西暦493年(南朝斉の永明十一年・北魏の太和十七年)以後しばらく、南北両朝で重大な出来事が集中して起こっているにもかかわらず、あまり注目されていないようだ。北魏での動きを追ってみた。ある程度割愛したものの資治通鑑をベースにした長文である。月は旧暦、年齢は数え年とした。
493年
1月、南朝宋から亡命した劉昶は、泣きながら雪辱戦を乞うた。拓跋宏(孝文帝、高祖)は南伐について公卿と会議した。
2月、拓跋宏は平城の南で藉田を耕した。藉田とは中華において行われた皇帝による農耕儀式であるが、北魏で行われた前例は無かった。
4月、魏の太尉の拓跋丕(後の元丕)らは中宮を立てるよう請い、馮氏(太師馮煕の娘、馮太后の姪)を皇后とした。拓跋宏は、「王者は妻の父母を臣下としない」と馮煕に不臣の礼を取らせようとしたが、馮煕はこれを固辞した。
5月、拓跋宏は四廟(世祖拓跋燾、恭宗拓跋晃、高宗拓跋濬、顕祖拓跋弘)の子孫と宴会したが、君臣の序列ではなく、年功序列での礼とした。
拓跋宏は司空の穆亮に、「今より朝廷の政は、日中以前に卿らが先に議論してほしい、日中以後に朕が卿らと共にこれを決裁しよう」と言った。
平城は6月に雪が降るほど寒く、砂嵐が常に起きる地だった。そのため、拓跋宏は洛陽に遷都しようとした。群臣が従わないのを恐れ、大挙して斉を伐つ議を行って、皆を脅かそうとした。明堂に大臣を集め、王諶に伐斉の是非を占わせ、「革」の卦が出た。
拓跋宏「湯王・武王が革命(夏殷革命と殷周革命)するとき、天に応じて人はそれに従った、これ以上の吉兆は無いだろう」
群臣にあえて発言する者は居なかったが、尚書の拓跋澄(任城王で後の元澄、文成帝拓跋濬の従兄弟)はいった、「陛下は代々威光を重ね、皇帝として中華の領土を保有している、今まだ服従していない国を征伐しようとしている(むしろ桀紂に相当する立場である)、ここで湯・武による革命の象が出たのは、完全な吉といえない」
拓跋宏は声を荒げて言った「古い占いの言葉(ここでは易経)に大人虎変(優れた賢者は時の流れに合わせて日に日に自己変革する)とある。なぜ吉でないというのか」
拓跋澄「陛下はずいぶん昔に龍として興った後である、今更虎変することもないだろう」
拓跋宏は怒りを顔に出して言った「この国は朕の国家だ、澄は皆の気運を阻もうとしているのか」
拓跋澄「この国は陛下の有するところだが、私は国家の臣だ。危ういと知りながら言わずにおれようか」
拓跋宏はこれを聞いてしばらくしてから怒りを解いて言った「各々がその志を言う、それを咎める理由は無い」
拓跋宏は明堂から宮に帰り、澄を呼びだして言った「先程の革の卦について、今更に卿とこれを論じよう。明堂での怒りは、人々が論争を始めて私の大計を阻む恐れがあったから、声色で文武を怖がらせただけだ。想うに卿は朕の真意を知っているだろう」
人を退けて澄に言った「今日話した伐斉が本当は難しいというのは承知している。ただ、この国は北地より興り、遷って平城に居る。平城は武を用いるための地であり、文をもって治めるのに向かない。今まさにこの国の武断的な風潮・習俗を変えようと思っているが、その道は本当に険しい。朕は、この大改革のため中原に移住したい。卿はどう思うか」
拓跋澄「陛下が住まいを中土へ移し、そして四海を経略しようと欲している。これは周・漢が興隆した理由である」
拓跋宏「北人は、常に古い習慣を恋うており、必ず驚き乱れるだろう。どうしたらいいか」
拓跋澄「非常のことは、常人だと判断できない。陛下がその高い志から断ずれば、彼らに何が出来ましょうか」
拓跋宏「あなたは私の子房(張良)だ」
6月、軍を渡河させるため、黄河を渡す橋を作るよう命じた。
虞淵が上表しての言い分として「先代は太平の世の主で、自ら六軍を率いて決戦することはなかった。勝ったとしても武勲としては足りず、勝たなければ威望を損なう。昔、曹操は疲れた兵1万で袁紹を破り、謝玄は歩兵3千で苻氏の前秦を粉砕した。勝負の変化は、ほんの少しのことで決まる。兵の多寡ではない。」
返信の詔にて、「先代が戦争を自らしなかった理由は、天下に敵が居なかったか、あるいは惰弱で安楽に流れたからである。今の北魏が天下統一したかというと、まだそうではない。先代を惰弱とする君の言い分は、恥ずべき行為であろう。王者が親征してはならないというなら、古の王が戦車に乗ってきた前例をどう説明するのか。曹操の戦勝は順当な理由があった。苻氏の敗北は失政ゆえである。寡兵が必ず大軍に勝ち、弱者が必ず強者を制するという理屈などあるものか」
7月、魏は長男の拓跋恂を立てて皇太子とした。
魏は内外に戒厳令を布き、露布(横断幕や懸垂幕のようなものか)を出し、各所に文書を飛ばし「まさに南伐すべし」と宣言した。
斉は揚州・徐州の民を徴発し、広範囲に募兵の旨を掲示してこれに備えた。
8月、拓跋宏は、拓跋羽(拓跋宏の異母弟で後の元羽、録尚書事、広陵王)に節(刑罰権を象徴する)を与えて六鎮を巡回させ、突騎兵を招集した。
拓跋宏は馮太后の墓に参拝した。
平城を出発して南伐を開始した。歩兵騎兵あわせて30余万。
拓跋羽と太尉の拓跋丕(前出、後の元丕)に平城の留守を任せた。両者とも使持節とした。拓跋羽は、「拓跋丕のみに節度を専権させ、自分は副官とするよう」と訴えたが、拓跋宏は、「老人(拓跋丕)の知恵と若者(拓跋羽)の決断力が両方必要だ、辞退するな」と言った。
別軍として、拓跋幹(拓跋宏の異母弟で後の元幹、河南王)を車騎大将軍・都督関右諸軍事として、穆亮(司空)・盧淵(安南将軍)・薛胤(平南将軍)を副官に添え、兵7万で子午谷から益州方面に出立させた。
拓跋宏は肆州(現在の山西省忻州市)に至った。路上に脚や眼の悪い民が居たので、駕篭を止めて慰労し、終生の衣食を保障した。拓跋休(拓跋宏の叔父、大司馬、安定王)が軍中で盗みをなしたもの3人を捕らえて拘禁し、まさにこれを斬ろうとした。拓跋宏が軍中を行幸する中でこれに遭い、命じてこれを赦免しようとした。拓跋休は命令を聞かず「陛下自ら六軍を御し、まさに遠く長江の南側まで清めようとしている。今、まだ行軍は始まったばかりなのに、つまらない奴らが窃盗を起こした。これを斬らなければ、悪行を禁じることが出来なくなる」といった。拓跋宏は、「誠に卿の言う通りである。しかし、王者の身体は、時に非常の恵沢を持つ。3人の罪は死に値するが、朕に遇ったのも何かの因縁だろう。軍法には違反するが、これを特赦してほしい」と言った。同時に拓跋宏は司徒の馮誕に「拓跋休は、厳格に法を執行している。諸君らは慎まねばならないぞ」と言った。こうして軍中の綱紀は粛正された。
拓跋宏は并州に至った。并州刺史の王襲の治世は評判がよく、領内も安静だったので、拓跋宏はこれを喜んだ。ところが、王襲は道端に自分の功績を称える銘碑を置いており、そこには偽りがあった。拓跋宏がこれについて問うたが、王襲は正直に答えなかった。拓跋宏は怒り、王襲を2階級降格させた。
9月、拓跋宏は、車駕が通る所で、秋の収穫が上手くいかなかったものには、畝ごとに穀物五斛を支給すると詔した。
拓跋宏は黄河を渡り、洛陽に到着した。かつての太学に行き、石に刻まれた経典を観た。
拓跋宏が平城を出発してから洛陽に至るまで、長雨が降り続いた。諸軍に詔して前進させた。拓跋宏は軍服を着て、鞭を執り馬に乗って出立しようとした。すると群臣が拝伏しながら行く手を遮った。拓跋宏「朝廷の謀は既に決まって、大軍が進もうとしている。諸公は今更何を言いたいのか」
尚書の李冲ら「今回の挙兵は天下が願うところではない、陛下一人が欲している。陛下の独断専行の結果どうなるか、私には分からない。我々は陛下を止めたいが、適当な言葉が思いつかない。あえて命を懸けて請願する」
拓跋宏は激怒していった「私はまさに天下を経営し、これを一つにまとめようとしている。ところが卿ら儒者は、私の大計を度々疑っている。私は卿らをいつでも処断できる。もう何も言うな」
馬に鞭を打ってまさに出ようとした。そこで、拓跋休らは並んで控え目に泣きながら諫めた。
拓跋宏は群臣を諭すように言った「今回の動員は大規模なものだ。成果が無ければ後に示しがつかない。朕らは代々北地に居り、南下して中土に遷りたいと思っている。南伐をしないのなら、都をここ洛陽に遷そう。王公らはどう考える。遷都に賛成なら左に、反対なら右にいけ」
拓跋楨(拓跋宏の叔父で後の元楨、南安王、墓誌が書道で有名)は進み出て言った「大功を成す者は、衆人と相談しない。今陛下が南伐の謀を止め、都を洛陽に遷せば、これは我ら臣下の願いであるとともに、人民の幸いである」
群臣、皆万歳といった。古くから北地に居る者達は、内地に移ることを嫌がったが、南伐をはばかり、あえて意見する者は居なかった。ついに遷都の計画が定まった。
李冲は拓跋宏に言った「陛下はまさに鼎(大業の基)を洛陽に定めようとしているが、宗廟や宮室ができるまで馬上で待つわけにいかない。願わくは陛下、しばらく代わりの都(平城)に還り、群臣が造営して工事が終わるまで待ち、その後に文物を携え、御車の鈴を鳴らしながら都に入られたい」
拓跋宏「朕は州郡を巡察し、鄴に少し滞在し、来年一月に平城に還ろうと思う。まだ北に帰るのは適切でない」
拓跋澄が平城に派遣され、残っていた百官に遷都のことを諭して言った「今日の遷都の件が先日の革の卦の真相である。諸王よ、遷都に向け勉めよ」
拓跋宏は、群臣に異同が多いため于烈(名将于栗磾の孫、鎮南将軍)に訊ねた「卿の意向はどうか」
于烈は言った「陛下のお考えは深淵で、愚かで浅はかな私の測るところではない、あえて心のうちを言うのなら、遷都が楽しみな気持ちと平城を恋う気持ちと、そのちょうど真ん中だ」
拓跋宏「卿は異を唱えなかった。これは肯定であるな」
熟慮して反対意見を言わなかった于烈の姿勢に感銘を受け、彼を平城に帰らせて鎮守の任にあてて「平城の緒政は、全てお前に任せる」と言った。
10月、拓跋宏は金墉城に行って穆亮を呼び、李冲・董爾と共に洛陽の造営にあたらせた。河南城(洛陽の西にある漢代河南県城か)・豫州・石済を巡った。
魏は戒厳令を解き、滑台(現在の河南省安陽市滑県、かつて白馬と呼ばれた)城の東に祭壇を設け、先祖に遷都を告げた。大赦し、滑台宮を造成した。拓跋澄が平城に着いて、衆人は初めて遷都を知り、全員驚愕した。拓跋澄は古今の事例を引用しながら、おもむろに諭した。衆人は蒙を開かれ遷都の決定に従った。拓跋澄は滑台に戻って報告した。拓跋宏は喜んで「拓跋澄でなければ、朕の事業は成しえなかったろう」
拓跋宏は鄴城に行った。
王粛(この年の3月に斉から魏へ亡命してきた)は鄴で拓跋宏と謁見し、伐斉の策を話した。拓跋宏はこれと語り、思わず時が経つのを忘れた。王粛は日々重んじられるようになり、近臣・旧臣たちも間に入れない程だった。拓跋宏は王粛と人払いをして夜中まで話し合い、巡り合うのが遅かったと嘆いた。王粛を輔国将軍・大将軍長史に叙任した。そのころ、拓跋宏は礼楽を定め、中華風に改めようとしていた。この礼楽の制定にあたって、王粛が定めた部分は多かった。
拓跋宏は拓跋休(前出、安定王)に従官を率いさせ平城まで向かわせた。
11月、拓跋宏は鄴の西に築かれた宮に移った
494年
1月、拓跋宏は南を巡行した。比干(殷の忠臣、甥である紂王に諫言し殺された)の墓を通ると、贄として牛・羊・豚を揃えた最上の格式で祭った。拓跋宏自ら祝文を作り、「ああ甲冑の士よ、あなたはどうして我が臣下でなかったのだ」と記した。
拓跋宏は洛陽の西宮に行った。中書侍郎の韓顕宗は4項目の陳情を上書した。
一「陛下はこの夏、三斉を巡らず、まさに中山に行幸しようとしていると密かに聞いた。昨冬陛下が鄴に滞在した際、農閑期だったが、多くの家を動員してお仕えし負担に耐えられなかった。今は養蚕・麦刈りの繁忙期である。どうして命令に堪えられようか。また、六軍が夏を過ごすとおそらく疫病が発生するだろう。早く北京(平城)に還って、諸州から供宴を準備する苦役を省き、洛陽の工事に集中されたい」
二「洛陽宮の基礎は、魏の明帝(曹叡)が造っているが、以前からその豪奢は批判されていた。今年造営・修繕するなら、規模を縮小した方が良い。また、この頃、平城の富豪達は邸宅の豪華さを競っている、遷都にあたってはルールを設けるべきである。そして、街道を広く整え、水路を通すべきである」
三「陛下が洛陽に帰還した際、騎馬の従者を少数率いたのみだった。王者は宮中においてさえ先払いを行っている。まして山河を渡るのであるから、熟慮してほしい」
四「陛下は耳に雅楽を聴き、目に経典を読み、口に百官に応答し、心に天下の政治を慮り、夕べに食し、夜分に寝ている。さらに、文明太后(馮太后)への追慕は日に日に深く、文章が毎日篇巻を成すほどとなっている。陛下の叡明であればまだ煩雑ではないのだろうが、精神は休まっていない。無疆(戦国越で最後の王)はこの理由で天子の位を失った。願わくは陛下、何もせず大略のみを司り、天下を治めてほしい」
拓跋宏はこの陳情に悉く従った。
韓顕宗は他にも、才に基づいた人材登用など様々な提言を行い、拓跋宏の意を得た。
2月、拓跋宏は黄河の南に行き、測量した。
拓跋宏は北に向かって出発し、黄河を渡った。
3月、拓跋宏が平城に到着。遷都の利害について、群臣と議論した。
燕州刺史(東北部を掌管、治所は現在の北京市昌平区)の穆羆は言った「まだ四方が定まっておらず、遷都すべきでない。また、征伐にあたって馬が無ければどうやって勝つのか」
拓跋宏は言った「厩舎・牧場は代にある。馬が無いことを憂う理由は無い。代は恒山の北・九州の外にあり、帝王の都ではない」
尚書の于果はいった「代の地が洛陽より魅力的だというつもりはないが、先帝以来久しくこの地に居り、皆安住している。南遷すると衆人には不満が生じるだろう」
拓跋丕(前出)は言った「遷都は国家の大事である。これを占いに訊ねてはどうだろう」
拓跋宏は言った「周公旦や召公奭のような聖人・賢人であれば、住まいを占うこともできたろうが、今そのような人はいない。遷都を占うことにどのような益があろうか。また、占いとは疑いを決するために行うものだ、疑いなき案件でどうして占いを行おうか。昔、黄帝が占いして、亀は焦げた(兆が無かった)。天老がこれを吉兆と言い、黄帝はこれに従った。つまり、道を極めた人は亀以上に未来を知ることが出来る。王者は四海を家とし、あるいは南にあるいは北に向かう、常在の地などない。朕の遠い先祖は代々北方の荒れ地に居り、平文皇帝(拓跋鬱律)は初めて東木根山を都に定め、昭成皇帝(拓跋什翼犍)は改めて盛楽を造営し、道武皇帝(拓跋珪)は平城に遷都した。朕は善人として悪を為さずに国家運営している。しかるに自分だけ遷都してはいけないというのか」
群臣は何も言わなかった。
4月、魏は西郊における祭天行事を止めた。5月5日・7月7日に先祖へ酒食を供えるのも止めた。
7月、魏は宋王の劉昶(前出)を使持節・都督呉越楚諸軍事・大将軍として、彭城に出鎮させた。拓跋宏自ら劉昶への餞別を行い、王粛(前出)を長史として補佐に当てた。彭城は劉昶の旧領だったが、彼はその鎮撫に失敗した。
拓跋宏は北方を巡行し、朔州に至った。
8月、拓跋宏は陰山山脈に至った。その後、懐朔鎮・武川鎮・撫宜鎮・柔玄鎮を巡回し、平城に戻った。
9月、魏は詔して言った「3年毎に成績を考慮し、このプロセスを3回経る(9年)ことで官位の進退を決めているが、人事の停滞が見られる。朕はこのたび3年にして官位の進退を定め、愚か者が賢者の進路を塞いだり、才ある者が下位に甘んじたりすることのないようにしたい。各々の優劣を上等・中等・下等の3等に分け、上等・下等は更に上・中・下で3分する。六品官以下は尚書が、五品官以上は朕が公卿らと共に決める。上等の上は昇進、下等の下は降格、中等は現状維持とする」
拓跋宏が北巡した折、拓跋澄(前出)を留めて旧臣を評価・選考させた。公侯以下、官のある者は万単位であった。拓跋澄は彼らの優劣や能力の有無を3等に評定した。その評価は公正で恨む者が居なかった。
拓跋宏は朝堂に臨み、百官の進退を定めて、尚書たちに言った「尚書は政務の要であり、ただ庶務を総監し、文書を管理するだけではいけない。朕の得失は全て尚書にある。卿らは官に長年居るが、未だかつて国家の決定や人材活用になんの変化も与えてこなかった。この罪は最も大きい」
また拓跋羽(前出、尚書を統括する録尚書事)に言った「汝は朕の弟で、機構の最上位に居りながら、勤勉の声望はなく、こびへつらいの痕跡がある。今、汝の録尚書事・廷尉を剥奪し、ただ太子太保(皇太子を輔導する東宮三師の末席)とする」
また尚書令の陸叡に言った「拓跋羽が尚書に来た当初はとても評判が良かった。この頃は不公平で怠けてしまった。卿が義をもって彼を導けなかったせいである。大きな責任ではないが、小さな罰を下すべきであろう。卿の秩禄を1期分没収する」
また尚書左僕射の拓跋賛(西魏の十二大将軍・元賛とは別人)に言った「拓跋羽は降格となった。卿はまさに死に値する。ただこの咎を一人に帰するわけにもいかない。今、卿の少師(三公の副官として天子を補佐する三少の主席)を解き、秩禄1期分を没収する」
また尚書左丞の公孫良・尚書右丞の乞伏義受に言った「卿の罪もまさに死に値する。官位はそのままだが冠衣の着用を許さず白衣とする、また付加的な俸禄を全て削る。3年で成果があれば元に戻すが、成果が無ければ南方で農業に従事することになる」
尚書の拓跋澄に言った「叔父は意識がおごりたかぶっている、少保を解任する」
長兼尚書の于果にいった「卿は職事に勤めず、しばしば病で辞していた。長兼を解任し、秩禄1期分を没収する」
その他、守尚書の尉羽・盧淵など、職に勤勉でないことを理由に解任・降格・秩禄没収と、彼らの過失を責めた。
拓跋宏は、陸叡にいった「北人は、自身の習俗が質朴魯鈍で書を知る道理などないと常日頃から言っている。朕はこれを聞いて心底失望している。今、書を知る者は甚だ多いが、彼らがみな聖人というわけではなく、学んだか学んでないかだけだ。朕が百官を整え、礼楽を盛んにする、その志は風土を移し、習俗を変えたいがためだ。朕が天子となり、中原に居たいから遷都するのではない。ただ、卿らの子孫が次第に中華の美俗に染まって見聞を広めることを望んでいるのだ。もし長く恒山の北に居て、また文書を好まない主君になれば、国民の視野は垣に面した時のような狭いものになってしまう」
陸叡が答えていった「誠に聖人の言葉のようだ。金日磾が匈奴から西漢に入朝して仕えなければ、7世まで名を知られなかったろう」
拓跋宏は甚だ喜んだ。
10月、魏は太尉の拓跋丕(前出)を太傅・録尚書事とし、平城の留守を任せた。
拓跋宏は自ら太廟に告げ、拓跋雍・于烈に、神主を洛陽に遷させた。その後拓跋宏自身も平城を発した。
拓跋宏は信都に行った。
11月、拓跋宏は鄴に行った。
拓跋宏は洛陽に到着し、百官を浄化したいと考え、尚書の崔亮(名門の清河崔氏)に人事官を兼ねさせた。
拓跋宏は後軍将軍の宇文福(宇文泰とは別の系統だが同族)に勅命し牧地を巡らせた。宇文福は石済以西・河内以東で黄河から10里隔たったところに牧地を設け、拓跋宏は代の地から雑畜を移してその地に置き、宇文福に掌管させた。移動にあたって牧畜の損失はなく、宇文福は司衛監に任じられた。
世祖(拓跋燾)が統万(赫連夏の首都)や秦・涼の地を平定した時、河西の水草の質が良いため、ここを牧地にした。河西における牧畜はとても盛んで、馬は200余万匹、ラクダはその半数で、牛・羊は無数であった。高祖(拓跋宏)に及び、牧場を河陽(現在の河南省孟州市)におき、常に軍馬10万匹を飼った。毎年河西から并州に移して、水土に慣らしてから河陽に移すことで減損しないよう配慮していた。供給源である河西の牧畜は一層盛んになった。後世の正光年間(520-525年)以後、河西の牧畜は強盗達に残らず奪われた。
12月、拓跋宏は旧風を変革しようとした。詔して士民の胡服着用を禁じた。北族の多くが不満であった。
拓跋宏は劉芳・郭祚といった文学者を愛好し、しばしば政治に関する密談を行った。大臣や貴族たちは、皆自分が疎んじられていると思い、不平を表すようになった。拓跋宏は陸凱に彼らを説得させた「皇帝はただ広く故事を知り、過去の作法を問いはかりたいだけで、君らを疎んじているわけではない」
衆人たちの態度はやや軟化した。
494年12月から495年3月、拓跋宏は、南朝斉における皇帝の廃立を好機として南進を図った。30万を号する大軍で親征して寿春(安徽省淮南市)に入城したが、鍾離(安徽省滁州市)の斉軍を突破できず退いた。
495年2月に、拓跋宏と斉の使者崔慶遠との間で行われた問答についてはその1を参照。
別動隊として西方から漢中攻略も行っていたが、495年4月にこちらも退いた。
495年5月、拓跋宏は北の習俗を変えようとし、群臣を引見して言った「卿らは朕が遠く商・周を追い求めること欲するか、ただ漢・晋にも及ばないことを欲するか」
拓跋禧(拓跋宏の異母弟で後の元禧)は答えて言った「群臣は陛下が前王を越えることを願うのみ」
宏「であれば風潮・習俗をかえるべきか、因循姑息に古いしきたりを守るべきか」
禧「聖王の政治が日々新たになることを願っている」
宏「ただ自分の身だけで止めるか、これを子孫に伝えたいか」
禧「これを百世に伝えたい」
宏「であれば、まさに作りなおさねばならない、卿らはこれを違えてはならない」
禧「上の令に下は従う、誰が違えようか」
宏「名や言語が正しいものでないと、礼楽は興りようがない。今諸々の北語を禁じ、華言のみに従うものとする。30歳以上だと習性が久しく急に変えるのは難しいだろう。30歳以下で朝廷にある人は語音が旧来の北語であることを許さない。違反者は降格させる。各々深く戒めるよう。諸君ら王公卿士に、異論はないか」
禧「皇帝の考えに従う」
拓跋宏「朕はかつて李冲と公用語について議論した。李冲は、四方の多様な言語で正しいものなど誰にも分からない、皇帝が使えば正統になる、と言った。李冲の言葉、その罪は死に値する」
李冲を見て言った「卿は国家に背いた。まさに監察官に引き渡すべきであろう」
李冲は冠を脱ぎ、頭を地につけて謝罪した。
また、留守の官を責めて言った「先程婦女の様子を遠くから見たが胡服のままだった。卿らはなぜ以前の詔を遵守しないのか」
皆謝罪した。
拓跋宏は言った「朕の言葉が是でないなら卿らは朝廷で論争すべきだ。私が居るうちは従って居なくなれば従わないとはどういうことか」
6月、拓跋宏は詔を下した「朝廷において北族の言語を禁じる、違反者は免官とする」
拓跋宏は太師馮煕(前出、拓跋宏の舅、馮太后の兄)の喪のため、太子の拓跋恂を平城に派遣した。
魏は度量衡を改めて漢書律暦志に準拠させ、法律も漢書芸文志に依拠して整備した。
8月、魏は武勇の士15万人を選んで、羽林虎賁とし、宿衛に当てさせた。
金墉宮が落成し、四方の門や教育施設を洛陽に建立した。
拓跋宏は華林園に遊び、景陽山を観望した(どちらも曹叡が築いた)。
黄門侍郎の郭祚が言った「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ(論語)。これらを修繕すべきである」
拓跋宏は言った「曹叡はかつて豪奢により仁智を失った。朕がこれを継ぐつもりはない」
拓跋宏は読書を好み、書巻を手放さなかった。輿や馬上にあっても道を講じることを忘れなかった。よく文献を頼りにし、頻繁に馬上において言葉で吉兆を占い、その結果は一字も改めなかった。太和10年(486年)以後は、勅書手記を全て自分で作った。賢と善を求める気持ちは飢え渇きのようであった。共に遊び接待するときは、畏まらない簡単な衣服で常に参加させた。李冲・李彪・高閭・王粛・郭祚・宋弁・劉芳・崔光・邢巒らのように、皆文学に優れたことから拓跋宏より親愛され、高貴顕職として政事を行い、礼楽を制定した。文治の盛んな様子は太平の世のようであった。
9月、魏の後宮と百官がことごとく洛陽に遷った。
拓跋宏は鄴に行き、相州刺史である高閭の治政を褒め称えた。高閭は故郷の幽州に帰りたがったので、幽州刺史に任じて故郷に錦を飾らせ、相州の後任に拓跋雍(前出)を任じた。
10月、拓跋宏は鄴から洛陽に帰還し、諸州に詔した「州牧は部下を詳しく評価して、その得失を考慮して3等級に分類し報告するように」
また斉との国境に近い徐州・兗州・光州・南青州・荊州・洛州の六州に軍備を命じた。
11月、拓跋宏は委粟山(洛陽市にある山、かつて曹魏・西晋で祭天行事が行われた)に行き圜丘(祭天に用いる円壇)を定めた。拓跋宏は諸々の儒者と引見して祭天の様式を議論した。
李彪が建言した「魯の人は、上帝(昊天上帝、天帝)への祭事を行う前に泮宮(孔子廟か?)で祭事を行った。また、前日は宗廟に報告してほしい」
拓跋宏はこれに従った。
祭天を行い、大赦した。
(拓跋部古来の西郊祭天から中華式の南郊祭天に移行した)
12月、拓跋宏は人事令を宣下し、人材選抜を始めさせた。人材活用にあたっては、群臣からの助言を積極的に求めた。
拓跋宏は群臣に冠服を下賜し、胡服を改めさせた。
かつて魏の人に銭を使う風習は無かった。拓跋宏は初めて五銖銭を鋳造させた。この年、鋳造はほぼ終わり、詔して公私にわたって五銖銭を使わせた。
496年
1月、拓跋宏は詔した「北人は土の字を拓とし、后の字を跋とした。魏は黄帝を祖先とし、土徳の王であるが故に拓跋氏となった。土とは世界の中心である黄土を象徴し、万物の元である。姓を元に改めるのがよい。諸々の功臣旧族で、代より来た者、姓の重複があるものは、皆これを改めよ」
拓跋→元をはじめとし、拔拔→長孫、達奚→奚、乙旃→叔孫、丘穆陵→穆、步六孤→陸、賀賴→賀、獨孤→劉、賀樓→樓、勿忸于→于、尉遲→尉、その他多くの改姓が行われた。
元宏はもとより門閥貴族を重用し、范陽盧氏・清河崔氏・滎陽鄭氏・太原王氏の四姓から女子を後宮に迎えた。重臣の李冲も、その娘を夫人として後宮に迎えた。
宋弁に詔して諸州の士族の階級を定めさせ、昇降するところが多かった。
詔していった「代人はこれまで姓族がなく、功臣賢臣の子孫であっても冷遇されることがあった。故に栄達する者は位を極めるが、その親戚であっても卑官に止まっている。穆・陸・賀・劉・樓・于・奚(もしくは嵇)・尉の八姓は、拓跋珪以来の当世において勲功が著しく、王公の位も度々与えられた。これらに卑官が当てられないことは、四姓と同様とする。これ以外の代人達は、後で別に勅しよう。旧部落で大人(リーダー)となり、三世の官が給事以上で、王公の位に登った者は姓としよう。もし元々大人でなくとも、三世の官が尚書以上で、王公の位に登った者は、またこれを姓としよう。大人の後裔だが、顕官を得られなかった者は族とする。大人の後裔でなくとも、顕官になった者は族とする。これら姓族には全て審査を行う、詐称は許さない」
穆亮・陸琇らに詳しく定めさせ、公正であるよう努めた。
魏の旧制では、国の舎人はみな八姓や高貴な門閥と婚姻すべきと定めていたが、元禧(前出)は奴隷から妻を迎えた。元宏はこれを責め、詔して6人の弟達に妻を迎えさせた。
「過去に納れた女性は側室とするよう。元禧は李輔の娘を迎えなさい。元幹は穆明楽の娘を迎えなさい。元羽は鄭平城の娘を迎えなさい。元雍は盧神宝の娘を迎えなさい。元勰は李冲の娘を迎えなさい。元詳は鄭懿の娘を迎えなさい」
趙郡に数家系ある李氏は、政権内に多く人物を擁し、家が盛んであった。故に先の四姓に李を加えた五姓が貴族のトップと考えられた。
元宏は群臣と官吏の編制を論じて言った「近世、家門の高卑により身分が固定化している。これは果たして是か非か」
李冲「まだはっきりしない、官位の序列は貴族の子弟のためであるか、治世を全うするためか」
元宏「治世をなそうと欲するのみ」
李冲「ならば陛下、家門を取り才能を考慮しないというのか」
元宏「優れた才人の存在を知らないのは嫌だ。しかし名門はたとえ当世に役立つ才がなくとも徳行は純粋で篤い、朕はこれ故に名門を用いる」
李冲「傅説(殷の宰相、元は建築業)・呂望(太公望か、羌族の有力者と思われるがここでは漁業関係者として扱われている)は、名門重視だと得られない」
元宏「そのような非常の人は、広いこの世界でも1,2人居るかどうかだろう」
群臣は納得せず、反論を続けた。後日、元宏は劉昶に対し、改めて実力のみによる任官を否とする持論を述べた。
2月、魏は群臣に詔し、戦時を除いて三年の服喪を完遂することを許した。
魏は詔して、畿内の70歳以上を晩春に洛陽に赴かせ、養老の礼を行った。
3月、群臣及び卿大夫士を華林園に招いて宴会を開き、長老に官位を授けるなど歓待した。
7月、魏は皇后の馮氏を廃した。馮太后は実家の貴顕を望み、馮煕の娘を二人選んで後宮に入れた。一人は早世し、もう一人は元宏の寵愛を受けたが、病のため実家に戻って尼となった。太后の死に及んで、元宏は馮煕の少女を別に立てて皇后とした。ところが実家に帰っていた姉の病が治り、元宏はこれを想って再び後宮に入れ、左昭儀とした。皇后への寵愛は衰えた。昭儀は年長で先に宮に入ったこともあり、妾の礼に従わなかった。皇后はこれを恨み、昭儀は皇后をそしって廃后させた。皇后はもともと徳と操があり、後に瑶光寺(洛陽市にかつてあった尼寺、元宏の次男である世宗宣武帝・元恪によって建立された)に出家した。
元宏は干ばつを理由に断食し、3日になろうとしていた。群臣は中書省に行き、謁見を望んだ。元宏は斎戒を理由に謁見を拒み、来訪の理由を問うた。
王粛は言った「今四方は雨であまねく潤っている。干ばつは洛陽のみの問題である。庶民が一食を欠かす程の問題は起こっていないのに、陛下は3日食事していない。臣下は不安で身の置き所がない」
元宏は舎人伝いに伝言した「朕が食事をしないこと数日だが、まだ何も感じない。この頃皆は四方に雨があるというが、証拠がない。朕の断食を止めようと言っているのではないか。これから使いに実際の様子を見させ、本当なら食事もしよう。もし雨が無ければ万民のために咎めを一身に受けるため、この命など惜しまない」
この日の夕方、大雨があった。
魏の太子の元恂は学を好まず、体は肥大しており、河南の地の暑さに苦しみ、常に北帰を願っていた。元宏は元恂に衣冠を授けたが、元恂は密かに胡服を常用していた。中庶子(皇太子の侍従)の高道悦はしばしばこれを諫めたが、元恂はむしろ彼を憎んだ。
8月、元宏は嵩高(河南省登封市の嵩山か?)に出かけたが、元恂は左右と密かに謀り、牧馬を調達して平城に向かおうとした。そして、禁中において高道悦を自ら殺した。宮殿を守る中領軍の元儼は、門を制御して防ぎ止め、夜に入って鎮圧された。
翌朝、尚書の陸琇が馳せて元宏に報告した。元宏は大いに驚いたが、このことを内密にし、汴口(汴水と黄河の通じる口)まで至って帰った。
宮に入った元宏は元恂を引見してその罪を責め、元禧(前出)と交代しつつ百回以上杖で叩いた。強引に退出させて洛陽城の西に拘禁した。元恂が起き上がれるようになるまで1ヶ月以上かかった。
10月、魏は詔して、代から洛陽に来た軍人を全て羽林虎賁(皇帝直属の衛士)とし、洛陽の男性のうち12人に1人を力役のため調達した。
吐京胡(山西省呂梁市石楼県付近の異民族、しばしば北魏に背いている)が魏に反逆したため、元彬(元宏の従兄弟、前出の元楨次男)にこれを撃たせた。元彬は何度も戦勝したが、吐京胡の胡去居ら6百余名は天険に籠って抵抗をつづけた。元彬が兵2万を要請したところ、元宏は怒って言った「このような小さい兵乱に中央の兵を動員する道理があるものか。手勢で討伐せよ。もし元彬が勝てなければ大軍を用いることになるが、まず元彬を斬ってから兵を動かそう」元彬は大いに恐れ、旗下の州兵を督戦し、自ら軍の先頭に立った。そうして、胡去居らを討ち、乱を平定した。
元宏は群臣を引見し、元恂の廃太子について議論した。太子太傅の穆亮・少保の李冲は冠を脱ぎ、額を地に付けながら謝った。
元宏は言った「卿が謝っているのは私の領分だが、我が議論するのは国家である。『大義親を滅する』は古人の尊ぶところである。今、元恂は父に違えて逃げ叛き、北方で独立しようとしていた。天下にこれ以上の悪事があろうか。もし元恂を太子から廃さねば、国家の憂いとなる」
閏10月(※)、元恂の皇太子を廃して庶人とし、無鼻城(河南省焦作市孟州市)に幽閉した。食事や服は飢えや寒さをしのぐ最小限のものとされた。
魏は常平倉(穀物の価格維持や飢饉への備えとして、穀物を備蓄した公設倉庫)を設置した。
かつて魏の文明太后(馮太后)は元宏を廃位しようとし、穆泰が強く諫めて沙汰止みとなった。このため、元宏は穆泰を寵愛した。一方で、皇帝が南下して洛陽に遷都してからは、信任された者の多くが中華の儒士であり、宗室や代の人は不満で心が晴れなかった。
穆泰(代の人)は尚書右僕射から定州(河北省中部)の刺史に転出していたが、長い病と暖かすぎる風土を陳情し、恒州(平城周囲)への異動を希望した。元宏はもとの恒州刺史だった陸叡(代の人)と任地を入れ替えようとした。穆泰は恒州に着いたが、陸叡はまだ出立しなかった。ついに二人で乱をなすことを謀り、元思誉(拓跋晃の孫で元宏の従兄弟、鎮北代将軍、楽陵王)・元隆(元丕の子、安楽侯)・元業(元丕の弟、六鎮のひとつ撫冥鎮の将、魯郡侯)・元超(元丕の子、驍騎将軍)らと結託し、元頤(拓跋晃の孫で元宏の従兄弟、朔州刺史、陽平王)を主に推戴しようとした。
陸叡は元宏がおおらかで聡明だとし、穆泰の政変を緩やかに進行させようとした。元頤は偽って政変への参加を許可して油断させると、密かに書状で元宏に報告した。
元澄(前出、任城王)は病気だったが、元宏は彼を招いて言った「穆泰が謀反を企てて宗室を扇動誘引している。北人は昔を恋い、南北はごたついている。朕の洛陽政権は倒れようとしている。これは国家の大事である。卿でなければ対処できない。卿は病んでいるが、我がために強いて北行し、その情勢を詳細に観よ。もし微弱なら直行してこれを捕らえ、既に強勢なら天子の命で并州・肆州(ともに山西省付近)の兵を徴発して、これを撃つべし」
元澄は答えて言った「穆泰らは愚かで惑い、昔を恋うる気持ちだけでこの計画を行っただけ。深謀遠慮は無い。私は愚かで気が弱いが、彼らを制するには十分である。願わくは陛下、心配しないよう。臣下は病ありといえど、あえて辞退しようか」
元宏は笑っていった「元澄が行くのであれば、朕に何の心配があろうか」
元澄に節(刑罰権を象徴)・銅虎竹使符(兵の徴発などに使用する割符)・御杖左右(天子の左右に在る者が持つ杖)を授け、恒州の政変に対処させた。
雁門(山西省北部にある山)に到着したところ、雁門太守が夜に告げてきた「穆泰は既に兵を率い、西に向かい陽平(河北省南東部と山東省西部にまたがる地域)に到着した」
元澄は俄かに進発しようとし、右丞の孟斌が言った「まだ事態が十分飲み込めていない。勅命に従って并州・肆州の兵を召集し、その後ゆっくりと進むべきである」
元澄は言った「穆泰は既に乱を謀った。まさに堅城に拠るべきである。にもかかわらず陽平に向かった。この行動を推し量るところ、まだ軍勢が足りないのであろう。穆泰が我々を防ぎきれないと既に知りながら、理由なく兵を徴発するのは不適切だ。ただ現地に急行してこれを鎮圧すれば、民心は自ら定まる」
道中を半分の日程で昼夜兼行した。まず治書侍御史の李煥を単騎で平城に派遣して、穆泰の仲間達に彼らの禍福を教え諭し、切り崩しを行った。穆泰陣営に計略の出所はなく、麾下数百人を率いて李煥を攻めたが勝てなかった。穆泰は西に逃走したが、李煥は穆泰を追って捕らえた。その後、元澄が到着し、乱の徒党の罪状を調べあげて、陸叡ら百名あまりを収監し、民間は安らかであった。
元澄は書状で元宏に報告し、元宏は喜んで、公卿を召集して書状を示して言った「元澄は国家の臣というべきであろう。その判決文を見るに、皋陶(堯舜時代に公平な裁判を行った伝説上の人物)さえもどうして元澄を上回っていようか」
元禧(前出)らの方を振り返って言った「汝らが今回の変事を担当した場合、これほど見事な処理はできなかったろう」
元宏は斉への侵攻を企て、公卿を引見していった「朕は住まいを中央の黄土に定め、この事業はほぼ成就した。ただ南方の賊を平定できていない。最近の皇帝たちのように奥深い宮殿の帳の中に籠っているつもりはない。朕は今、南征を決した。ただ時期については決めかねている。最近の占い師は今行けば勝てるというが、国の大事なので群臣各々の意見を尽くしてほしい。曖昧な態度はとらないでくれ」
李冲「兵を用いるときは、まず人事を論じ、その後天道を察するべきである。今占いで吉が出たというが、人事は備わっていない。遷都したばかりで、今秋は不作だった。まだ軍を動かしてはいけない。私の意見としては来秋を待つべし」
元宏「かつて太和17年(493年)に、朕は兵20万を擁していた。これ人事は盛んであった。ところが、天の時は利あらずとなった。今、天の時は既に従ったが、人事未だ備わらずという。李冲の言葉どおりなら征伐の適期は無いことになる。洛陽は外敵の攻撃に近く、後日国家の憂いとなるだろう。朕はどうして現状に安心していられるだろうか。もし来秋に行って勝てなければ、諸君らを刑務官に引き渡す。思うところがあれば存分に述べよ」
※当時の中華は、月の満ち欠けに合わせて1ヶ月としていた。数年すると暦の月と季節が合わなくなるので、そこで閏月を使って1年13ヶ月とする年を設けて調整していた。ちなみにこのとき、南朝における暦上は11月であった。
497年
1月、魏は皇子の元恪(元宏の次男、後の世宗宣武帝)を皇太子とした。
元宏が開いた宴会で元恂の話題になったので、李冲が上手く輔導できなかったことを謝罪した。元宏は自分すら元恂の悪を変えられなかったので、師の罪ではないといった。
元宏は北方を巡行した。
2月、元宏は太原を経由して平城に到着し、前年に反乱を起こした穆泰・陸叡一味を引見して、無実の者はだれ一人いなかった。人はみな元澄の明察に感心した。穆泰とその親類はみな誅殺された。陸叡は獄死となり、妻子は許されたが遼西に移住のうえ平民となった。
元宏は遷都し、旧俗を変えたが、元丕(前出)は甚だ不満だった。朝臣が衣冠を変えた後も、元丕は独り胡服だった。元丕は宗族の長老だったこともあり、元宏も無理強いしなかった。
かつて太子元恂が平城より洛陽に遷ろうとするタイミングで、元隆(前出、元丕の息子)が穆泰らと密かに謀り、元恂を留めて挙兵し雁門の関を封鎖し、北方に自立しようとしたことがある。元隆らは自らの計画について元丕と相談した。元丕は成就しないことを考慮して外面上は論難したが、内心はとても共感していた。計画が露見し、元丕は元宏に従って平城に至った。元宏が穆泰らを取り調べる時は、元丕を同席させた。
役人は奏上した「元業・元隆・元超(いずれも前年の乱に参加した元丕親族)の罪は親族も対象となる、元丕も連座すべし」
元宏は、かつて元丕が死を免じる詔を受けていたことから、死を免じて平民となるのを許し、その後妻と二子を留め、ともに太原に住まわせた。元隆・元超と同母兄弟の元乙升は殺され、他の子らは敦煌に移住となった。過去に死を免じる詔を受けたのは、元丕・陸叡・李冲・于烈だった。陸叡が既に誅殺されたので、元宏は李冲・于烈に反逆以外の罪を赦免すると詔した。李冲・于烈はみな感謝の意を上表した。
代の旧族は多くが穆泰らの謀に参加したのに対し、于烈の一族は一切関わっていなかった。そのため、元宏は于烈らをますます尊重した。元宏は北族が暑さを恐れるため、秋は洛陽に来させる一方で、春は部落に帰ることを許した。時の人は彼らを雁臣と言った(雁は寒さを避けて南に来て、暑さを避けて北に帰る)。
4月、龍門(山西省と陝西省の間で、黄河両岸に切り立った崖があるポイント、伝説上の禹王による治水工事が行われたとされる)に行き、禹を祭った。蒲坂(山西省運城市永済市、伝説上の舜帝の都があったとされる)に至り、舜を祭った。その後、元宏は長安に到着した。
元恂は既に皇太子を廃せられ、過ちを悔いていた。御史中尉の李彪は密かに元宏に報告した「元恂はまた側近と叛逆を謀っている」
元宏は中書侍郎の邢巒をして、元禧と共に、詔を携えて毒酒を河陽に届けさせ、元恂に死を賜った。粗末な棺桶や服で河陽に埋葬した。
5月、元宏が長安から東に帰るにあたって、渭水から黄河へ船で下ろうとした。
西周の文王を豊邑に、武王を鎬京に祭った(豊邑も鎬京も長安近郊にある)。
6月、洛陽に帰還した。
魏は冀州・定州・瀛州・相州・済州の5州から20万の兵を徴発し、まさに南征しようとした。
穆泰の乱にあたって、穆羆(中書監、魏郡公)は乱に通じていた。穆泰への連座を赦した後に穆羆も当事者であったことが発覚し、穆羆は官爵を失い平民となった。司空の穆亮は穆羆の弟であり、司馬の慕容契(慕容皝の五世とされる、北魏の名臣慕容白曜の甥)に業務を託した上で、自ら弾劾した。元宏は特別に詔して辞職を認めなかったが、穆亮は固く請ってやまなかった。ついに穆亮の辞職を許した。
魏は六軍を分けて編成し、進路・駐屯地を定めた。
7月、魏は昭儀の馮氏を皇后に立てた。馮皇后は太子の元恪の養母となることを望んだ。元恪の生母の高氏は代より洛陽に向かい、急に共縣(河南省新郷市輝県市)で死んだ(資治通鑑は馮皇后が殺したとするが、子貴母死だった可能性もある)。
穆亮を征北大将軍・開府儀同三司・冀州刺史とした。
8月、魏は戒厳令を出した。
497年8月から始まった元宏の斉に対する親征では、主に荊州方面から侵攻し、北魏優勢であったが、498年9月に蕭鸞の死を知った元宏は、喪中の斉を伐つのは非礼にあたるとして兵を退いた。前後の記載からすると、北方にある高車の脅威や自身の疾病が本当の理由であったかもしれない。
重臣の李冲は洛陽の留守を預かっていたが、同じく洛陽に居た重臣の李彪と対立した。李冲は、法務を掌握した李彪が好き勝手振る舞っていると弾劾した。李彪は死刑に相当したが、元宏はこれを減じ免職とした。
穏やかな性格だった李冲は目を怒らせて大声を出し、机を投げ折り、罵詈雑言を浴びせるようになった。ついに発病し、動悸し、言語は錯誤し、腕を振り上げて「李彪は小人」と称した。医者で治療できる者は無く、ある者は肝臓が裂けたと診断した。それから、10日余りで死んだ。498年3月のことである。
魏の南征にあたって、北方の高車でも兵の徴発を行っていた。遠征を嫌った高車は、498年8月、袁紇樹者を主として魏に叛いた。魏は宇文福(前出)を派遣したが敗北した。つづく元継(拓跋珪の玄孫、江陽王)は武力のみでは乱が大きくなると考え、首領のみを斬って残りは慰撫する懐柔策を採用した。袁紇樹者は柔然に逃亡し、反乱軍は次々と降伏、同年11月に乱を平定した。
498年9月、元宏は重篤な病となり、10日間侍臣とも会えなかった。左右にはただ元勰(前出)ら数人のみだった。元勰は中では医薬を行い、外では軍務を総括した。皆つつしんで畏まり、異論を挟む人は居なかった。
徐謇(右軍将軍、丹陽出身)は医術に通じていた。彼は洛陽に居たため、急いで召集し、徐謇到着後に元勰は泣いて手を取りながら言った「至尊(元宏)の病を治せたら、思いのほかの褒賞を取らせよう。治らなければ不測の罰があるだろう。ただ君自身の名誉・恥辱だけでなく、国家の存亡に関わる」
元勰は密かに祭壇を汝水のほとりに作り、周公の故事に習い、天地および顕祖(献文帝・拓跋弘)に告げ、自分を元宏の身代わりにするよう請うた。
元宏の病は少し良くなり、懸瓠(河南省駐馬店市汝南県)を出発して、汝水のほとりに宿泊した。百官を集め、徐謇を上席に座らせ、その功を称揚し、鴻臚卿・金鄉縣伯の官爵と、多くの銭を授与した。諸王にも布千疋以上を賜与した。
11月、元宏は鄴に行った。
499年
1月、元宏は鄴を出発し、洛陽に戻った。
元宏は李冲の家の前を通った。病で臥せていたが、これを見て泣いた。留守の官と語って李冲の話題になると、また泣いた。
元宏は元澄(前出、任城王)にいった「朕が洛陽を離れて以来、旧俗は少し変わったか」
元澄「聖化、日々に新たなり」
元宏「朕が城に入って車上の婦人を見たところ、なお帽子を被り、胡服を着ていた。どうして日々に新たなりと言えようか」
元澄「胡服を着る者は少なく、着ない者が多い」
元宏「任城、これはどういう言葉だ。城内の全員に悉く胡服を着させたいのか」
元澄と留守の官はみな冠を脱いで謝った。
魏は大赦した。
元宏が鄴に行幸したとき、免職後郷里に帰っていた李彪は、元宏を鄴の南に迎え、拝礼謝罪した。
元宏「朕は卿を任用したいが、李冲を思って止めている」
元宏は李彪を慰めた。
たまたま御史台の令史である龍文観が告げた「元恂が収監された日、手紙で弁明したが李彪は聞かなかった」
尚書は上表して李彪を捕らえさせ、洛陽に送った。元宏は、李彪が無実だと思っていた。縛られることなく牛車に乗せられて洛陽に送られていたが、このときの大赦で免れた。
2月、元宏は連年外に居り、馮皇后は宦官の高菩薩と私通した。元宏が懸瓠(前出)において病で危篤となった時、皇后はますます増長した。中常侍の雙蒙らが皇后の腹心であった。
彭城公主(元宏の妹)は宋王劉昶の子(劉承緒)に嫁いだが、寡婦となっていた。皇后は同母弟の馮夙と公主との結婚を求め、元宏は許可した。公主は希望しなかったが、皇后が強制した。
公主は密かに召使いと共に雨のなか懸瓠へ行き、元宏に訴え、かつ皇后の所業を詳細に伝えた。元宏は疑ってこれを秘した。皇后はこの状況を聞いて初めて恐れ、密かに母の常氏と共に巫女に祈祷させて言った「皇帝の病が治らず、文明太后(馮太后)のように幼い国主を輔けて政務を執ることができたなら、測り知れない褒賞をとらせよう」
元宏が洛陽に帰り、高菩薩・雙蒙らを捕らえて取り調べ、詳細を話させた。
元宏は夜に皇后を呼ぶと、高菩薩らに命じて皇后の淫乱な実態を陳述させた。元勰と元詳(ともに元宏の弟、前出)を呼んで言った「昔は汝の嫂(あによめ)だったが、今は無縁の人である。今後この人に遠慮して避ける必要はない」
また言った「この女は、私の脇腹を刺そうとした。文明太后の親族だから廃后することはできない。ただ空しく宮中に置こう。人の心があるならば自殺すべきだ。汝らは、私にまだ情愛があると言わないでくれ」
元勰と元詳の二王が退出した。元宏は皇后に別れの言葉を与えた。皇后は何度も頭を下げ、地に額を付けて泣いた。皇后は後宮に戻り、女官達は馮氏への皇后待遇を続けた。ただし、元宏は太子元恪に命じて、再び参内させなかった。
元勰を司徒とした。
斉の陳顕達は、魏の元英(元宏のいとこ)に対して優勢だった。元宏は陳顕達相手だと親征で対抗するしかないと考えた。
3月、元宏は洛陽から梁城(河南省汝州市)まで出馬した。
元宏が病になってから、元勰(前出)常に医薬に従事し、昼夜元宏の近くを離れず、飲食も先に自分で毒見をしてから進め、容姿も乱れる有様であった。元宏は病が長期化し、怒ることも増えた。近侍が指示を違えた場合、ややもすれば誅斬しようとした。元勰がとりなして彼らを救うことも多かった。元勰を使持節・都督中外諸軍事に任じた。元勰自身は看病に専念しようと考え、軍事を別の王に任せるべく辞退した。元宏は六軍を任せられる者が元勰以外に居ないと言った。
元宏は馬圏城(河南省南陽市鎮平県)まで移動し、斉の退路を断とうとした。親征の甲斐もあって陳顕達は敗走した。一方の元宏も病甚だしく、北に帰った。
穀塘原(河南省南陽市鄧州市)に着いた。司徒の元勰に言った「皇后は陰徳(皇帝の陽道に対応)に背いた。吾が死んだ後は自殺させるように。葬送は皇后の礼でよい。願わくは馮一族の醜態から免れんことを」
また言った「吾が病はますます悪化している。再起不能だろう。陳顕達は撃破したものの、天下平定は成っていない。皇太子の元恪は幼弱だ。国家の行く末はただ汝にある。霍光・諸葛亮は、異姓にもかかわらず後を託された。いわんや汝は親族中の賢者だ、これを勉めることが出来ないはずはない」
元勰は泣きながら言った「平民でもなお己を知る者のために命を懸ける。まして臣は霊を先帝に託し(兄の元宏と同じ気を持つ)、陛下の栄光のおこぼれに預かる立場である。臣はただ、陛下の近親という理由だけで政権の中枢に参加し、恵みのまばゆさは海内随一である。これまであえて受け、辞退しなかったのは、陛下の聡明さであれば、臣が辞退を忘れても許してくれると期待していただけである。今また宰相に任じられ、全権を掌握すれば、主上を脅かすという声が出て、いずれ罪を受けることが必定である。昔、大聖なる周公と至明なる成王ですら、なおこの疑いからは免れなかった、まして臣であればどうなるか。このようになると、陛下が臣を愛することで、有終の美を全うできなくなってしまう」
元宏はしばらく黙ってから言った「汝の言葉を詳細に検討したが、その理屈に反論するのは実に難しい」
太子に手詔して言った「汝の叔父元勰は、清規懋賞(ここは上手く訳せなかった)、白雲のように清く、栄達を厭い官印を捨て、松竹のような心を持っている。吾は幼少時より共に過ごし、未だ離れるに忍びない。百年の後に元勰が辞職することを許し、その謙譲の本性を遂げさせよう」
元詳(前出、元宏の弟、侍中・護軍将軍・北海王)を司空とし、王粛(前出、鎮南将軍)を尚書令とし、元嘉(拓跋燾の孫、鎮南大将軍、広陽王)を尚書左僕射とし、宋弁(前出、尚書)を吏部尚書とし、元禧(前出、元宏の弟、侍中・太尉)・元澄(前出、尚書右僕射)らと共に6人、政を輔させた。
4月、元宏は穀塘原で死んだ。享年33。
放論
元宏による洛陽遷都は北魏における大きな転換点だった。
中華の中心点である洛陽に都を定め、祭天行事・言語・衣服・氏姓などを中華風に改めた北魏のあり様は、中華支配の正統性を示す材料としてプラスに働いたであろう。斉が傍系による簒奪の渦中にあったことを考えると一層効果的なタイミングだったかもしれない。
一方で、急進的な漢化に皇太子元恂や穆泰といった皇族・旧臣が反発した。元恂や穆泰の暴発は抑えたものの、北族の不満は残り続け、後の六鎮の乱、それに続く爾朱栄らの台頭で拓跋氏の支配体制は事実上終わった。
また、地理的な側面からも元宏の遷都には問題点がある。洛陽は四方に開かれているため防衛しにくく、統一王朝の首都に相応しい一方で、その途上にある政権の首都としては疑問視される地勢であった。これは歴史が証明している(戦略的価値の観点から、洛陽は囲碁における天元と似通っているように思う)。軍事力の根拠たる馬の供給経路を考えても、河西に近い長安の方が首都として好ましかったのではないだろうか。
混乱期にあった斉を前に行うべきことが、洛陽遷都だったのかという疑問もある。遷都やそれに先立つ大規模動員のリソースを他に振り向けるべきだったのではないか。
さらに言えば、大規模動員のブラフ、洛陽遷都で国家の重心を南に移しつつ中華統一への野望を露わにしたこと、これら魏による一連の動きが斉の危機感を強め、蕭鸞への権力集約をむしろ早めた可能性すらある。洛陽遷都がひと段落した後で実際に親征を行ったものの、斉は蕭鸞を核とした体制がほぼ固まっており、遅きに失した。
踏み込んで言うと、何よりもまず、斉を丁寧にスカウティングして、反蕭鸞陣営を支援したり、斉の分裂を煽ったりすべきだった。北方の柔然・高車を攻める振りなどして、南方への無関心を装えばなお良かったろう。同様の提案は、三国志における袁紹死亡後、郭嘉が曹操に対して行っている。
遷都と同時に行った人事刷新も、適切なタイミングであったのか甚だ疑問である。
元宏が自分と遭遇した障害者・罪人のみを救った行為は、彼の性質を象徴している。社会福祉制度に手を入れ、軍規に例外を設けないのが為政者としての正しい姿勢であるが、元宏は自らの皇帝像を臣民に適用すべく、ある時は場当たり的な対応を行い、ある時は法を曲げた。資治通鑑の編者たる司馬光も同様の批判を行っている。
北魏という国家に対しても、中華王朝としてのあるべき姿を、脳内シミュレーションによる箱庭構想そのまま具現化しようと試みた。司馬光は元宏を魏の賢君としているが、私自身は首肯しかねている。
資治通鑑を読み進めることで、時系列順の歴史イベントだけでなく、熟語、中華の故事やそれに対する当時の解釈など、自分の引き出しが増えていくことを実感できる。読解は骨が折れるものの、さすがは中国を代表する史書というべきか。
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