石虎への直言
五胡十六国時代において後秦の基礎を築いた姚弋仲、彼に関して大好きなエピソードがある。
梁犢が反乱を起こし、その勢いを恐れた後趙の石虎は、首都の鄴に姚弋仲を招集した。
石虎は重病で面会できなかったので、飲食を与えて労おうとした。それに対して姚弋仲は怒り、「私は賊を討つために来たのであって、食事をねだりに来たのではない、主上の容態がわからない、一目でも会わせてもらえるなら死んでも恨まない」と言った。左右の者は姚弋仲を石虎に引見させた。
そこで姚弋仲は石虎に言った、「子供たちが死んで後悔しているのか、それで病んだのか。子供たちはそれを補佐する人々をうまく使えなかった、そのため彼らを殺す令に至った。子供自身の資質にも問題はあったが、お前の付けた側近達の人選が悪かったせいで反乱に至ったのだ。汝(お前)は病んで久しく、今度立てた皇太子(石世)もまだ幼若だ。この状況が変わらなければ天下は乱れるぞ。心配すべきはまさにこれ(石虎の病状と後継者問題)であって、今回の賊などどうでもいい。梁犢は故郷に帰りたいという願望だけで、盗み・強姦など賊の残党のような行為に至った。(大義の無い)この乱は捕らえるだけで片付く。(とはいえ強敵であることは確かなので)この老いた羌人が死戦の前峰を引き受けよう、すぐ終わらせる」といった。皇帝を汝と呼ぶ姚弋仲の不敬を石虎は咎めなかった。
姚弋仲は「この老羌が賊を破るまで死なずにいられるか」と捨て台詞を残して討伐に向かい、見事に梁犢の乱を鎮圧したのだった。
この件の背景と解説
石虎は、石邃・石宣と二人の皇太子を、反逆により殺さざるを得なかった。石宣の末子、つまり石虎にとっての孫だが、石虎はこれを溺愛したとされる。それらを含む石宣一家の死亡が石虎発病の直接的な原因とされている。
また、梁犢は高力と呼ばれる東宮衛士(皇太子石宣の護衛役)のリーダーであった。つまりこの乱自体が、石宣粛清に付随して起こった出来事だったのである。
ちなみに、高力は1人1人が兵10人以上に相当する精鋭だった。梁犢の乱は1万余り居た高力を中核とし、西の涼州から長安・洛陽と進み、最大で10万ほどの勢力になったとされる。後趙は、領土の西半分を事実上失っており、決して楽観視できる状況ではなかった。
子の不出来を嘆く親は多いが、その大部分が授けた教育の問題である。姚弋仲は教師役にその責を負わせているが、石虎自身が授けたものについても暗に非難している。さらに言えば、石虎自身の粗忽な振る舞いが子供達に与えた影響についても考慮せねばならないだろう。
姚弋仲の発言は、子を持つ親としての金言と評するしかない。正直なところ、下手に解説するのは野暮だと自覚している。
このようなド正論を吐いた姚弋仲が、自身の子供達にどのような教育を施したかについて、次回で検討したいと思っている。
姚弋仲の言葉は、厳峻ながら石虎の身体と後趙の行く末を案じる真心のこもった内容でもあった。姚弋仲は石虎の簒奪を糾弾するなど、石虎にとっての直言居士だった。道理の通った直言が、頭でっかちの漢人官僚でなく、武名の通った胡人の口から出てくるのは貴重である。
とはいえ、こういった忠告は耳に痛く、凡人だとなかなか聞き入れられない。姚弋仲を重用していた石虎、彼は北方民族としての粗野な部分を多く残していたのだろうが、一般に評されるような稀代の暴君や暗君だとは信じがたい。在位中における反乱の少なさ、政権の安定感もそれを補完する。史書に残されるその乱脈ぶりには、後世の誇張・捏造を含む可能性がある。
姚弋仲は石虎より16歳ほど年上だったとされる。
自身より遥かに若い石虎の長久を願って叱咤する有様には、形容しがたい愛情を感じ取ることができる。
その後まもなく石虎は死亡し、後趙は混乱期を迎えたのだが、姚弋仲は後趙が滅亡するその時まで義理を通しつづけた。
一方で、石氏への義理立てゆえに、氐族の蒲氏(苻氏)と比べて割拠が遅れる結果となった。
コメント