま陸遜らは既に死に、孫権も年老いている。内に賢い世継はなく、中に策謀をめぐらす人もいない。孫権は自身の出立した後で内患がにわかに起こり、悪性の腫れ物が破裂するのを恐れている。将を派遣しようにも古くからの将は既に尽き、新しい将をまだ信任できていない。これは自分の安全を確保するため、与党を補強しようとしたに過ぎない」
呉は結局出撃しなかった。
249年
3月、呉の左大司馬である朱然が死んだ。朱然は身長7尺に満たず、気候(外に現れる気品といった意)は分明(はっきりしている)で内行(私生活)は修潔(潔白)であった。常に戦場にいるかのような真面目な顔を終日しており、急場で胆が据わる様子は人並み外れていた。世が平穏であっても朝夕ごとに鼓を早打ちし、営所にいる兵はみな出征に備えた装いで隊に就いた。これにより敵をもてあそび、備えるところを知らせず(常に軍備しているため実際に戦闘を仕掛けるタイミングが分からない)、故に出撃のたびに功があった。朱然が病床で次第に重篤となると、孫権は昼に自身の膳を減らし、夜は寝ず、医薬・食事など共通のものを望んだ(ここの訳は自信がない:原文「中使醫藥口食之物、相望於道」)。朱然が疾病の消息を上表する遣使を送るたびに、孫権はこれと対面して自ら質問し、入りては酒食を、出ては布帛(麻と絹)を賜った。朱然が死んだとき、孫権は彼のために哀慟した。
250年
5月、会稽の潘夫人は孫権からの寵愛があり、年少の息子である孫亮を生むと、孫権は彼を愛した。全公主(孫魯班)は太子(孫和)と不仲で、予め孫亮に歩み寄ろうとし、しばしば孫亮を賞美し、夫(全琮)の兄の子である全尚の娘を孫亮の妻とした。
魯王の孫覇が朋党と結んでその兄を害したため、孫権は孫覇を憎むようになっていた。
孫権は侍中の孫峻(後に呉の実権を握った:孫静の曾孫で、孫静は孫権の叔父)に言った「子弟は睦ましくなく、臣下は部を分け、これはまさに袁氏の敗亡(袁譚と袁尚の対立により曹操に敗れた)で、天下の笑いものとなる。もし1人を立てれば、乱のない安心を得られる」
ついに孫権は、孫和を廃して孫亮を立てる意図を持つに至ったが、長年決められないでいた。
秋、孫権はついに太子の孫和を幽閉した。驃騎将軍の朱據は諫めていった「太子は国の根本である。加えて孫和の本性は仁・孝で、天下は彼に心を寄せている。昔、晋の献公(姫詭諸)が驪姬を用いて申生は生きられず、漢の武帝(劉徹)が江充を信じて戻太子(劉拠)は冤罪により死んだ。私は太子がその憂いに堪えられないことを密かに恐れている、思子宮(劉拠の冤罪を知った劉徹が過ちを悔いて建てた)を立てても、取り返しがつかない」
孫権は聴き入れなかった。朱據と尚書僕射の屈晃は、諸々の将吏を率いて頭に泥をかぶり自分を縛って、連日宮城に詣でて和を請うた。孫権は白爵観(建業宮の中にあった)に登って、これを見ると甚だ気分を害し、朱據・屈晃らに勅した「無事怱怱(ここは半端な訳を採用できず、原文とした)」
無難督の陳正と五営督の陳象は、おのおの上書して切諫し、朱據・屈晃もまた固諫を止めなかった。孫権は大怒して、陳正・陳象を族誅(一族もろとも誅殺)した。朱據・屈晃を牽いて入殿させると、なお口諫し、叩頭流血(額から血が出るほど床に頭を打ちつける行為)し、語気は怯まなかった。
孫権は各々に100回杖叩きの刑を与え、朱據は新都郡(浙江省杭州市や安徽省黄山市にまたがる地域)の丞に左遷し、屈晃は田里に帰させ(免職)、坐諫の参加者10数人が誅殺や追放の対象となった。
ついに太子の孫和は廃され庶人となり、故鄣(浙江省湖州市安吉県)に移された。魯王の孫覇には死を賜った。楊竺は殺され、遺体は長江に流された。また、全寄・呉安・孫奇もみな孫覇党として孫和を中傷したため誅殺された。
当初、陸遜は若くして名声を得た楊竺が最終的に破滅すると言い、楊竺の兄である楊穆には別族となるよう勧めていた。楊竺の破滅に際し、楊穆は楊竺をしばしば諫め戒めたため死を免れた。朱據がいまだ官に至らず(新都郡丞に着任しないうちに)、中書令の孫弘は詔書により朱據へ追って死を賜った。
11月、孫権は子の孫亮を立てて太子とした。
12月、魏の征南将軍である王昶が上言した「孫権は良臣を放流し、適庶(嫡出子と庶子)が分かれて争った、隙に乗じて呉を撃つべし」
魏の朝廷はこれに従い、南陽出身で新城太守の州泰を巫(重慶市巫山県)・秭歸(湖北省宜昌市秭帰県)へ、荊州刺史の王基を夷陵(湖北省宜昌市夷陵区)へ派遣した。王昶は江陵(湖北省荊州市)へ向かった。王昶は竹で組んだ橋による渡水を行い、不利になった呉の大将である施績(朱然の子である朱績:朱然はもともと施姓だったが、朱治の養子となった、魏では施姓で彼らを呼んだ)は不利とみて、江陵城に逃げた。王昶は挑発して施績をおびき出して野戦し、大破した。
251年
1月、王基・州泰が呉軍を攻撃し、皆撃破した。降伏する者は数千あった。
5月、孫権は潘夫人を立てて皇后とし、大赦・改元した。
8月、呉の立節中郎将である陸抗は柴桑(江西省九江市)に屯していたが、病気の治療のため建康に来ていた。病状が良くなり、まさに帰ろうとしたとき、孫権は泣きながら別れて言った「私はかつて讒言を聴いて用い、汝の父に大義がないと考えていた。このせいで汝に負けた。前後の問うところ(陸遜に対する問責)は、一切を焼き捨て、人に見られないようにした」
このとき、孫権は孫和が無罪であることを悟った。
11月、孫権は南郊で祭祀を行って帰り、病を得たため、孫和の召還を欲した。全公主(孫魯班)・侍中の孫峻・中書令の孫弘が断固反対したため、孫和召還は中止となった。
孫権は太子の孫亮が幼少のため、委任すべき人選を議論させたところ、孫峻は大将軍の諸葛恪が大事の委任に堪えられると薦めた。孫権は自分勝手な諸葛恪を嫌ったが、孫峻は言った「当今の朝臣の才で、諸葛恪に及ぶ者はいない」
こうして武昌にいる諸葛恪は召還された。諸葛恪が建業に向かう際に、上大将軍の呂岱が諸葛恪を戒めて言った「世の中が多難なので、事あるごとに必ず10回考えるべし」
諸葛恪は言った「昔、季文子(魯の大夫である季孫行の父)は3回考えたあと行動したが、夫子(孔子)は2回で良いと言った。いま君は恪に10回考えるよう命じ、恪が劣ることを明らかにした」
呂岱は答えず、当時の人はみな呂岱の失言だと噂した。
諸葛恪が建業に到着し、病臥した孫権に会い、寝台の近くで詔を受けた。大将軍(諸葛恪)を太子太傅とし、孫弘が太子少傅となった。役人に詔し、諸事を諸葛恪1人に統べさせ、ただ殺生の重大事のみは事後報告を受けることとした。品秩・序列に応じた群官・百司の拝礼様式を整備した。会稽太守で北海出身の滕胤(孫権の娘婿)を太常にした。
252年
1月、孫権はかつての太子である孫和を立てて南陽王とし、長沙(湖南省長沙市)に置いた。仲姫の子である孫奮を斉王とし、武昌に置いた。王夫人の子である孫休(のちに呉の皇帝となる)を琅邪王とし、虎林(武昌より長江下流側にあったようだ)に置いた。
2月、呉は改元・大赦した。
呉の潘后は性格が強情でねじけており、孫権の疾病にあたって、后は孫弘に使者を派遣して呂后による称制(即位せずに政務を執ること)の故事を問うた。左右の者は彼女の暴虐に耐えられず、睡眠中に彼女を絞殺し、急病で死んだことにした。後に事実が漏れ、坐死するものが6-7人となった。
孫権の病は重篤となり、諸葛恪・孫弘・滕胤・呂據・孫峻を召して寝室にいれ、後事を託した。
4月、孫権が死んだ。
孫弘は平素から諸葛恪と不仲で、諸葛恪の独裁を恐れて、秘して喪を発さず、詔を矯めて諸葛恪を誅殺しようとした。孫峻は諸葛恪にこれを報告した。諸葛恪は孫弘に相談事があると坐を設け、その坐中で孫弘を殺した。
喪を発し、孫権を大皇帝と諡(おくりな)した。太子の孫亮が即位した。大赦・改元した。
閏月、諸葛恪を太傅とし、滕胤を衛将軍とし、呂岱を大司馬とした。諸葛恪は命じて視聴・校官(どちらも監察か)をやめ、滞納を元通りにし、関税を除き、恩澤(人々の利益や幸い)をたっとび、人々はみな喜んだ。諸葛恪が出入りするたびに、百姓は彼の様子を見ようと首を伸ばした。
諸葛恪は諸王が港湾の戦地に居ることを欲さず、斉王の孫奮を豫章(江西省北部)に、琅邪王の孫休を丹陽(江蘇省鎮江市丹陽市付近)に移した。孫奮は異動を承知しなかったが、諸葛恪は孫奮に長い手紙を送って孫覇の二の舞になるぞと脅し、孫奮は恐れて、ついに南昌(江西省南昌市、豫章郡の治所がある)へ移った。
10月、諸葛恪は東興堤(安徽省馬鞍山市含山県の南西にあった)を再建した。
11月、魏にて呉攻撃の詔勅が下された。
12月、王昶が南郡を攻め、毌丘儉が武昌に向かい、胡遵・諸葛誕が兵7万を率いて東興を攻めた。諸葛恪は兵4万で東興の救援に向かい、前線の丁奉(冠軍将軍)らの活躍により呉軍が大勝した。
253年
2月、戦勝に湧く呉だったが、諸葛恪は新たに北伐の軍を起こそうとした。群臣は反対したが、諸葛恪は強行した。
3月、諸葛恪は兵20万で魏への侵攻を開始した。
5月、諸葛恪は合肥新城(安徽省合肥市)を包囲したが、魏の牙門将で涿郡(河北省と北京市にまたがるエリア)出身の張特は3千の兵で堅守した。呉軍では、夏の暑さのうえに水が合わず、下痢・浮腫など病む兵が続出した。
7月、諸葛恪は軍を退いた。
8月、呉軍が建業に到着した。
諸葛誕は専制を強めようとし、再び北伐を企図した。
呉の人々が諸葛誕を怨み嫌ったため、孫峻は孫亮に政変を起こしたいと報告した。
10月、孫峻は孫亮と謀り、酒席を設けて諸葛恪を招いた。諸葛恪が入ろうとする前夜、胸騒ぎがし、眠れなかった。また家内で怪異がしばしば起こり、諸葛恪は不審に思った。明日、諸葛恪は宮門に駐車した。孫峻は既に帷中(幕中)に兵を伏せていたが、諸葛恪が定時に入らず、事が洩れるのを恐れ、自ら出て諸葛恪に会って言った「もし君の身辺に不安があるなら、後にしてもよい、峻が主上へつぶさに報告しよう」
こう言って諸葛恪の意思を試したところ、諸葛恪は言った「これから入ろう」
散騎常侍の張約・朱恩らは諸葛恪に密書を与えて言った「今日の設宴は普段と違う、これ以外に疑う理由があろうか」
諸葛恪は滕胤に密書を示したところ、滕胤も帰るよう勧めた。諸葛恪は言った「兒輩(子供、孫亮を指す)に何ができようか。酒食であたるのが怖いだけだ」
諸葛恪は入り、剣を履いたまま殿に上がり、進んで謝礼し退いて座った。酒席が設けられ、諸葛恪は疑って飲まなかった。孫峻が言った「君の病がまだ治っていないので、常に服用している薬酒を用意した、取りたまえ」
諸葛恪は安心した。持参された酒を数杯飲み、孫亮は内裏に戻った。孫亮は厠に行くといって立ちあがり、長衣を脱いで短服を着て、歩み出て言った「詔がある、諸葛恪を捕えろ」
諸葛恪は驚いて立ち上がったが、剣をまだ抜けないうちに孫峻の剣がその身に落ちた。張約は側面から孫峻を斬り、孫峻の左手を傷つけた。孫峻は応じて張約を斬り、右肘を断った。
武衛の士がみな殿上に集まり、孫峻は言った「捕えるべき者は諸葛恪だったが、今既に死んだ」
全員に刃を納めるよう命令し、除地し(その場を整えて or 場所を変えて)更に飲んだ。諸葛恪の2人の息子である諸葛竦・諸葛建は変事を聞き、母を連れて来奔(魏に亡命 or 単に逃げる)しようとしたが、孫峻は追手を派遣して彼らを殺した。
葦のマットで諸葛恪の死体を包み、腰を縛って、石子岡(建康の南にあった)にこれを投げ捨てた。
また、無難督の施寛に将軍である施績・孫台の軍をつけ、諸葛恪の弟で奮威将軍の諸葛融およびその3子を公安(湖北省荊州市公安県)で殺した。
諸葛恪の外甥(妻の兄弟姉妹の男子 or 他家に嫁いだ姉妹の男子)である都郷侯の張震、常侍の朱恩は、みな夷三族(父母・兄弟・妻子が誅殺されること)となった。
当初は孫峻が太尉、滕胤が司徒となる予定だったが、結局孫峻は丞相・大将軍・督中外諸軍事となり、御史大夫(副丞相に相当)を置かなかった。これにより士人は失望した。
滕胤の娘は諸葛恪の息子である諸葛竦の妻だったため、滕胤は辞位した。孫峻は言った「鯀・禹は罪が相及ばなかった(舜は治水に失敗した鯀を殺したが、その息子である禹は連座することなく、むしろ治水成功により賞された)、滕侯に何の罪があろうか」
孫峻は滕胤に対し内心不満だったが、外面では包容しあい、滕胤の爵位を高密侯に進め、以前のように共同で事にあたった。
斉王の孫奮は諸葛恪の誅殺を聞くと、長江を下って蕪湖に行き、建業に至って事変を観望しようと欲した。傅相の謝慈らが諫めたが、孫奮はこれを殺した。孫奮は王位を廃せられて庶人となり、章安(浙江省台州市)に移された。
南陽王・孫和の妃の張氏は諸葛恪の甥(性別に矛盾、親戚くらいの理解か)だった。かつて諸葛恪には遷都の意向があり、武昌宮を整備していた。そのため、民間では諸葛恪が孫和を迎えて皇帝に立てようとしているという噂があった。
諸葛恪の誅殺に際し、丞相の孫峻はこれを理由に孫和から南陽王の璽綬を奪って新都に移し、追って使者を派遣して死を賜った。
孫和の妾である何氏が息子の孫皓を生み、諸姫の子に孫徳・孫謙・孫俊がいた。
孫和が死ぬとき、張妃と別れ、妃は言った「吉凶は夫に従いたい、1人で生きたくはない」
張妃もまた自殺した。何姫は言った「もし皆が夫に従って死ねば、誰が孤児を養うというのか」
ついに孫晧とその3人の弟を養育し、息子らは彼女を頼って身を全うできた。
放論
宮廷闘争には戦場での華々しい衝突がなく、軽視されがちであるように思う。
しかしながら、政治目的の実現に一般兵の命を賭けることなく、専ら当事者同士のみで決着をつける、この観点から宮廷闘争を改めて評価すべきだと考え、今回取り上げることにした。
自身の才覚を誇示し権勢を高める手段として軍を動かした諸葛恪は、ちょうど良い対比となった。
孫和党(顧氏・陸氏・張氏・朱氏ら)と孫覇党(全氏・歩氏ら)の争いでは、概ね孫覇党が有利に運んだ印象を持った。
結果的にアンチ孫和の急先鋒で、孫権に特別な影響力を持つと思われる孫魯班が、孫峻とともに孫亮を担ぐ方針に転じたことで、孫和・孫覇両者の失墜と孫亮即位という方向を決定づけた。
呉の存続が危うくなるとしか思えないような状況を、なぜ孫権は10年近く放置したのか。
顧氏・陸氏といった主流派豪族達の権勢を前に、皇帝権を強化したい孫権が、あえて非主流派の御輿を用意して、主流派を失墜させたうえで頃合いを見て両成敗とした、という言説も見られたが、果たしてそこまでの劇薬を意図して使うものだろうか。陸遜や孫和への処遇を悔悟する孫権の姿からも、そう思わされた。
顧雍・陸遜・全琮・步騭・朱然と、国家の柱石たるべき重臣を次々と失い、諸葛恪に頼るしかなくなった呉の内情を実際に読み取ると、諸葛恪に対して酷評したくなる気持ちは和らいだ。実際、もう少し慎重に経験を積み重ねれば、名将・名宰相たりうる器のようにも思えた。
結局のところ、長期政権を築きながら人材の発掘・育成が出来なかった孫権に責任を帰すべきであろう。孫覇党など近臣の讒言に惑ったことも、晩年における人事の不出来を象徴する。
今回の記事では省略したが、このころ魏では、高平陵の変・王淩の乱・司馬懿死亡など司馬氏が国の実権を掌握する転機にあった。呉がこれほど内紛したにもかかわらず破綻しなかった理由は、もっぱら魏の国内事情にあったと考えられる。
後に豪族達へ数々の仕打ちを行い、暴君として蔑まれている孫皓。孫和の息子である彼の境遇を実際に確認すると、彼の行為にある程度共感できるようになってきた。
後年の西陵の戦い(歩闡の乱)では、孫覇党だった歩氏が孫皓に反旗を翻し、孫和党だった陸氏が鎮圧している。こうしてみると、歴史の因果を感じるところである。
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