南朝創業紀 その3 蕭衍の梁

蕭衍の父である蕭順之は、南朝斉を創建した高帝蕭道成の族弟(一族の年少者)であった。
蕭道成・蕭順之をさかのぼると、共通の祖先として高祖父(祖父の祖父、4世代前)の蕭整で結びつくとのことである。

蕭道成の孫である蕭子良は、南朝斉を代表する文人であり、儒学・老荘・仏教の全てに通じていた。蕭衍は蕭子良サロンの著名人「竟陵八友」に名を連ね、文化的中心を担った。

時代は下って、その後暴君とされる皇帝蕭宝巻(東昏侯)が、蕭衍の兄である蕭懿を殺した。これにより決起した蕭衍は蕭宝巻を殺害し、代わって擁立された蕭宝融(和帝)から禅譲を受け、梁の皇帝(武帝)となった。
ちなみに蕭宝融は禅譲直後に殺された。

蕭衍の在位は47年という長期に及ぶもので、魏晋南北朝において最長である。その安定した治世と、六鎮の乱・北魏分裂といった北朝の混乱により、梁は北朝に対し最も優位を示した南朝政権となった。
梁の勢いを象徴するのが、小姓出身の陳慶之を派遣し、北魏の首都洛陽を陥落させた一件である。
文化面でも、皇太子の蕭統(昭明太子)の下に優れた文人が集まり、編纂された文選は中国古典文学における不朽の名著となった。蕭統のサロン形成について、斉の蕭子良が意識されていたことは間違いない。

南朝の最盛期を現出した蕭衍だったが、後半生は仏教への傾倒により国を傾けた。
蕭衍は建康の北側に自ら建立した同泰寺に行幸し、皇帝の位を捨てて仏道に身を捧げた。その後臣下達が多額の寄付により蕭衍を取り戻した。
この一連の流れは何度か繰り返されたが、洛陽奪取や侯景の帰順など、梁にとって重大な慶事に連動していたことを言及しておく。
しかしながら、結果的に梁の財政は逼迫し、その治世に暗雲を落すことになった。

侯景が東魏の実質的支配者である高澄との対立により梁に帰順してきた。
蕭衍はそれを好機として、北伐を試みたが侯景ともども敗れてしまった。
敗れた侯景を受け入れようとした蕭衍だったが、梁皇族との人質交換を恐れた侯景は反乱を起こした。侯景は不満を持った皇族の抱え込みや奴隷解放などで、蕭衍勢力の切り崩しを行い、最終的に建康を落とした。
捕らえられた蕭衍は、その後幽閉の上餓死させられた。
蕭衍の死をもって、梁の実質的な命脈は尽きた。

蕭衍は皇帝菩薩と呼ばれていた。ここで疑問なのは、なぜ如来でなかったのか。
中国の皇帝は歴史的に天子であると考えられてきた。
天子とは、天から世界の統治を委ねられた存在で、天子が統治者に相応しい徳を失うと天は為政者を交代させるという論理がある。
始皇帝が意図した皇帝の在り方は全く違う(天そのものと同格、あるいは天を超える存在として君臨する)はずなのだが、秦の短命や司馬遷の歴史観などが影響したのか、各王朝を経る中で結果的にそうなった。
蕭衍が如来を名乗らなかったのも同様の論理を感じさせる。現世に生きる者として、超えてはいけない一線があるという考えである。対して北魏では、皇帝即如来の考えが一般的で、仏教は皇帝の支配下にあるものとされた。

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